第11話 とっておきのおまじない

 ある暖かな日の午後、ミミルが二階の部屋でお昼寝からふと目を覚ますと、下の方から話し声が聞こえました。

 誰かお客さんが来て、何やらトモリさんと話をしているようでした。


 そんなことは気にせずに、またお昼寝に戻ろうとしましたが、トイレに行きたいのに気付きました。

 スリッパを履いて、階段をパタパタと途中まで降りて行きましたが、ちょっと立ち止まって耳を澄ませました。


 ミミルがどうのこうのというように聞こえたからです。他に気になる言葉もありました。

 声の感じからすると、来ているのはスースの奥さんのようでした。


 そこで足音を立てないようにして、そーっと階段を降りて行きました。途切れ途切れに会話が聞こえてきます。


「…ましたわ。…が再開…ですって」

「…ですか。…ったなあ」

「本屋の…さんが…ってまし…」

「そうな…」

「…ミミル…ります…」

「…うです…」

「…までは…しら?」

「そう…、聞いた…なあ」

「あの…、元気な…?」

「…それはもう…、ここに…少し背も高く…思い…」

「…ったら、…行かせて…」


 思った通り、スースの奥さんが来ていました。お茶を飲みながらトモリさんと話している様子です。話題はどうやら、ミミルのことのようでした。ミミルはそっと扉の陰に隠れて、会話に耳を澄ませました。


「あの子はいくつなんですか?」

「実はそれが、僕も正確なところは良く知らなくて。ミミルは自分の歳を数えていないって言うんです」


「まあ、そんなことってありなのかしら。でも、大き過ぎたり小さ過ぎたりすることはないでしょうね」

「そうでしょうね。おそらく、エリーゼと同じくらいだと思います」


「何年生になるのか知らないけど、きっとちょうどいいところに入れてもらえますわ」

「でも、もう王立じゃないんでしょう」


「一応、形だけは新政府ということになっていますけど、中身はそのままなんですって。初等学校ですもの。やることは変わらないのでしょうね」

「それじゃあ、エリーゼが使っていた教科書はそのまま使えるのでしょうね」


「やっと普通に子どもたちが勉強出来るようになりますわ」

「そうですね。そう言えば今までミミルの教育のことは考えなかったな。それどころじゃありませんでしたし。でもこれからは、そういうことも必要ですね」


「それだけこの街も元に戻って来たということですわ。本屋のパンセさんも、教科書の取り扱いが出来ると言って喜んでいましたよ。子どもたちが学校で勉強する姿というのは、平和の象徴ですって」

「そうだなあ。それは安心しますよね」


 そのとき、ふと家の中を見回したトモリさんは、階段のところにミミルがいるのに気付きました。

「ああ、ミミル。起きて来たんだね」


 ミミルはギクッとしました。

「ト、トイレに行くところなの」

 慌てて部屋を横切って、トイレに向かおうとしました。


「スースの奥さんがいらしているよ」

「ミミルちゃん、こんにちは」

 とスースの奥さんが言いました。

「こ、こんにちはだわ、スースの奥さん」


「ミミル、スースの奥さんがいいものを持って来てくれたよ」と、トモリさんはニコッと笑いました。「今朝、森まで行って摘んできてくださったそうだ。ミミルも一緒に食べよう」

「ミミルちゃんが木苺が好きだと聞いてね。持って来たのよ」

 と、スースの奥さんもニコッと笑いました。


「あ、ありがとう。嬉しいわ。でも、ちょっと、トイレに行ってから」

 ミミルは急いでトイレに行きました。

 トイレに行っている間、ミミルはなんだか心に黒い霧がかかったような気分になりました。


 トイレから戻ってみると、お茶の用意がしてありました。テーブルには木苺の他にクッキーもありました。最近、お砂糖も手に入りやすくなったのです。


 仕方なく、ミミルはお茶を一杯だけ飲んで、部屋に帰ろうと思いました。

 大人たちは、森の話に夢中になっているように見えました。そこで少し安心して、ミミルはテーブルに着きました。


 木苺を口に放り込むと、甘酸っぱい味がしました。クッキーをパリッと食べると、その甘さに少し心配事が薄れました。でも、さっき感じた黒い霧のような気持ちは、まだそこにありました。


