Episode.13...He is picking out a girlfriend from a long time ago.

<波闇健三 side >

 銀杏苗はあの海に沈んでいく地平線を見て想った。

 鉛のような鈍重な痛みを抱え、動くこともままならない今の私のちっぽけな空の筐体のような体の一部を撫でる。

 心の傷跡を吹き抜ける風が愛おしい。

「銀杏さん。銀杏さん。銀杏苗さん。診察の時間ですよ。屋上から戻って下さい」

 四角く切り取られた空を見る。こんな人工的に切り取られた空を拝むことになるとは思ってもみなかった。

 愛する青年の元へ、迎えに行けないのだろうか―――?

 銀杏苗は、彼の留学を応援していた。そのためには、十万くらい費用が足りないんだけどねー。あっはっは。などと快活に笑う彼が小憎たらしい半面、少年っぽいあどけなさを残していて、一緒に山に登って遊んだあの涼しい秋中の風を思い出し、身震いがした。

 そんな一瞬の残影を残して去っていってしまった彼の後を追いかけよう、としただけなのに―――。

 どうか、誰か、願いがかなうならば、銀杏苗も彼の後を追って幸せになりたい―――。

「心拍数が低下しています。容態が急変した、らしいです。宮坂医師に連絡して。何、学会で出張に出かけているですって―――。どうしたら、良いのよ。もう」

 そんな体温計を置いて、ナースコールを押す。すると、宿直の医師の一人が駆け付けてきて、呼吸が乱れている苗の薄い色をした胸に手を当て言った。

「内出血しているじゃないか。紫色に変色している。……ショックのせいで、小さな動脈瘤が出来ている可能性もある。すぐにMRIを取った後に、必要ならば緊急オペだ。出刀の担当は経験がないが、私がやる」

 大学病院だったので、未経験の若い医師が宿直に来るのも珍しいことではない。経験を積むには良い機会なのであるが、ひっくり返してみると、これほど危険なこともない。普段はベテランと共に手術を行わなくてはならない。それを無視せざるを得ないくらい、容態が悪いのと、急な判断を迫られ、判断ミスをしてしまったのかもしれない。

 本当にただの動脈瘤だったのだろうか。普通は動脈瘤は下肢に出来るものである。よほど食生活でも悪くない限り心臓には出来ないものだが―――。

 そう考えていた若い医師に不安がよぎる。このままでは医療ミスをしでかすかもしれない。そう思いながら胸に聴診器を当てると、呼吸が異常だった。

 脈拍の乱れはもしかしたら、喘息かもしれない。

 若い医師はそう思い、携帯用の喘息の薬を勝手に投与した。すぐに脈拍は正常に戻り、心拍数の乱れも徐々におさまった。

 カルテには病名を記載しないことと書いてある。

 カルテに一切記述がなされていない、とはどういうことだろう?若い医師が不審に思って、来歴を調べてみると、暴力団組員の娘とだけ書かれていた。病名等一切無記名で、情報を非公開で治療にあたるよう宮坂医師が言っていたことを思い出した。匿名の緊急患者なのだろう、とばかり思っていたが、それにしても異常だ。

 やはり、利権による情報操作なのだろう。組員も利用できるよう、内密に土地の利権を渡し病院を創設したことは知っている。大学と、暴力団との暗く汚い関係だった。

 警察からの追及を逃れるための、医療における健康へのパスポートとも呼べるシステムと化してしまっている。

このような状態を許せない、と正義を振りかざしていた先輩医師を知っているが、もう先週から別の病院を開業して、一人でやっていく方針を固めている。

 若い、有力な医師であれば、そのようなことも可能だろう。しかし、金のない貧乏な医師はそんな財力もなければ、正義も振りかざせないのだ。

先輩医師に、コネで雇ってもらえるよう頼もう、と思った次第だった。こんな癒着した関係が長続きするはずもない。現にやってくるのは怪我をした暴力団員の住処と化している。

『白い巨塔』や、『チームバチスタの栄光』を見て育った世代としては、こんな悪に満ちた環境から脱出したい、という若々しい立派な意思がある。

 今のうちだけだ……今のうちだけなんだ……と思って過ごしている若い医師こと、波闇健三医師が、リノリウムの床をスリッパで歩いてくる患者に挨拶して交差する。

「すいやせん。また、先生の世話になっちまいました」

「いいえ。早くお元気になるといいですね」

 そんな会話の内に秘めていた想いは裏腹のそれだった。いつか、この病院はどうなってしまうのだろう―――。

 こんな悪だらけの環境に、正義の鉄槌が下ることを祈っている。

 それだけは間違いなかった。






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