機械少女と霞んだ宝石達
綿飴ルナ
Episode 1【No Name】
#1
1日目。
見覚えのない場所で目が覚める。
色々な書類が乗せられた机と椅子の前でわたしは地べたに座り込んでいた。
少し離れた右手側には古びたベッドが置かれていて、少々物で散らかっている。
目の前の机の奥には扉が二つある。おそらくバスルームとトイレだろう。
真後ろには壁を隔てて玄関がある。
構造的にはワンルームのようだ。
全体を見回した後、わたしはゆっくりと立ち上がって再度部屋全体をぼーっと眺める。
…うーん、思い出せない。
家具や場所の名前は把握しているのに、自分の事となると頭が無になったかのように何も浮かんでこない。
わたしは何をして生きてきて、どうしてここにいるのだろう。
視線を落として自分を観察する限り、わたしは女性なんだと思う。
なんの飾り気のない白いワンピースに目をやりながらわたしは再度考える。
どうしてここに居るのか、ここは何処なのか、わたしは何者で名前はなんだろうか、それがわからない。
これは所謂、記憶喪失というものなのかもしれない。
ふと机に置いてある書類に目をやると、どうやら文字は読めるらしい。
宛名は見るからに男性の名前。
「返済額〇〇〇万」の太字が真っ先に目に入った。
…背筋がゾクッとした。
白く潰れた小さな箱もそこに置かれていて、箱の表面には「貴方に幸運が舞い降りる石」なんて書かれてある。
どういうことだろう。
しかもその石は何処にも見当たらない。
幸運の石を手に入れる為に借金をした…?
いや、それだけで憶測するのはあまり宜しくない。
宛名は男性の名前、わたしの身体は女性だ。
少しだけぐるっと回るような眩暈がした。
…何が何だかわからない。
そうだ、ここに住んでいるのならわたしの服があるはず。
そう思ってベッドの横にある、腰ぐらいの高さのチェストを引き出してみた。
そこには大きめのTシャツとジーンズ、男性ものの下着しか入っていなかった。
わたしはここの住人ではない?
…じゃあどうしてここにいるの?
考え出すとまた眩暈に襲われた。
…ダメだ、今日はもう休もう。
仮にここの家主が帰ってきたら何かわかるかもしれない。
男性の名前が書かれた書類を見た以上ベッドを使う気にはなれないので、ベッドにもたれかかりながら眠りにつく事にした。
2日目。
朝。目映い太陽の光が窓から差し込んでいる。
だけどわたしの身体はとても重かった。
座った状態で寝ていたからだろうか。
身体の節々が痛いし、眩暈も少し残っている。
起き上がって部屋の隅々を確認したが、誰かが帰ってきた形跡は何一つ見つからなかった。
進展はなし、と言いたいところが、一つだけおかしいところに気付いた。
…靴がない。
玄関には小さい靴箱が備え付けられているが、靴が一つもないのだ。
家主の靴はともかく、わたしが履けるような靴さえも見当たらない。
裸足でここまで来た…?
そう思って思わず足を上げて足裏を確認する。
自分で言うのもなんだけど、怪我どころか傷さえも見当たらない綺麗な足だ。
誰かに運ばれてきた?
その可能性はあると思う。
何せ、異性の家の中にいるのだ。
正直、怖い。
何も考えたくない。
また眩暈がし、体がよろけた。
宙に浮いているような感覚だ。
そろそろつらい。
気は引けるが、ベッドに横になって休む事にした。
5日目。
あれから3日ほど寝込んでいた。
起き上がることすら出来ず、考え事も出来ないくらい頭がぼーっとしていて、ベッドと友達になる事しか出来なかった。
書類の山と化していた机に、一冊の本が紛れ込んでいた。
茶色い表紙には何も書かれてはいない。2.3cmほどの分厚い本だ。
恐る恐る手を伸ばし、ページを開いてみる。
中には罫線しか描かれておらず、文字は何処にも見当たらない。
どうやらこれは新品のノートのようで、近くに新品のボールペンも置かれている。
…家主さんには悪いけど、使わせてもらおう。
わたしはどうしてかそう思った。
惹かれるものがあったのもそうだけど、この体調の悪いわたしの今日までの記録を残しておきたいと思ったのだ。
いつか記憶が戻った時の為に、今までと今日のわたしの為に。
少しあやふやになりかけている記憶を、思い浮かぶ言葉を全部書き綴った。
ほとんど寝込んでいたのもあり、案外早く書き終わったのだけれど、書き込んでいくうちに一つ気付いた事があった。
そうだ、外。そういえばまだこの家から一歩も外に出ていない。
この5日間、窓から見える景色はぼんやりと眺める程度でしかなかった。
いつまでここに居ても何も変わらないのは想像出来るし、今すぐにとは行かなくとも外の様子だけでも見ておこう。
素足で出ていくのはさすがにちょっと、だし、もう少し部屋を探ってみよう。
この家にある窓は全部で3つ。
一つはベッド側。もう一つは机の奥の小さなキッチン。もう一つはバスルーム。あとは玄関を開ければ外が見れる。
まずはキッチン側の窓から外を覗いてみる。
…一面木々が生い茂っている。
正直、少しだけがっかりした。
少しの庭と、他にも家が建っているところを想像していたからだ。
森の中に家が…?でも朝はベッド側から日が差し込んでたよね。
別の景色が広がっている事を期待して反対側の窓へと向かう。
…少し片付けないと歩くのが不便だな。
そう思いながら窓のカーテンを開けた。
6日目。
朝目が覚めて最初にバスルームへ向かった。
一度も身体を洗っていないのだ。さすがに臭いが気になる。
中には石鹸とシャンプーとリンスが備え付けられているが、使われた形跡があまりない。
使い込まれて空っぽよりは有難いと思った。
突然どうしてシャワーを浴びているかって?
