第18話
週末、約束の日曜日、送っていくという母の言葉を断り、洋平は小さなスポーツバッグ一つをもって例の女、小原涼子との待ち合わせ場所であるターミナル駅に向かった。
駅という事で地元の富士遠見駅かと思っていたが、事情を知っている付近の人々に見られたらまずいからという理由でここにしてほしいと前日に連絡が来たらしい。
「ちっ、有名芸能人気取りでさぁ、誰もここいらの連中誰もお前の顔なんか知らねーよ。あのオタクのきもい記者じゃあるまいし」
毒づきながら指定された時計台前につくと、きっと家に来た時のように大幅に遅れてくるだろうと思っていた小原涼子は、先にそこで待っていた。
「あ、遅くなってすみません」
本当は数分余裕があったのだが先に待たれていたのが意外過ぎて、ついそんな言葉が出てしまう。
「あらいいわよ、気にしないで」
洋平がつくと同時にちらりと背後の時計を見た小原涼子もそれに気付いているはずなのに、まるで遅刻してしまったかのような洋平の言葉を否定しない。
「ずいぶん時間があったから、マンウォッチングしていたわー大きい駅っていろいろな人がいるものね、ほら私普段電車にあまり乗らないから」
そんなん知らねーし、電車乗らないとか芸能人自慢かよ。そんなに長いこと待ってても誰にも気付かれてねーし!本当に女優なのかよ、コイツ。なんかすげーでっかい帽子被ってるし、また真っ赤かよ、あーつばにぶつかりそう、邪魔なんだよ!それに俺ちゃんと時間前に来たのに!勝手にそっちが早く来たんだろ。
心で毒づく洋平の心情など全く気付かない様子で、小原涼子は大きな防止のつばをやはり深紅に彩られた長い爪でふにふにと弄ぶ。
「じゃ、行きましょうか」
そして、傍らに置いておいたキャリーケースを顎で指すと、すたすたと改札へと歩いてゆく。
えっ、何?俺に持って行けってこと?これぐらい自分で持てよ。転がしていけばいいだけだろ。
むしゃくしゃしつつもキャリーケースをごろごろ引いて、洋平も後を追う。
これからどこに行くのか、何の説明もなく乗った電車は洋平が考えていた小原涼子の自宅があるであろう都心ではなく、田舎へ向かう下り方面だった。
「じゃ、ここで降りましょう」
小原涼子が降りて行ったその駅は、洋平が初めて降りる、けれどいつかいた場所である吹本駅だった。
「ここね、私の地元なの」
知っている、検索したから。
自分の捨てられたコンビニのトイレがあった場所。
この女は、小原涼子は、自分をここに連れてきて一体何をしようというのだ。
「なぜこんなところに」
わなわなと震える洋平に、小原涼子は大きなサングラス越しに怪訝そうな視線を向ける。
「来たくなかった?アンタの生まれ故郷よ」
「それは……知ってるけど」
何故それで来たいと思っているなどと思えるのか。コイツの頭ん中は一体どうなっているんだ。
何故俺はこんな女にほいほいついて来てしまったんだろう。
目じりが熱くなってくる。でも小原涼子の前で絶対に涙なんか見せたくはない。震える唇をぎゅっと噛み締めていると、少し鉄の味が滲んできた。
「ふーん。来たくなかったんだぁ、ひょっとしてさぁ、女優の家に行くから都心の高層マンションで優雅に過ごせるとか期待しちゃった?」
ここについてから急にざっくばらんな口調になり、悪戯っぽく笑う口元、見ているとイライラする。
「そんなん期待してない!勝手に決めつけるな!」
洋平もまた敬語を脱ぎ捨てる。
「あーあ、お母さんの前ではあんなにおとなしくていい子ちゃんだったのに、本性はそれ?」
「はっ、アンタがイラつかせるからだろ」
ムカつく、ムカつく、ムカつく、こんなんから生まれて来たと思うと無性に腹が立つ。
「あははーそれでいいのよ、思春期の男の子なんてそんなもんでしょ。アタシの前ではそうやって素直でいなさいよ」
「はぁっ、意味わかんねーし」
まるで洋平が家では猫を被っている様な物言いだ。
知らないくせに、何も知らないくせに。
これまでの十四年間を何も知らないくせに。
「母親ぶるなよ。お前なんか赤の他人だ!」
