第10話 音楽屋のおまじない
ミミルとトモリさんは、今日も街を散歩していました。道の穴ぼこを器用に避けて、歩いて行きます。毎日こうして歩いていると、穴ぼこがあるのが当たり前のような気がしてしまいます。
自治会では、ぼちぼち穴ぼこを埋める工事の話し合いが始まっていました。でも、穴ぼこのあるおかげで、今トイデル大通りには車が入っていけない場所がありました。
むしろそれはいいことなのではないかという意見も出ていました。穴ぼこを全部埋めてしまっても、車の立ち入り禁止区域を作ったらどうだろうという人もいました。
(穴ぼこがなくなっちゃったら、こうしてミミルと二人で道の真ん中を歩くなんてことはできなくなるのかなあ。それもちょっと寂しい気がするな)
なんてことまで、トモリさんは考えたりするのでした。
「えいっ」
ミミルはジャンプして、小さな穴ぼこを飛び越えました。
すると通りの向こうに、穴ぼこの側でかがみ込んで何かをやっている男の人がいました。
「あれ、誰だろう?」
トモリさんは、最初穴ぼこを埋める工事が始まったのかと思いました。
近付いて行くと、その人は穴ぼこの縁に聴診器を当てて、何やら探っているようでした。
(やっぱり工事かな?でも、そんな話はなかったけどなあ)
「こんにちは」
トモリさんは思い切って声を掛けてみました。
男の人は驚いたように顔を上げると、大きな眼鏡の奥のクリクリとした目でこちらを見ました。探検隊のような格好をして、丸いつばのある帽子を被っていました。モップのような、もしゃもしゃしたオレンジの髪の毛がはみ出ています。
工事というより、昆虫採集でもしている人みたいでした。
一つ不思議なのは、ズボンのお尻のポケットから、細い棒が二本、出ていたことでした。
その顔は何かを真剣に研究しているような、はたまた子どもが無邪気に遊んでいるような、どちらとも取れる表情でした。
(もしかして危ない人かもしれないぞ)
と、トモリさんはそんなことまで考えました。でもその人の目は、とても純粋な色を宿していました。
「こんにちは、道路工事ですか?」
「違います」
そう答えると、その人は立ち上がって聴診器を外しました。パンパンと服についた塵を払います。すると何かが気になったのか、興味深そうに耳をそば立てて、またパンパンとやりました。そうして思い出したように、またトモリさんを見ました。
「あの、もしかして、僕のことおかしな人だと思っていませんか」
朴訥な話し方でした。純粋な響きがあり、聞く人に真っ直ぐ伝わってきました。
トモリさんが返答に困っていると、その人は勝手に話し始めました。
「えっと、僕は道路工事の人ではありません。かと言って、決して怪しい者でもありません」
「はあ」
トモリさんは曖昧な返事をしました。そう言われても困ってしまいます。
「あ、僕の名前はソンボと言います」
と、唐突にその人は名乗りました。
「僕はトモリです」と、トモリさんも相手に先に名乗られたので、仕方なく名乗り返しました。「この街でレインボウ・ベーカリーというパン屋をやってます」
「私はミミルよ。おまじない屋なの」
と、ミミルも言いました。
「ほう、おまじない屋さんですか……」
ソンボは興味を惹かれたのか、ミミルをそのクリクリの目玉でじっと見つめました。
ソンボの目はどちらかと言えばかわいいのですが、ミミルはちょっと怖くなってトモリさんの足元に隠れました。
「あ、申し遅れました。僕はこれです」
と、ソンボはお尻のポケットに差していた二本の細い棒を出しました。
「これ?」とトモリさんは、必死に考えて言いました。「木の中にいる虫でも捕まえるんですか?」
「いいえ、太鼓を叩くためのスティックです」
そう言われてもトモリさんは良く分かりませんでした。
「あなたはパン屋さん、あなたはおまじない屋さん。そして僕は音楽屋さんなのです」
ソンボはカチカチとスティックを打ち合わせました。
「音楽屋さん?音楽家でなくて?」
「そうです、音楽屋です。音楽家ではありません」
そう言われても良く分かりませんでした。トモリさんは、簡単な会話だけでこの人のことを理解するのは無理なのだと思いました。
「その音楽屋さんが、ここで何をしていたんです?」
「その疑問はごもっともです。僕がここで何をしていたのか、今からご覧に入れます」
ソンボはさっきと同じように、また穴ぼこの側にしゃがみ込みました。
さっきと同じように、聴診器を当てます。
「な、何をしてらっしゃるんですか?」
トモリさんが訊くと、ソンボは人差し指を口に立てて、シーッとやりました。
「耳を澄ませば、聞こえてきます。この穴ぼこの音が」
(穴ぼこの音?)