 クッキーで口の中がパサパサになったので、お茶で湿らせようとしましたが、お茶は熱くてすぐには飲めませんでした。

(参ったな)

 早くお茶を冷まそうと、フーフー息を吹き掛けますが、お茶はなかなか冷めてはくれません。


「そうそう、それでさっきの話ですけど」

 何気なく言ったスースの奥さんの声が、ミミルにはとても冷たいものに感じました。黒い霧が急に大きくなって、ミミルを覆いました。


「うん、そうだ。ねえ、ミミル。さっきスースの奥さんと話していたんだけど、ビッグニュースだよ」

 と、トモリさんが言いました。


「な、何かしら?」

 努めて冷静を保とうとしましたが、ミミルの声はかすかに震えていました。

「喜ばしいことだ。ようやく学校が再開されたんだって」

「そ、そう」

 ミミルはすぐにここから立ち去りたくなりました。


「ミミルもこれからは学校に行けるんだ。教科書は多分エリーゼが使っていたのをそのまま使えると思うから、心配しなくていいよ。部屋にあるの知ってるだろうけど、文房具もエリーゼのがあるからね。学校に行くカバンも、エリーゼのが仕舞ってあるから、まだ使えると思うよ」

「う、うん、ありがとう。でも…」


 トモリさんには他意はありませんでした。ただミミルが全部なくして着の身着のままここにやって来たので、持っていないだろうということでそう言ったのでした。


 でも、親というものはいつだって、子どもが本当に欲しいもののことには気付かないものです。それは、親代わりの人でもそうなのでした。


「ミミルはここに来る前は王立学校に通っていたのかい?トイデル大通りの子どもは大体みんなそうだから、そうだろうとは思うけど、どうだったの?」

「私、私、えっと、忘れちゃった」


「忘れちゃった?」

「だって、戦争があったもん」


「そうだけど、この街の学校だよね?通うのに鉄道は使っていないよね?」

「あちっ」


 ミミルは無理にお茶を飲もうとして、舌をやけどしてしまいました。慌てて口の中に木苺を放り込みました。


 スースの奥さんが助け舟を出すつもりでこう言いました。

「ミミルちゃん、オレンジの列車に乗ってたの?どうなの?」

 トイデル駅に止まる列車は、みんなオレンジ色なのです。


「何年生の教室に通っていたんだい?」

 トモリさんも、自分がミミルを追い詰めているとは思っていなかったのです。子どもだからこんなものだろうと、話がうまく通じないのだろうと、そのくらいにしか思っていませんでした。


「私、いいもん。学校、行かなくていい」

 ミミルは口の中の木苺の甘酸っぱさが、苦味に変わるのを感じました。


「行かなくていいことはないさ。みんな行くんだから」

「いいもん、行かなくて。お金だってかかるし」


 それを聞いたスースの奥さんがこう言いました。

「大丈夫よ、ミミルちゃん。お金のことは心配しなくて。新しい学校はね、子どもたちみんなにお勉強してもらえるようにって、月謝をうんと安くしてくれてるそうよ」

 それは王立だった頃からそうだったのですが。


「いい子なのね、この子は。自分が学校に行ったら、トモリさんに迷惑がかかると思っているのだわ」


 スースの奥さんが分かっていたのは、あくまで上辺だけのことでした。でもトモリさんは、だんだんと泣きそうな顔になってきたミミルの様子を見て、どうやらおかしそうだぞと思い始めていました。そこでミミルを安心させようと、こんなふうに言いました。


「ねえ、ミミル。何も心配しなくたっていいんだ。僕は君のこと、実の娘のように思っているんだから。本当だよ。エリーゼと同じなんだ。だから君だってエリーゼみたいに学校に行ったっていいんだよ。学校に行ってお友達を作ったらどうだい?日がな一日ここにいたって、同世代のお友達は出来ないよ。エリーゼだって……」


 トモリさんがまだ何か言いかけたとき、突然ミミルはガタッと椅子を鳴らして立ち上がりました。


「私、エリーゼちゃんじゃないもん!」

「あ、ミミル!」


 そのままバタバタと激しく足音を鳴らして、二階へ駆け上がりました。

 自分の部屋に入ると、バタンと扉を閉めて、ベッドに入って毛布を頭から被りました。そうして肩を震わせて泣いてしまったのです。


 ミミルは学校が嫌いでした。以前に学校に通っていたとき、まじないの店の娘だということで、変なふうに怖がられて嫌な思いをしたのです。それ以来、学校には行っていませんでした。もう二度と、あんなところには行くもんかと思っていました。


