#7

 崖から落ちて十数分ほどが経過した頃、青年は意識を取り戻していた。

 ボーッとしていた頭が少しずつ動いていく。

 ──そうだ、俺は確か崖から落ちて……。

 青年は思い出してハッとした。

 助けようと手を掴んでくれた彼女は大丈夫だろうか。

 仰向けで倒れたままの身体を勢いよく起こそうとする。



「へ!? え、あ、あ、え!?」



 自分の身体の上に彼女が乗っかっている事に混乱していた。

 彼女の意識がないのももちろんだが、身動きが取れない事への恐怖が上回っていく。

 ──どうしよう!? ………。



「……あれ? 怖くない…。」



 青年は今までと違って落ち着いている自分がいる事に驚いた。

 誰かに怖くて堪らない自分がどうしてここまで平気でいられるのだろう。

 心の中で考えながらあおの安否を確認する。

 息はある。見た感じ怪我もしていない。

 無事で良かったと一息ついたところであおが目覚めた。



「ふぇ……あれ、寝てた…?」



 あおは目を擦りながらゆっくりと上半身を起こし、青年の顔をぼんやりと眺めている。

 そこでしばらく時が止まり、二人は近距離で見つめ合っている事に気付いた。




「「わぁぁぁ!! ごめんなさい!!!」」



 二人は慌てて飛び起き思わず目を逸らした。

 あまりもの恥ずかしさに双方顔が熱くなっている。

 お互いが向かい合った状態で静かな時間が少し経ち、先に沈黙の時を破ったのは青年だった。



「あの、さ。さっきはごめん……逃げちゃって…。君まで巻き込むつもりはなかったんだ。怪我してない?」


「平気だよ。貴方こそ大丈夫? あと、こちらこそごめんなさい…。突然声をかけられて追いかけられたら怖いよね…。」




 あおも青年も無傷だった。

 あの高さから落ちて地面に叩きつけられても尚、落ちる前と変わらず身体を動かせている。



「思い詰めているみたいだったから心配で…。私で良かったら話聞くよ? あ、私はあおって言うの! 貴方は?」



 あおは微笑みながら返答を待っている。

 何故だか安心出来る彼女になら、話してもいいのかもしれない。

 少しばかりの沈黙が続いた後、ため息をついた青年がゆっくりと口を開く。



「……実は自分の事がわからないんだ。自分の名前も、ここが何処かも、も……。」



 青年はこれまでの事を話し出す。


 もう何日前なのかすらも覚えていない。

 海の見える小さな街の路地裏で目覚めた彼はよく分からないまま呆然と佇んでいた。

 真正面に見える海は光が反射して眩しく、思わず目を瞑ってしまうほどだった。

 そこから時計回りに見回すと壁沿いに円柱のゴミ箱があり、その周辺にちらほらゴミが散らばっている。

 それの近くには屋根が着いたベンチが置かれていた。

 辺りを見渡したのはいいものの自分の事が何も思い出せない。

 わかる事と言えば周囲にある物の名前がチラホラわかる程度だ。

 長く感じる時間が不安に変わり青年の心に恐怖が襲いかかってくる。

 そんな中、何気なしに空を見上げた瞬間に雨が勢いよく降ってきた。



「ちょ、さっきまで晴れてたじゃん!!」



 この一瞬でほぼほぼ濡れてしまった青年は近くの屋根付きのベンチへ避難する。

 この身一つで何も持っていない為、雨が止むまではここで過ごすしかない。

 思っていた以上に雨を凌げるのが幸いで、濡れた服を乾かしながら少し荒れた海を眺めていた。

 このまま海の中に落ちてしまったらどうなるのだろう。

 嫌なシーンが脳裏に浮かび、忘れようと首を大きく振る。

 ――頭が痛い……。

 その日は気持ちが沈んだままここで過ごす事になってしまった。


 ベンチに座り目を瞑っていたらどうやら眠ってしまっていたようで、青年が目を開けると既に雨は止み日が差し込んでいた。

 立ち上がって身体全体を確かめる。

 ――生乾きではあるがそのうち乾くだろう。

 ここにずっと居ても仕方がないので、路地裏から離れる事にした。

 路地裏を出た先は船着場となっており、そこには何隻かの船があった。

 誰かがいる気配はない。

 辺りを見渡しながら街中であろう道へと向かう。

 コンクリートの地面には所々水溜まりが出来ている。

 水溜まりを避けながら進んでいると正面から強い風が吹いてきた。

 ここは強風が吹きやすいのだろう。備品は全てロープやテープで固定されている。

 あまりもの強風に両腕を顔の前に出し身を守る。

 目を開けていられない。早く収まってくれ……。

 そう願った数秒後、青年の腕に大きな物体が盛大にぶつかった。



「いってー!! なんだよこれ!!」



 大きな物体に押され尻もちをついた頃には強風は収まっていた。

 青年は目を擦りながらも周囲を確認する。

 目の前に三十センチ四方のダンボール箱が落ちている。

 飛んできたのはこの箱だろう。

 その箱の周りにはクシャクシャに丸められた紙くずが散らばっていた。

 青年は紙くずを一つ手に取りそれを睨みつける。

 仕方がないとはいえ、理不尽な出来事に苛立ちそれを後ろへ投げ捨ててしまった。



「グルルルッ……。」



 青年の後ろから呻き声が聞こえてくる。

 ――嫌な予感がした。

 恐る恐る振り返ると灰色の犬が青年を睨んでいた。

 投げ捨てた紙くずが当たってしまったのだろう。

 しばしの時間が経った後、犬は牙を剥き出し青年に襲いかかってきた。



「わぁぁぁぁぁ!! ごめんっ! ごめんって!!」



 青年は勢いよく立ち上がり建物が並ぶ街へと逃げ出した。

 追いかけてくる犬は睨んだまま獲物を逃さない。

 青年は恐怖のあまり泣きそうになっている。