昨日、新たな発見があったからだ。
ベッド側の窓のカーテンを開けたその向こうには木々を両端に一本の道があった。
問題はその先。
少し距離のある道の奥には広い草原があるようで、ここからではあまり堪能出来ないけど、それでも綺麗だと思った。
その草原に誰かがいた。
遠いのでハッキリとは見えなかったけど、確かにそこには女性らしき人と動物っぽい何かがいたのだ。
わたしの胸は高鳴った。
わたし以外の人を、この目で初めて見た。
嬉しいという感情に初めて出会えたような、そんな感覚を覚える。
あの人たちと話せたら、何かわかるかもしれない。
わからなくとも、何かが変わるかもしれない。
期待に溢れて、今日もカーテンを開けて外の様子を伺う。
今日も、いる。
これはチャンスだと思った。
今走っていけばきっと、彼女たちに会える。
だけど、わたしの身体は不調が続いたままだ。
兎にも角にもまず、玄関の扉を開けよう。
シャワーを済ませたわたしは玄関に向かったのだ。
正直、怖い。
だけど今はワクワクの方が勝った。
ゆっくりとドアノブを回す。
鍵はかかっておらず、すんなりと扉を開けた。
外の景色を見た瞬間、今もいるこの場所ですら別の世界へ引き込まれたかのような錯覚を覚える。
身も心も、惹き込まれたのだった。
一歩を踏み出す緊張感。
目の前には小さな庭…と呼べるのかはわからないけど、柵に囲われ、雑草が生い茂った場所があった。
物干し竿と思われる棒は左手側にあり、ここからでも錆び付いているのがわかる。
柵の奥は木々が生い茂った光景が拡がっている。
誰もいない、何もない。
少し怖くなった。
太陽の光と風、青空が、大丈夫だと包んでくれたような気がした。
深く息をついて、左側に身体を向ける。
早く会いに行こう。
裸足のまま道なりに走る。
あれから靴を探してみたけれど何処にも見当たらなかった。
こればかりは仕方がない。
足裏に伝わる土の感触が少し心地よかった。
窓からみたあの景色はそんなに遠くないハズ。
そう思っていた。
だんだん視界が暗くなっていく。
空を見上げると先程までの青空が薄暗い曇り空へと変わっていた。
もう明るいところはない。
…そんな短時間で?5分も経っていないような…。
疑問を抱きつつも走る。
立ち止まっている場合じゃない。
早くあの二人に会いたい。
その想いだけがわたしの心を突き動かす。
ポツリ、ポツリと雨が降ってきた。
その雨は徐々に勢いを増し、いつしか豪雨と化していた。
前が見えない、呼吸もしづらい。
雨で出来たぬかるみに盛大に躓いてしまう。
手を付く間もなく顔面からぶつけてしまった。
「いっ…たぁ…。」
あまりもの痛さにしばらく動けずにいた。
容赦なく降り続ける雨。水溜まりが増えていく地面。
あれからどれくらい走っただろう。
雨雲を見てから結構時間が経っている。
少なくとも体感1時間くらいは。
何度も足を緩め呼吸を整える程度の小休憩を入れるくらいには走っている。
身体はもう限界だった。
窓から見たあの草原の出口は遠くの方にずっと見えている。
走り続けていたのに、確かに前に進んでいたのに、出口までの距離が変わらない事に気付いてしまった。
いや、数十分前からこの異変に気付いていた。自分を誤魔化して、辿り着けると信じて。
こんな残酷な現実を認めたくなかった。
身体を起こし、地面に座り込む。
不安と恐怖と苛立ちが一気にわたしに襲いかかった。
「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
感情が抑えられず、叫んでしまった。
上手くいかない事への苛立ちと、あの二人には会えないままなのかという不安と、一生ここにいるのかもしれないという恐怖。
ひとりぼっちから抜け出せると思っていたのに。
どうして。
どうして?
どうして!!!
涙が溢れて止まらなくなった。
豪雨も相まって過呼吸になる。
口の中に雨が入ってきて余計に息が出来ない。
泣き叫ぶことしか出来なくなった自分が情けないと思った。
身体はどんどん現実感がなくなっていき、宙に浮いたような感覚を覚えた。
あんなにくっきりと見えていた景色もぼやけ、雨音も遠く聞こえにくくなっていく。
…気が付くと別の場所にいた。
視界に広がるのは見覚えのあるあの部屋。
机が、ベッドが、横向きに見える。
突然変わった景色を理解するのに少し時間がかかった。
わたしは床に横たわっている。
身体はだる重く、頭はふわふわ、フラフラする。
立ち上がることすら出来ない。
嗚呼、そうか。
現実を思い知ってしまった。
一歩も外に出ていないんだ。
今までのあの体験は全て夢だった。
日差しの暖かさ、心地よい風、土の感触。身体に当たる雨でさえも
現実味を帯びた夢に過ぎなかった。
「誰か…助けて…。」
声にならない声で呟く。
色んな感情が混ざり、涙が溢れて止まらなくなった。
もう、助からないのかもしれない。
あの二人に会いたかった。
絶望感を抱いたまま、わたしの記憶はそこで途絶えたのだった。
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