第12話 トモリさんの苦い思い出

 ミミルの学業のことをどうしよう、というのが、ここ最近のトモリさんの悩みでした。


 学校へは無理して行くことはない、ということになりましたが、さて、勉強しないで大人になるというわけにもいきません。


 特にここトイデル大通りは、昔から学業には力を入れていた街。それというのも、この街を作った王様が、学問を重んじる方だったのです。


 それで王立学校を設置して、優秀な先生たちが指導に当たってきたのでした。


 その内容はというと、古風な学問でした。昔からある、歴史や文学、文法に法律、天文や科学、地理に数学などでした。


 その分、新しいものを求める若者は、別の街に出て行って、最近の思想や技術を学びたがります。スースの奥さんの息子のビゼなんかも、その口でした。


 でもトモリさんは、この街風の古い教育を受けた、筋金入りの王党派です。是非ともミミルにも、自分が学んだような、古い学問を学ばせたいと考えていました。


 今風の考えを持った若者などは、トモリさんみたいな古い考えの持ち主に対して、こんなふうに言ったりします。


「そんなことに人生の時間を使ってどうするの?もっと機械の使い方とか、ビジネスの仕方を学んだ方が、よっぽど有意義ですよ」と。


 でもトモリさんは、回り道こそ近道であるという思想のもと、しっかりとした教養を身に付けることが、後々の人生の役に立つことだと思うのでした。そしてそれはその通りなのです。


 最初は、トモリさんが先生になって、自分で教えようとしました。これでも昔取った杵柄、学生時代は学業優秀だったのです。


 幸いにも、エリーゼが使っていた教科書があります。ミミルぐらいの子であれば、自分だって、と思っていましたが、なかなかそうは行きませんでした。


 もう卒業してから、両手で数え切れないほどの春が巡ってきています。一人の赤ん坊が成人するぐらいの時間が経ってしまっていました。


 これは自分の手には余るなと思ったトモリさんは、別の方法を探すことにしました。スースの奥さんなどとも相談した結果、家庭教師を雇うことにしたのです。


 でもそれはなかなか大変なことでした。まず第一に、トモリさんにはそんなにお金に余裕がありません。店は再開していると言っても、戦争の前と比べるとまだまだ遠く及びませんでした。ミミルとトモリさん、二人が食べて行くのがやっとという状況だったのです。


 それともう一つ、先生をどうするかという問題がありました。街の人口そのものが減っていましたし、数少ない教師はみんな新政府の学校に雇われていました。


 その先生たちに課外時間にお願いするということも考えましたけど、よっぽどお金がかかるのだろうなと思って、トモリさんは断念しました。


 結局、絵描きのフィーナが、暇なときにミミルの勉強を見てくれるということになりました。トモリさんはお金を払うと言い張りましたが、フィーナはどうしても受け取りませんでした。


「私はそんなお金を頂けるほど、ちゃんとした勉強を教えられる人ではありませんもの」と言って、フィーナは申し訳なく思っているようでした。


 実際フィーナにしても、そんなに自信はなかったのです。簡単な読み書きと計算を教えるのがせいぜいでした。


「いやあ、ありがたいですよ。僕だけだったら、そんなふうには行きませんからね」

 と言って、トモリさんは朝のパンをおまけしてあげようとしましたが、フィーナはそれも丁重にお断りしました。


 なるべく人間関係というのは、特に仲のいい人同士というのは、貸し借りはなしにしたいものですからね。結局、勉強を教えに来たときに、お茶とお菓子をご馳走する、ということで収まりました。もちろんトモリさんもミミルも一緒です。


 教え始めてすぐに、フィーナはミミルがとても筋のいい生徒だということが分かりました。

「もうそろそろ私では限界ですわ」

 ある日のこと、フィーナはお茶の席でそう言いました。


「初等の教科書は、もうほとんど終えてしまいましたのよ。中等の教科書からは、急に難しくなるのね。やっぱり私なんかより、ちゃんとした先生が必要だわ」

「そんな、大丈夫でしょう、フィーナさんでしたら。まだ若いんですから」

 トモリさんがそう言うのには、別の意味もありました。


「いえいえ、ミミルちゃんってば、とっても良くお出来になるのよ。計算でも、ノートなんかいらないの。頭の中でパパッとやってしまえるのよ。文章も良くお読みになられるし、物覚えも良くていらっしゃるの」

「へえ、そうなんですか」

 トモリさんも、そこまでとは思っていませんでした。


 ミミルは自分が褒められているのが嬉しいようなくすぐったいような、なんだか複雑な気持ちでした。だってミミルにとっては特別なことをしているつもりはないのです。普通に頭に浮かんだことを答えていたら、それが全部正解だっただけなのですから。