むき出しの感情をぶつける洋平に小原涼子は全く動じず、少しも悲しそうな顔も見せず、けたけたと笑う。
「そうよ、あたしはあんたを産んだだけの赤の他人、はっ、ひょっとして僕ちゃんママに甘えたかったのー?ご愁傷様」
「そんなわけねーだろ!クソが」
「じゃあアンタはクソから生まれたってことだね」
人通りのほとんどない駅、それでもホームで言い争う少年と女に、前の通りを歩く人々が怪訝そうな目を向ける。
「あー、もう面倒くさい。もう行くわよ」
「どこへ行くんだよ!つーかキャリーケースぐらい自分で持てよ」
洋平の問いには何も答えず、やはりキャリーケースも持たず、小原涼子は前を行く。
このまま今来た電車に乗って、家にさっさと帰りたい。
でもそういう訳にもいかないのだ。両親をこれ以上心配させたくない。
どんどん遠ざかる小原涼子の背中につばを吐き捨てたい衝動にかられながら、洋平は仕方なくとぼとぼと歩いた。
既に呼んでおいたのだろうか、駅前のローターリーにはぽつんと一台だけタクシーが停まっていて待ちくたびれたような運転手は終止不機嫌なまま一言もしゃべらずにさびれたシャッター街を通り抜けあぜ道をガタガタと進んでいく。
右を見ても左を見ても田んぼ、ラジオもつけずシーンと静まり返った車内で小原涼子は帽子を顔に被って寝息を立て始めた。
寝息と、窓の外からかすかに聞こえるカエルの鳴き声、息が詰まる。この地獄のように退屈なドライブは一体いつまで続くのだろう。スポーツバッグの中身はわずかな衣服と母に持たされたレトルト食品のみ、暇つぶしになるようなものは何もない。鉄道模型のお返しにと町田に戻る希に携帯ゲーム機をあげてしまったのが悔やまれる。兄さん風を吹かして格好つけるんじゃなかったと後悔しながらいつまでも代り映えのない窓の外の緑を眺めていると、突き当りで急にタクシーは停まった。
「お客さん。着きましたよ」
運転手が初めて声を発すると、小原涼子はもぞもぞと起きだして一万円札をほいっと投げるようにして渡した。
「お釣りは結構よ」
ちらりとメーターを見ると、8900円、礼を言うほどの額でもないと思われたのか運転手は何も言わなかった。
「なぁ、こんなところで何するんだよ」
相変わらずキャリーケースを引かされながら洋平がブツブツいうと、小原涼子はあごでくいっと田んぼの先を指して「ここはただの通り道」と答える。
「はぁ?じゃあ目的の場所までタクシー乗ればよかったじゃんか。何で途中で降りてんだよ」
尚もブツブツ言うと、チッと舌打ちで返された。
「はぁ、やってらんねぇ」
「アンタ文句が多すぎるのよ、はぁ、ぼさっとしてないでキャリーケース開けてよ」
自分で開ければいいだろうと言ったとしてもこの女は何もしないだろう。もう文句を言い返す気にもならず乱暴にぐいっとファスナーを開けると、何かにぴっと引っかかった。
「ちょっと、もっと丁重に扱いなさいよ。それ結構高いんだから」
口を曲げて無言のままの洋平からキャリーケースを引っ手繰ると、小原涼子は履いていたヒールを脱ぎ捨て、ファスナーに引っかかっていたスニーカーに履き替える。
「ここから道が険しくなるから、しっかりついてきなさいよ」
やはりどこに行くのか何も告げず、ずんずんとあぜ道の先へと突き進む小原涼子、スポーツバッグとキャリーケース、大して重さはないとはいえ、普段アスファルトの上しか歩かず足場の悪い場所に慣れていない洋平にとって、その荷物はかなりの負荷を感じるようになってきた。
だんだんと後れを取り始めた洋平に、小原涼子は時折振り返ってはちっちっと何度も舌打ちをする。
「ほら少年、若いんだからもっととっとと歩きなさいよ。まだ先は長いのよ」
はぁはぁ息を切らしながら行き着いた先、あぜ道の向こう側にあった林を抜けて、けもの道のような舗装されていない山道を登りその中腹にあったのは別荘というにはみすぼらしいが、小屋と呼ぶには少々立派な古ぼけた日本家屋だった。
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