と、聞きたかったのですけど、またシーッとやられるといけないと思って、トモリさんは黙っていました。
「ほら、聞こえる、聞こえる。穴ぼこの音です」とソンボは独り言のように言いました。
ミミルは興味を惹かれて、ソンボの側にかがみ込みました。さっきは少し怖かったけど、この人は絶対悪い人ではないと、なんとなくそう思い始めていたのです。それで穴ぼこに顔を近付けて、うんと耳を澄ませました。
トモリさんは、まだこの人はおかしな人ではないかという疑念が拭えませんでした。
何かあったらすぐに動けるように、少し離れて見守っていました。
でもソンボは、そんなことにはちっともお構いなしでした。
「お嬢ちゃん、聞こえるかい?」
と、ソンボは言いましたが、ミミルは首を左右に振りました。
「もっと集中して。穴ぼこの震えを感じ取るんだ」
「震え?」
と、トモリさんは思わずそう口に出しましたが、今度はシーッとやられませんでした。
「音の出るものは、みんな震えています。僕はこの街の震えを取り出すためにここに来ました。震えを取り出して、音楽にするんです。戦争が終わって、今この街はどんな音で震えてるんだろうと、それを知りたくて来ました」
ソンボは、また穴ぼこに集中しました。
「あ…、聞こえる、静かに」
何かを感じたみたいです。また人差し指を口に立てました。でも、そうしなくても、トモリさんもミミルもお魚みたいに静かにしていたのですが。
「震えてる、震えてる。どんな音かな」
ソンボは聴診器を穴ぼこの内側の色んなところに当てます。
「うん、うん。来たぞ、来たぞ。そうだ、この音だ」
聴診器を外すと、両手にスティックを握りました。
「ほら、キツネがいたぞ」
コン、コン、コンコココン。
穴ぼこの縁をコンコン叩きます。ソンボは節を付けて歌い出しました。
コン コン コンコココン
見ーつけた 見ーつけた
コンな ところに 見ーつけた
穴ぼこ 隠れた キツネさん
隠れてないで 出ておいで
外は コンなに いい天気
「驚いた。キツネが隠れてたんだ」
ミミルに向かって、わざと驚いたような表情を作って見せます。思わずミミルは笑ってしまいました。トモリさんは、この人はクラウンみたいだと思いました。
「おやおや、まだ何かいるぞ」
今度はソンボは、穴ぼこの別の縁を叩きました。トントントンと違う音色が出ました。
「これは何かな、何かな?」
「分かんないわ」
でもミミルはにっかりしてしまいました。
トン、トン、トントトトン。
「ひゃー、ここにブタさんがいる!」
また大袈裟に驚いて、今度はさっきと違う節を付けて歌いました。
トン トン トントトトン
トン トン トトトントン
僕らは みんな 豚さんさ
トン トン ブーブー
ブヒ ブヒ トン トン
ブッヒー ブッヒー トントトトン
ブッヒー ブッヒー トトトントン
ソンボは人差し指で自分の鼻を押さえて、ブタの真似をしました。
「ブヒ、ブヒ、トン、トン」
ミミルは何だか楽しくなって、ソンボの真似をして鼻を押さえました。
「ブヒブヒ、トントン!」
ミミルは立ち上がって、ソンボが穴ぼこの縁を叩くのに合わせて、靴で道路をトントンと踏み鳴らしました。
「さあ、お嬢ちゃん、これでおしまいかな?これでおしまいかな?」
「まだ何かいるの?」
ソンボのスティックさばきがだんだん細かくなっていきます。小さくなっていく音に、ソンボは耳を澄ませます。
「おお、サルがいるぞ!」
また大袈裟に驚いた表情を作りましたが、すぐに残念そうな顔になりました。
「サル、サル、あれ、どこ行った?サルはこの穴ぼこから去って行ってしまったようだよ。サルが去る、サルは去る。去ったサルは、どこへ去る?」
キョロキョロとサルを探します。すぐに居所を見つけたようです。
「おっと見つけたぞ。ここだあ」
ソンボがスティックで指したのは、ミミルの胸の辺りでした。
「お嬢ちゃん、今胸の辺りがどんな感じかい?」
「うーんと、分かんない」
「楽しくないかい?」
「楽しいわ」
「ウキウキしてないかい?」
「うん、ウキウキしてる」
「ひゃー、見つけた。おサルさんだ!」
ウッキー ウキキ ウッキッキ
ウッキー ウキウキ 歌い出す
どこに行ったの おサルさん
小さな娘さんの 胸の中
なぜなぜ どうして そんなところへ
だって ここは ウキウキ するの
ソンボは速いペースでスティックを使いました。
「おおっ、こっちの穴ぼこに逃げたぞお。今度はこっちの穴ぼこだあ」
なんてことを言いながら、あっちの穴ぼこやらこっちの穴ぼこやら、穴ぼこから穴ぼこへと飛び回りました。
「穴ぼこ、穴ぼこ、ウッキッキ」
