第17話 女神様の奇跡

 みんなでお祭りについて話し合った日から、まもなくのことでした。

 ある日の晩遅く、トモリさんは何やら物音がして目を覚ましました。


 この街に泥棒なんてする人はいませんが、戦後すぐには、素性の分からない怪しい風態の者が、通りをうろついているのをしばしば見かけたものです。


 トモリさんはもしかしてと思い、ベッドから出て耳を澄ませました。別に盗まれるようなものなどありませんが、二階にはミミルが寝ています。そっと足を忍ばせて、パン生地を伸ばすための、めん棒を手に取りました。


(おかしいな。確かにさっき物音が聞こえたような気がしたんだけど)

 そのまましばらく外の様子を伺っていましたけど、特に変わったことはなさそうでした。


(気のせいか。野良猫でもいたのかな)

 ふわあっと大きなあくびをすると、また寝室に戻ってベッドに入りました。けど念のため、めん棒を手元に置いておきました。



「トモリさん、おはようだわ」

 朝になって、ミミルが起きてきました。


「ああ、おはようミミル。よく眠れたかい?」

 とトモリさんは、何か心配事でもあるように言いました。


「もちろんだわよ。どうかなすったの?」

「いやね、昨日夜遅くに、変な物音を聞いたように思ったものだから」


 ミミルはまったく心当たりはありませんでした。昨晩は途中でトイレにも行かず、熟睡していたのです。


 トモリさんは、何だか気持ち悪いような気がして、フィーナが朝一番にパンを買いに来るのが待ち遠しくてたまりませんでした。


 二人で朝食を食べて、店を開けたとき、入って来たのはフィーナではありませんでした。

「おはようございます」

「ああ、スースの奥さん。おはようございます。今日は早いですね」

 てっきりフィーナだとばかり思っていたトモリさんは、少々面くらいました。


「おはようございます」とスースの奥さんは落ち着かない様子で繰り返しました。「実はトモリさんにお知らせしようと思いましてね」

「どうしたんです、もったいぶって」


「実は、昨日夜遅くに帰ってきたんですの、息子が」

「えっ、息子さん?ビゼ君が?」とトモリさんは驚きました。スースの奥さんの息子のビゼは、戦争に行ったまま行方が分からなくなっていたのです。「昨日の夜遅くですか?じゃあ、あの物音はそういうことだったんですか」


「お騒がせしてご迷惑様でした」

 とスースの奥さんは深々と頭を下げました。

「いえ、頭を上げてください、奥さん。それは良かったですね。僕はてっきり、いや、こういう言い方はアレですけど」


「はっきり仰ってくださって構いませんわ。私だってもう諦めていましたのよ。今に新政府から戦死者の通知が来るに違いないと、そう思って毎日郵便受けを覗いていたんです。それが、ねえ、こんな…」

 スースの奥さんは、感極まってハンカチで目頭を押さえました。


「奥さん」トモリさんは自分も目の奥が熱くなって、スースの奥さんの肩を抱いてやりました。「良かったです、本当に」


「ありがとう」とスースの奥さんは顔を拭ったハンカチをしまいました。「いつものように食パンをくださるかしら?早く息子にここの食パンを食べさせてやりたくて」


「ええ、おやすいごようです」

 とトモリさんは食パンを包みました。


「本当にね、世の中には奇跡ってものがあるんですね」スースの奥さんは、深いところから喜びが溢れてきたみたいに言いました。ミミルに向かって微笑みかけました。「ミミルちゃん、あなたのおかげですよ」


 そう言われても、ミミルはキョトンとしています。

「なあに?」


「おばさん、女神様にお願いしたのよ。どうかあの子を帰してくださいって。噴水のところまで行ってね、お祈りしたの。そうしたら、本当に息子が帰ってきたわ。女神様の御加護って、本当にあるのね」


 スースの奥さんは、もう一度ミミルににっこりと微笑むと、踊るように店の中を移動して、トモリさんからパンを受け取りました。


「それと、ねえ、トモリさん」

 とスースの奥さんは、まだ何かありそうでした。

「どうしました?」

 とトモリさんは訊きました。


 でもスースの奥さんは言おうか言うまいか迷っていました。なんだか戸惑っているようでもあり、また嬉しそうでもありました。


「後で本人に挨拶に来させますわ」

 結局そう言って、スースの奥さんは笑顔で帰って行きました。


 なんだろう、とトモリさんは思いましたが、奥さんが言わないのならまあいいかと思いました。お隣さんなのですから、どうせそのうち分かることなのです。


「良かったね、ミミル」とトモリさんはミミルに笑いかけました。でもミミルは不思議な表情のままでした。「どうかしたの?」


「私は何もしてないわよ」とミミルは言いました。「息子さんが帰ってくるように、なんていうおまじないはしていないわ」


「スースの奥さんは女神像の前まで行って願をかけたんだよ」とトモリさんは言いました。「そうだ、まだ君には言ってなかったけど、先日の寄合でお祭りのことを話していてね。今度のお祭りは女神像を中心としてやることに決まったんだ。君が言っていたみたいにね、王様じゃなくて女神様の祭りになった。それで、面白いことになったんだよ。みんなで短冊に願い事を書いて持ち寄って、噴水広場を飾り付けするんだ。君も何か一つ願い事を書けるよ」


「ふうん」とミミルはあまり気の乗らない様子でした。「どっちでもいいけど」

「どうかしたの?ほら、言ってたじゃないか。お祭りの日には女神様が降臨なさるって。その日は願いが通じやすくなるんだったよね?」


「そうよ。でも、その日にわざわざ願い事をするとか、女神様の像の前でお祈りをするとか、そんなんじゃないわ。もしそうだったら、いつもいつも女神様の像の前に人の渋滞が出来ちゃうじゃない。私だって、一人ぼっちでフラフラ通りを歩いてたりしないわよ」


「それもそうだね」と、トモリさんはミミルと初めて出会った日の晩を思い出しました。「でもそれじゃあどういうことなんだろう、女神像と人々の願いとの関係は?」


「そんなこと私に訊かれたって分からないわ」

「そうだった。誰にも分からないんだった」


 トモリさんは、寄合でのバゲット先生の発言を思い出しました。昔のことは、もう色々と失われてしまったのです。

「でも」とトモリさんは言いました。「僕たちには希望が残ったんだ。何にせよ」


 そこで次のお客さんが入ってきたので(もちろん、フィーナとバゲット先生でした)、その話はそれきりになってしまいました。女神様のことは、誰にとっても分からないことが多いのです。

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