(もうダメかもしれない)

 ミミルはそんなふうに思いました。あんなことを言ったら、トモリさんは怒ってしまっただろうと思いました。


 よしんば今は怒っていなくても、学校に行かなければ、やっぱり怒るに違いない、許してくれないだろうと思いました。


 血の繋がりのないミミルのことです。そうなったら、もうここには置いてもらえないだろうと思っていました。


 トモリさんがミミルをここに住まわせてくれているのは、ミミルにエリーゼちゃんの面影を見ているからだと、ミミルはそんなふうに感じていました。そしてそれは、あるところまでは事実でした。


「ミミル……」

 扉を開けてトモリさんが部屋に入ってきました。

(ああ、来た。もうダメだ……)

 ミミルはぎゅっと毛布を掴みました。


(もうここを出て行かなきゃいけないわ。そうなったら、もう生きてはいけないわね。そうなったら、どうしよう。歩いて歩いて、歩けるところまでは歩いて、どこかに行ってしまおう。そのうちに歩き疲れて死んじゃうわ。その前に、夜の寒さで死んでしまうかもしれない。あのかわいそうなマッチ売りの少女みたいに。こんなことだったら、ママと一緒に戦争で死んじゃえば良かった。ああ、ママ……)


 ミミルの瞼の裏に、優しいママの面影が浮かびました。

(ママ、ママ、辛いよ……)


 面影のママの唇が、何か動いています。何かを言っているようでした。いつのことだったでしょう。それは遠い遠い記憶でした。ミミルは以前にもこんなことがあったのを思い出しました。


(そうだわ、あれは学校に行きたくなくなったとき)

 そのとき、ママが、これはとっておきのおまじないよ、と言って、一つのおまじないを教えてくれたのを思い出しました。

(あれは、何だったっけ。えっと、えーっと……)


「ミミル」

 トモリさんの重みがベッドに加わったのを感じました。

(ああ、もうダメだ……)

 ミミルは、固く身を縮こませました。


 そのとき温かい手が、毛布の上からミミルの頭を撫でました。

「ミミル、ありがとう」


 ミミルは最初自分の耳が信じられませんでした。

「ありがとう、ミミル」


 もう一度、あのおまじないの言葉が聞こえました。ミミルは毛布から頭を出しました。すぐそばに、温かいものがありました。


「どうしてトモリさんがありがとうって言うの?」

「だって、君が大事なことを僕に思い出させてくれたからさ」

「大事なこと?」

 ミミルは元はエリーゼのものだった服の袖で、顔に付いた涙を拭きました。


「そうだよ。僕は君と話し合うことが不足していたようだ。それを君が思い出させてくれた。なんとなく、僕の考えていることは、君も考えているんじゃないかと、勝手にそう思っていた」

「どうして?」


「君は物分かりのいい子だったし、僕と同じようにパンが大好きだったから。でも、それじゃダメだったんだ。僕らは別々の人間なんだから、もっとお互いに話し合わなくちゃいけなかったんだ」


 ミミルは、やっぱりそうなんだなと思いました。ここに来てしばらく楽しかったけど、それももうおしまいだと思いました。やっぱりトモリさんはママとは違うんだ。私たちは別々なのよ。


「私、エリーゼちゃんじゃないから」

 そう言って、ベッドから立ち上がろうとしました。そのまま出て行くつもりでした。そして永久に帰って来ないつもりでした。でも、出来ませんでした。トモリさんがミミルを抱き寄せて、とても温かかったからです。


「ミミル、僕らは何でも話し合わなきゃいけないんだ。だって僕らは家族なんだから」と、トモリさんは言いました。


 トモリさんは今までになかったぐらい、素直になっていました。それはミミルと話すとみんなそうなのです。なぜだか、心の扉を開いて、秘密にしておいたようなことでも話してしまうのでした。


「家族だから、話し合わなくてはいけないんだ。家族だから、話さなくても分かるだろうなんて思っちゃいけないんだ。だって、家族にすら言えないことがあるなんて、そんな悲しいことはないだろう」