「元々、持っているものが違ってらっしゃるのね。クラスに一人か二人、そういう子がいませんでした?なんでもすぐに理解しちゃう子」

「はあ、いましたね」


 トモリさんは昔クラスメイトだった子の顔を思い出しました。自分とは頭の出来がまるで別物なのではないか、と思わせる子でした。


 だとしたら、フィーナの言う通り、ミミルにはもっといい先生を見つけてやった方がいいのかもしれません。


「いずれにせよ、私が先生なのは初等の教科書が終わるまでですわ。絵でしたら、いつでも教えて差し上げられますけど」


(そうだよなあ)と、トモリさんは思いました。(パンの焼き方だったら、僕だっていくらでも教えてあげられるんだけど)


「ごちそうさまです。今日のクッキーもおいしかったですわ、ありがとう」

「いえ、こちらこそ。大したお構いも出来ませんで」

「では、また明日」

「ええ、また明日」


 フィーナが帰って行った後、「トモリさん」と、ミミルからトモリさんに話し掛けました。

「私、そんなに勉強なんかしなくったっていいわ」


「いいんだよ、ミミル。君が気を使わなくたって。大丈夫さ、きっといい先生が見つかるよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」

「違うわよ。だって私、おまじない屋よ。おまじない屋に勉強は必要ないわ」

「ああ、ミミル」

 トモリさんはちゃんと話すべきだと思いました。


「ミミル、残念だけど、おまじないだけでは食べていくことは出来ないよ。君のママだって、おまじないだけをやっていたわけではないだろう」

「ママはおまじないはしなかったわ」


「何をしていたんだい?」

「占い、ハーブ、それから、あと、ジュジュツ」

「ジュジュツ、呪術だね。それはおまじないとは違うんだね?」

「呪術は、ママみたいに力がある人しか出来ないの。でも、おまじないなら、どんな人にだって、誰でもできるのよ」


「うーん、それじゃあ、やっぱり食べていくことは出来ないなあ」

「それなら、私、パン屋さんになるわ。トモリさんみたいなパン屋さん」


「ありがとう。でも、それならいっそう勉強が必要だよ。なんせ僕は教養のあるパン屋さんなんだから」

「トモリさんにキョウヨウを教えてもらうのだわ」


「おっとっと。僕もそうしたいところだけど、やっぱりちゃんとした先生に教えてもらおう。フィーナさんも言っていたじゃないか。君は良く出来るんだから。せっかくの才能を伸ばさないのはもったいないよ」

「どっちでもいいわ」


 ミミルはスリッパの音をパタパタさせて、二階に上がって行きました。頭を使っておやつを食べて、きっとお昼寝をするのでしょう。


 トモリさんはそんな背中を見送って、しばらくミミルの将来について思いを巡らせてみました。この先ずっとミミルの親代わりをやって行くとすれば、ちゃんと考えねばなりません。


 フィーナはミミルの頭の出来が自分たちとは違うと言っていました。トモリさんは、また初等学校時代のクラスメイトだった子のことを思い出しました。勉強であれば何でもすぐに出来てしまう子でしたが、どこか子どもの世界とは馴染まないような、大人びた雰囲気の子どもでした。


(あの子は今、どうしているだろう。確か高等学校に進んで、それ以降まったく分からないな。きっと僕なんかとは全然違う人生を送っているんだろうなあ)

 トモリさんは、なんだかミミルが自分の遠くに行ってしまうようで、寂しくなりました。


 寂しくなって、ふとエリーゼのことを考えました。そういえば、自分はエリーゼにはどうなって欲しかったのだろうと思いました。


 まだ将来のことを考えるのは早い、そう思って先送りにしていたように思います。とりあえず王立学校に通わせていれば安心だと、本当に真剣には考えていなかったような気がします。


 そのうちエリーゼがパン屋を継ぎたいと言い出したら、パン焼きの技を教えよう、なんてことを、ぼんやり思っていたかもしれません。


(ああ、そうだ。思い出した)

 そうしているうちに、奥さんだった人とのことを思い出しました。

(彼女とは意見が合わなかったんだ)


 上流階級出身の奥さんは、エリーゼを淑女のように育てたがりました。でもトモリさんは、もっと子どもらしく、わんぱくに育ててもいいのではないかと思っていました。トモリさんはここに来て自分の本心に気付きました。


(そうだ。僕はエリーゼにパン屋を継いで欲しかったんだ。でも彼女はそれを望んでいなかった)

 トモリさんは、二人の間にあった溝に気付きました。それはずっと前から、二人が一緒になったときから、二人の間にあったものでした。


(見ないようにしていたんだ)

 エリーゼが生まれて、これで大丈夫だと安心したい気持ちがありました。事実エリーゼの存在は、二人の仲をかろうじて繋ぎ止めていました。そのエリーゼがいなくなってしまって、とうとうその溝は元に戻らないくらい広がってしまったのでした。


