Episode.2...始まりは壊れかけの玩具と共に.
あたしはカフェオレの缶を丁寧に持ち上げて捨てた。トランプのハートのような存在ににも似た詩井萌絵のことを思い出すと雪を踏みしめる。凍えた身体の体内に注がれたカフェオレが全身を巡る。
オーバーワークスから出ていった。こんな時、温かいコーンスープが飲みたい、とあたしは思った。後は、優しく包んでくれるベッド、そしてふかふかのタオルケット。だが、そんな静寂に包まれた安寧はどうしたことか、無残にも去っていくのだろう。後で寝る支度だけは整えておくつもりだった。
あたしたちは、この街のガードリーダー。お兄ちゃんは伊崎渉という名前だったけれど、あたしはお兄ちゃんとしか呼んでいない。そんな仲でもないからだった。
街にのさばっている悪を退治する。それだけの役割を持ってこの街に住んでいた。それも金のためだった。
生きるためには仕方がない。お兄ちゃんのいつもよく言う言葉だった。口癖?と言うんだっけ。
口癖と呼ぶにはあまりにも当たり前の事実を目の当たりにして来たから、もう慣れたというのもある。
真気。
その存在をあたしに知覚できたのは小学生の頃だった。当時は何か、超能力めいたものなのかな、と思ったら、このあたしだけに存在するエネルギーのようなものだった。この街だとあたしはカッコよくなれる。真気が高いからだ。死と隣り合わせに直面している瞬間だけ、あたしは素敵な
たった、それだけでこの危険な街に息を殺すように潜んでいる『死神』である。この街で力を得たのはお兄ちゃんとあたしだけ。他の人間は区画から離れている。
じゃあ、誰が居るかって?
人間から、人間を除いた引き算から得られる答えは一つだけ。
異能の能力者との絶対的な衝突だった。
死狂世界と呼ばれたこの街にやってくることで生まれる唯一の怪物達。彼らが、あたし達の生きる糧となっている。
どちらが、正義か悪かわかりゃしない。
次々この街へやってくる移住者を退治しているあたしは何なんだろう。
悪だろうか。悪を断罪することは正義と一般的に評されるが、あたしは『正義』という絶対的な正しさをもった聖者、賢者であるという自覚はこれっぽっちもなかった。むしろダークサイドに落ちている一介の断片に過ぎない……
能力を得たいと願って、この街に移り住んでいる若者や浮浪者を悪だとは決して思えない。それに―――、とあたしは思う。
当時はそんなことありえない。
街から離れたくらいで私の能力が失われるはずがない、と信じ切っていた。しかし、それは誤りだった。信じていた仮想的な事実に裏切られる事は多々ある。若ければ尚更だ。
私の能力『写実主義』。
徹底的な模写により生み出されるコピー能力だった。戦う相手をコピーし、同等の能力を持った存在を創り出す。
代償として相手の声に声変わりするという欠点もあるが。お兄ちゃんとしか会話しない私にはもう恋愛という概念は終わったものだった。
終わりも始まりもない。
しかし……
『君、よく保健室にいるね。暖かいココアを淹れてあげようか?』
『いえ、結構です』あれ、この頃は大人しかったっけ?
『何故、私が数学を教えていると思う?私は作家に成りたかったんだ。それは数式って文章のように意味が正確に伝わるように書かないといけない。だから、この教師という仕事で、作家の真似事をしてるんだ』
『それは詭弁です、先生。そんな脆い思いで教師の仕事が続くのですか?』
『脆弱な幻想ほど長く続くものだよ、伊崎さん』そう言って、彼はコーヒーに口を付けた。そして、ハイカラなタバコをすう。ミントの香りがするらしくって女子生徒に人気だとかいう理由で吸っているらしい。
『タバコは健康に良くないですよ、宮本先生』
『タバコが健康に悪いんじゃない、健康が偶然、悪いと指摘し始めて来たんだよ。それ以前は健康には何ら害がなかったはずだ』
『それも詭弁です』
『伊崎さん』そう言って頭を撫でる。『もう丁度三度目の春を迎えたようだ。夏は、太陽が輝き、私という存在を消してしまうんだ。きっと蒸発してしまう。伊崎さん、あなた他所で奇妙な事してるんだってね』そう言って笑った。目は笑っていなかった。
『パレットの事ですか?』
『うん。一度で良いから私の事を描いて欲しい』
『青い空に消えていってしまう可能性がありますけれど』そう言ってあたしは微笑した。
『良いよ。いっぺん私も青い空まで飛びたくなった時期もあったからね。私は飛んでしまおう。存在と共に』
『存在ってなんですか?』
『知らないのも無理ないね。勉強しておきなさい。学生は勉強したほうが良いよ。人の存在っていうのはね、鈍感で脆弱な者の集まりなんだ。ぬかるみみたいに泥沼にハマってしまう。最近私も上司との世界に嫌気がさしてね。だからもうこの世には飽きたんだ。厭世観だね』
『そうですか』そう言って、私は、スケッチブックを取り出す。クレヨンに先生の絵を七色で描いた。虹をイメージした方が素敵でしょ?
だって、唯一愛した男なんだから、素敵に描きたいじゃない。
そう思って、あたしは必死に描いた。誰にも邪魔されず、二人だけの静かな空間があたしの体温の上昇を促している。たったそれだけの事実をあたしは真剣に愛していた。だけど、彼は消えていった。闇の月が妖しく煌めく幻想の街へと消えていった。そしてその街があたしの住処になった理由だ。彼を追っかけて救い上げたかった。純粋な上澄みをすくい上げるようにゆっくりと、彼をすくい上げたかったのだ。真剣に。
そんな一部始終をかれこれ知ったお兄ちゃんにしか、私のことは理解できない。この街に住んでしまった理由は私には理解できない。死神に成りたかった訳じゃないのに、死神という事実に慣れきってしまって業務を遂行している自分がいる。
理解できないが、仕方のない結論だった
近くのコンビニに入った。ショーウィンドウを通り過ぎ、お兄ちゃんがサンドイッチを購入する。エビカツサンドだった。冷めたまま温めることをしなかった。そのまま食べるのが良いんだ、と言い張る。温めた方が良いんじゃない?って萌絵からも言われていたのに、まだ聞いていないのか、と呆れた。
そして、回想の海へ……
「仕方がないな。お前、悩んでいるんだろ」
そう光の射す港で手を差し伸べた紳士。小学生のあたしを闇の世界へ誘った男性、それは今では探偵をやっている。ただし、紳士というには、あまりにも残酷で、狡猾であるという事実を彼女はこの街へやってきて初めて知ることになる。
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