 街へ入った後もそのまま真っ直ぐ全速力で逃げていく。

 煉瓦の地面が特徴的なこの街にはそれなりの人数の人達が暮らしているようで、街の人達が何人か道の端を歩いていた。

 逃げていく青年を呆然と眺めている。

「朝からうるせぇな。」「あらあら災難ね。」と他人事のように言葉を零す人もいた。

 耳に入った言葉に苛立ちが増していく。

 左の道へ曲がる直前で振り返ると先程の犬は遠くの方で呆然と立ち尽くし青年を見ていた。

 どうやら犬よりも速く走っていたらしい。

 勢いよく曲がり少し進んだところで走るスピードを緩めた。

 立ち止まった青年は両膝に手を付き呼吸を整えていく。

 ――落ち着いたらとりあえず、自分の事を知っている人がいないか探してみよう。

 そんな事を考えていた時だった。



「痛っ!」



 前から歩いてきた男と肩がぶつかる。

 ……正確には、男が力強くぶつかって来た。

 振り返って男を見ると強面で筋肉質な男が青年を睨みつけている。

 男は青年の腕を力強く握ってきた。



「……オイ。何ぶつかってきてんだコラ!!」


「……へ? い、いや、ぶつかってきたのはそっちじゃ……。」



 青年の顔はみるみる青ざめ、冷や汗が出る。

 恐怖のあまり段々声も身体も震えていく。

 怒鳴られているのももちろんだが、掴まれた左腕は痛みを伴うほど強く



「どう落とし前をつけてもら……」


「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」



 青年の心は恐怖を上回り混乱状態に陥っていた。

 周りにいる人々が一斉にこちらを向く。

 自分の事で精一杯な街の人々は、片や傍観しているだけだったり、片や見て見ぬふりをして素通りしていたり、こちらを見ながらひそひそ話をしたりしていた。

 周囲の視線ですら恐怖を覚え更に混乱する。

 どうにかしてここから逃げ出したい。

 その一心で必死に暴れた青年はどうにか男の手を振り払う事に成功する。



「おいコラ、待て……え?」



 体勢を崩した男が追いかけようと青年が逃げた方向に目をやると、既に遠くまで逃げ去った後だった。



「アイツ……速ぇな…。」



 強面の男はただ呆然と眺める事しか出来ず固まっていた。

 ……というより、この周辺にいる人々の時間が少しの間止まったのだった。



 走り続けた青年は男が追いかけて来ないかを振り返って確認する。

 追ってこない事に安堵はしたが心は疲弊し切っていた。

 ――目覚めてからろくな事がないな……。

 青年はその場に座り込み精神疲労で動けなくなってしまった。

 一番精神的に堪えたのは事だった。

 ただ触れられるだけなら、怒鳴られるだけなら、追いかけられるだけならまだいい。

 

 ――こんな思い、もう二度としたくない。

 頭を押さえたまま動けない状態が一時間も続いた。


 気持ちが少し落ち着いてきた頃、先程より人々の動きが活発になってきたようで、話し声や生活音が気になるようになっていた。

 音のする方へ目をやると色んな建物から人が現れシャッターや扉を開け中から荷物を取り出している。

 雑貨や衣類や食品など場所によって置かれている物は違うが、それらがワゴンの中に並べられていく。

 どうやら青年が先程走ってきた場所はこの街の商店街のようだ。

 ――今は人に会いたくないな。

 青年は別の場所へ移動しようと再度足を前に出す。

 着地した右足は何かを踏んでしまい、そのまま滑って尻もちを付いてしまった。

 痛みを堪えながら周囲を確認すると目の前にバナナの皮が落ちている。



「何でこんな所に落ちてんだよ!! ふざけんな!!」



 嫌気がさしだんだん苛立ちが増していく。

 叫んでしまったせいで周囲にいる人達からの冷たい視線が痛い。

 恐怖のあまり背筋がゾクっとする。

 ――流石にここから離れた方がよさそうだ。

 気まずくなった青年は足早にこの場を去った。


 だんだん不安も強くなり、気持ちも沈んでいく。

 自分はどうしてこんなにも

 このままじゃいつまでもここに居られなくなってしまう。

 青年は焦っていた。

 行く宛てもなく街中をとぼとぼ歩いていると前方に人だかりが見えてくる。

 ――何か面倒事に巻き込まれそうで嫌だな。

 青年は見て見ぬふりを通すと決め、人だかりを離れて道の端を歩く。

 その人だかりを通り過ぎようとした時、女の子の声が聞こえた。



「ねぇ! そこの君も一緒にお話しない?」



 周囲には青年以外に歩いている人はいない。

 明らかに青年に話しかけている。

 無視をすると決め込んでいたのに、反射的に声の聞こえる方へ顔を向けてしまった。



「……へ!?」



 視線を向けたその先には一人の女の子と複数人の男がいた。

 男はパッと見十人くらい。女の子が男を囲っている状態だ。

 驚いたのはそれだけではない。

 そこにいる男全員が青年を睨みつけている。

『お前は入ってくるな』と言わんばかりの圧力を感じる。

 青年はみるみる青ざめ冷や汗が止まらなくなった。



「ひっ……ご、ごめんなさい!!!!」



 あまりもの怖さに青年は逃げ出した。

 ――なんでだよ!! 俺何もしてねぇじゃん!!

 心の中で愚痴を零しながら少し後ろを振り返る。

 今回は誰も追いかけては来ない。

 男達にとっては女の子と居る方が大事なんだろう。

 ……なんだったんだ、アレは。

 青年は考える事を放棄し別の場所へ向かうのだった。

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