ミミルも手を叩いて足を踏み鳴らしました。
「いいぞ、お嬢ちゃん。君も楽器を持ってるんだ」
ソンボはスティックをお尻のポケットに戻して、手拍子を始めました。ソンボが手を鳴らすと、パチパチだけでなく、色んな音がしました。
ミミルも真似をして、手拍子を取りました。
トモリさんも、いつの間にか楽しくなって、手を叩きました。そのうちにタップダンスまで始めてしまいました。
「おっ、ここに戻って来たぞお。やっぱりここが一番ウッキウキだ」
穴ぼこから穴ぼこへと飛び回っていたソンボは、最後にまたミミルのところへ戻って来ました。
そこで曲が終わり、ソンボは丁寧なお辞儀をしました。
「ああ、楽しかった」
ミミルは心からそう思いました。
「いや、はや、これは、楽しいですね」トモリさんはハアハア言って、笑顔で汗を拭いました。「楽器を使わなくても、こんな音楽ができるんだなあ」
「僕もとっても楽しかった。今のが、この街の震えです。この街に隠れていた音です。こんなに楽しい音が隠れていたとは思いませんでした」
ソンボもニコニコして、ポケットからくしゃくしゃのハンカチを出して、額の汗を拭きました。
「この街にああいう音が隠れていたんですか」
「はい。最初僕はもっと悲しい音が隠れているのだと思っていました。この街に来るまではそう思っていました。さっき穴ぼこを見たときもそうでした。でも違っていました。ここにはとっても楽しい音がありました。ねえお嬢ちゃん、ここは楽しい街だね」
「うん、楽しいわ」
ミミルは思わずそう言ってしまった後に、あれれと思いました。この街は楽しいのでしょうか。悲しいことが、山のようにあったような気がします。でも、もう一つの考えが、それを打ち消しました。
「楽しい、楽しい。ウフフ、新しいおまじない見ーつけた」
「楽しい、楽しい、か。本当だね、おまじないだね、これは」
トモリさんもそう思いました。
「おまじない?そうか、お嬢ちゃんはおまじない屋さんだったね。それじゃあ僕からも、こんなおまじないをプレゼントしよう」
と、ソンボは言って、節を付けて歌いました。
「ウッキー、ウッキー、ウキウキ、ウッキー、ウッキッキー!」
「なあに?」
「ウキウキだよ、お嬢ちゃん。ウキウキ、ウキウキ。おまじないだろう?」
「あ、本当だ。ウキウキ、ウキウキ」
「そうだよ、ウキウキ。ウキウキ、楽しい、ウキウキ、楽しい、ウッキッキー!」
音楽屋のソンボは、すぐに何でも歌にしてしまいます。
「いや、それにしても、意外です」とトモリさんは言いました。「僕も今のこの街には、悲しい音があるのだと。悲しい音楽が似合うのだと思っていました。こんな穴ぼこだらけで、こんな傷跡だらけで、この街の将来を悲観的に考えることもありましたけど。なんだか希望が持てます」
「悲しいものには、悲しい震えがあります」とソンボは言いました。「楽しいものには、楽しい震えがあります。決して僕が無理矢理楽しい音楽にしているわけではありません。そこに悲しい震えがあれば、僕は悲しい音楽を取り出します。悲しい音楽も楽しい音楽も、どちらも音楽です。悲しい音楽だから駄目だということはないです。確かに、この街は破壊されています。穴ぼこはその象徴です。でも、そこには楽しい震えがありました。どうしてでしょう、不思議です。この街は不思議な街です。不思議とこの街には希望を感じます」
「きっと女神様だわ」と、ミミルは言いました。「女神様がいるからだわ」
トモリさんは、女神像のことをいろいろとソンボに話してやりました。ソンボは興味を惹かれたようでした。
「そうですか、それなら後で行ってみましょう」
「今から案内するわ」
と、ミミルは言いましたが、ソンボは首を振りました。
「いえいえ、お嬢ちゃん。そんなに急ぐことはありません。僕はずっとこの街にいますから」
ミミルはすぐには言葉の意味が飲み込めませんでした。トモリさんが解説してあげました。
「ソンボさんは、この街に引っ越して来なさるんだよ」
「え、本当?」
ミミルは、それは楽しいと思いました。
「そうです。僕はこの街の音をもっと取り出したくなりました。だから、女神様を見に行く時間はたっぷりあるのです。それより今は、別の音楽が鳴っています」
ソンボがスティックで自分のお腹を叩くと、素敵な音楽を奏でました。トモリさんとミミルは、素敵なパン屋さんを紹介してあげました。
それから数日の後のこと。トイデル大通りに、新しい景色が増えました。聴診器とスティックを持って、街の音楽を取り出している人の姿でした。
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