「トモリさん…」


 ミミルはまた涙が込み上げてきて、うまく言葉が出ませんでした。その代わり、トモリさんの胸に顔を埋めて泣きました。


「ねえ、ミミル。知っているよね。僕の奥さんだった人のこと」

「出てっちゃった人のこと?そんなに知らないわよ。だってトモリさん、話してくれないじゃない」


「ごめん、そうだった。でも僕にもうまく話せないことがあるんだ。まだ胸の奥に、ふさがっていない傷がある。だから話そうとすると、その傷口が開いてしまって、うまく話せなくなってしまうんだ」

「じゃあ、いいわ。話さなくて」


「ありがとう。でもこれだけは言っておきたい。エリーゼが死んでしまったとき、僕は妻も同じ気持ちだと思っていたんだ。だから細かいことまで彼女と話さないところがあった。でも実際は、僕が感じていた思いと、彼女が抱いていた思いとは、少し違うところがあったようだ。今になって思うよ。もっと彼女と心を割って話し合うべきだったと。もっと彼女と話をすることに時間を割くべきだったと。最初はほんの少しズレているだけだと思っていた。気にするほどじゃないと思っていた。でも、気付いたときには、もう手遅れだった。いつのまにかそれが大きくなっていて、もはや埋めることが出来ないほど、二人の距離は遠ざかってしまっていたんだ」


「後悔してるのね」

「うん」

 トモリさんはミミルの頭に頬を寄せました。


「僕はもう二度と家族を失いたくないんだ」

「私、エリーゼちゃんじゃないわ」


「分かっているよ。君はエリーゼじゃない。君も感じていると思うけど、僕が君にエリーゼの面影を見ているのは確かだ。でも君はエリーゼじゃない。初めて君と会ったとき、君がこの店に入ってきたとき、僕はエリーゼが戻ってきてくれたかのような錯覚を覚えた。でも君はエリーゼじゃなかった」

「だから駄目なのよ」


「そうじゃないよ、ミミル。君が来てくれて、どれだけ僕は助かったことか。本当はもう、パン屋をやめようと思っていたんだ。やっと戦争は終わったけど、僕はちっとも嬉しい気分にはなれなかった。でも君が来てくれて、ここに一緒に住むようになって、僕はまた希望が持てるようになったんだ。君のおまじないのおかげだよ」

「本当?」


「ああ、本当だ。おまじないって不思議だね。ほんの少しの短い言葉なのに、その向こうに大きな希望が待っているように思える。君のおまじないのおかげで、僕は希望への第一歩を踏み出せたような気がするよ」

「ありがとう」

 二人はしばらく、ぬくもりを交換し合いました。


「ねえ、ミミル。君は学校に行くのが嫌なんだね」

 コクッとミミルは頷きました。

「本当に嫌なんだ」

 また頷きました。


「どうして嫌なんだい?話してくれるかな」

「だって、みんな酷いことするのよ」

 過去のことを思い出して、また涙が込み上げてきました。でも思ったほどには、涙は出てきませんでした。


「本当に酷いこと。私がまじない屋の子どもだからって、人をお化けみたいに言うのよ。私と話をすると呪われるとかなんとか、お前は魔女だ、とか。心を読まれるから近付くな、なんて言うの。私にはママみたいな力なんて全然ないのに」


 これは諸刃の刃でした。ミミルの前だと、みんな素直に心の内を話してしまいます。だから、そんなこと人に言ってはいけないということまで、面と向かって言ってしまうのでした。


 子どもたちは、ときに悪いことといいこととの区別が付きません。大人よりも正直に、思ったことを口にしてしまいます。それがミミルの前だと、よりいっそう起きてしまうのでした。


「辛かったね」

 と、トモリさんはミミルの頭を優しく撫でました。

(忘れるんだ)

 と、声に出して言おうとしました。以前のトモリさんだったら、そう言っていたでしょう。辛いことは忘れてしまえばいい。

 でも、代わりに言ったのは、こんな言葉でした。


「だいじょうぶ」

 トモリさんにも、忘れられない辛いことがあったのです。忘れたいけど忘れたくない、辛い思い出でした。


「学校になんて行かなくていいよ。うん、無理して行くことはない。君が行きたくなければ、行かなくたっていいんだ」

「いいの?」


「いいさ」

「怒ったりしない?」

「しないさ。そんなことで君に怒ったりするもんか」

「本当?」

「ああ、女神様に誓って本当だ」

「ありがとう」


 ミミルはトモリさんの胸から顔を離して、ゴシゴシと服の袖で涙を拭いました。

「ねえ、トモリさん」

「何だい?」

「一番辛いときには、ありがとうって言うのよ」

「それはおまじないかい?」


「うん。ママが教えてくれた、とっておきのおまじない。本当に嫌なことがあったとき、もう死んでしまいたいとき、苦しくってしょうがないときには、そうやって言うんだって。ありがとう」


 トモリさんはすぐには理解出来ませんでした。だからこう言いました。

「難しいね、それは」

「私だって難しかったわ。良く理解出来なかったの。どうしてそんな酷いときに、ありがとうって言うんだろうって」


 ミミルは机の上のおまじないノートを取りに行きました。パラパラとページをめくってみましたが、ありがとうという言葉はどこにも書いてありませんでした。


「やっぱり書いてないわ。難しかったから。いいえ、ありがとうっていう言葉が、当たり前過ぎておまじないとは思えなかったからかもしれない」

「書いておこうよ」

 とトモリさんは言いました。


 ミミルはゴソゴソと新しいおまじないを書き加えました。

「もう忘れない。ありがとう」

 と、トモリさんは言いました。

 ミミルはまたトモリさんの温かい胸に戻りました。


「いい言葉だね、ありがとうって。僕は君と一緒なら素直に言えるよ、ありがとう。辛いことはいろいろあった。でも、ありがとう。君が来てくれてから、ありがとうって言いたくなることばかりさ。今の僕にとって、君より大事なものはない。ありがとう」

「トモリさん、ありがとう」

 トモリさんは、ほんわかとした温かい気持ちに包まれました。


「きっとこのおまじないは、一人では駄目なのかもしれないよ、ありがとう」

「どうかしら?ありがとう。一人ぼっちの人はどうするの、ありがとう」


「一人ぼっちの人なんていないよ。だって、人間は一人じゃ生まれて来れないじゃないか、ありがとう」

「でもそれじゃ、おまじないっぽくないわ、ありがとう」


「そうかな、ありがとう」

「そうよ、ありがとう」


「でも僕にとっては、君がいなかったらこんな気持ちになっていないよ、ありがとう」

「もう分かんないわ、ありがとう」

「ありがとう、ありがとう」

「ありがとう、ありがとう」


 二人は良く分からなくなりました。良く分からないけど、少しまともになったような気になりました。自分とか相手とか、世の中のいろんなところが、なんだかまともになったような気になって、下の階に降りて行きました。


「まあ、まあ、ミミルちゃん、大丈夫だったかい?私がなんだか悪いことを言ってしまったみたいだね、ごめんなさいね」

 とても青い顔をしたスースの奥さんが、実に悪びれた様子で謝りました。

「ありがとう、だいじょうぶよ」

 と、ミミルはニッコリ笑いました。


「奥さん、ずっとここにいらしたんですか。すみません、長いこと待たせてしまった」

 とトモリさんは謝りました。


「いいえ、ミミルちゃんは私にとっても、実の子どもみたいなものですからね。放っておけないのよ。でも今回は出過ぎたことをしてしまったようね。お節介だったわ。ごめんなさいね」

 と、スースの奥さんは何度も謝りました。


「いいのよ、スースの奥さん」とミミルは言いました。「だいじょうぶ。私はだいじょうぶ。だいじょうぶ、だいじょうぶ、ありがとう」

 ミミルを覆っていた黒い霧のような気持ちは、もうすっかり吹き飛んで、温かいものに変わっていました。


「さあ、すっかりお茶が冷めてしまった。まだ木苺もクッキーもあるし、改めてお茶にしましょう。そうだ、ミルクも沸かそう。そうだよ、何かが足らないと思っていたんだ。ミルクだ、ミルクだ」


 トモリさんは手早くミルクを沸かしました。スースの奥さんとトモリさんは、冷たくなったお茶に温かいミルクを入れて、ミミルはミルクだけを飲みました。

 温かいミルクがお腹の中に入っていくと、ミミルはほっとして満ち足りた気分になったのでした。

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