 トモリさんを支えていたものは、古いものに対する信頼でした。伝統に対する依存でした。


 夫婦は一生添い遂げなくてはいけない。それが子どもにとって一番幸せなこと。たとえ、多少ぎくしゃくしたところがあったとしても、我慢して表面上は仲良くやっているようにしていけば、やがて人生を振り返ったとき、いい人生だったと思えるだろうということ。


 パン屋の子どもはパン屋になるのが当たり前だという思い込み。

 トモリさんには、そういった信念がありました。それを支えていたのは、王様に対する信頼でした。


 王様がいてくだされば、自分たちの暮らしは安定して幸せを感じながら生きていける。そういう妄信的な思い込みでした。


 でも、その王様はもうこの国からいなくなってしまいました。

 戦争の終盤、信じていた王様が国民を裏切った出来事は、トモリさんの生きる基盤といったものを衝撃的に打ち崩したのです。


(それでも、自分はまだ王様の幻想というものを当てにしていたんだな)とトモリさんは思いました。(僕も新しくならなきゃいけないのにな)


 トモリさんはこれからのことを考えて、漠然とした不安に駆られました。その反動からか、奥さんだった人のことを思いました。


(僕は彼女を愛していたんだろうか)と、自問自答しました。(愛していた。愛していたと思う。彼女のことも、エリーゼも。精一杯愛していた。でも、どうして駄目になってしまったのだろう)


 トモリさんはしばらく椅子に座って考えていました。

(僕はこの幸せがずっと続けばいいと願っていた。でも、それは彼女の願いであったのだろうか?彼女はどうしたかったのだろう。もっとちゃんと彼女と話せたら良かったのに。エリーゼは?エリーゼは将来どうなりたかったのだろう?僕はエリーゼとしっかり話し合っていただろうか?)


 口の中に苦いものを感じました。すっかり冷たくなったミルクをお茶に入れて飲んでみましたが、それは消えてくれませんでした。どんよりとした不安が、頭の上から覆い被さってくるのを感じました。


 女神像の噴水にコインを投げ込んだときの自分を思い出しました。いくらコインを投げ込んでも、不安は去ってくれませんでした。


 トモリさんはしばらく頭を抱えて考え事をしていました。でも、いくら考えても、考えらしい考えが浮かんで来ませんでした。


 代わりにかつてのクラスメイトだった子のことが、頭に浮かんで来ました。

(僕はミミルにはどうなって欲しいのだろう。ミミルはどうなりたいと思っているのだろう?)


 またミミルが遠くに行ってしまうような気がして、落ち着かなくなりました。一人になった自分を想像して、悲しくなりました。これじゃミミルがここに来る前と同じだと思いました。


(あのときも、これからどうしていいかわからなくて。将来に希望が持てなくて。ああ、最近良くなってきたと思っていたけど。希望って、しっかり掴んでいないと、すぐにどこかに行ってしまうものなのだな)


 トモリさんは、底のない暗闇に沈んでいくような気になりました。


 すると「トモリさん」という声がして、トモリさんは意識を戻されました。小さな手がトモリさんの肩に乗せられていました。ミミルでした。


「ああ、ミミルか。ごめん、ちょっと考え事をしていただけだよ。心配いらない。君は上で休んでおいで」

 けれどミミルは首を横に振りました。


「心配なんかしていないわ。心配はいらないわよ。でも、トモリさんには必要なものがあるの」

「何だい」

「おまじないよ」


「僕にはおまじないが必要だろうか」

「必要よ。だってトモリさん、今おまじないが必要っていう人の顔してたもの」


「それはどんな顔だろう?」

「そこら辺にいくらでもあった顔。つい最近まで、戦争中にいくらでもあった顔」

「そうだった」


 トモリさんは優しくミミルの頭を撫でてやりました。

「僕に必要だったのは、おまじないだ」


 今さっき考えていたこと、奥さんだった人のこととか、エリーゼのこととか、ミミルがここに来たときのことなどが、いっぺんに思い出されました。


「でも、どんなおまじないだろう。僕に必要なのは?」

「また明日」

「また明日?」


「そうよ。さっきフィーナさんが言ったこと、私なりに良く考えてみたのよ。もしもうちょっと勉強した方がいいのだったら、してみるのも悪くないわって」


 トモリさんも、さっきフィーナが言ったことを思い出しました。

(また明日、か…)


「今までそんな勉強したいだなんて思ったことなかったけど、ちょっとしたい気になってきた気がするわね。おだてられちゃったのかもしれない。私ってば、思ったより子どもだったのかもね。でもそれよりも、昨日までと違う明日があってもいいかなって思い始めたの。だからまた明日」


「また明日、か…。また明日、また明日」

 トモリさんは新しいおまじないを口の中で繰り返しました。


「だいじょうぶよ。勉強したって、今までのことがどっかに行っちゃうわけじゃないわ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。私はずっとおまじない屋よ」


「そうだね…」

(また明日。でも今までのことにさよならする必要はないんだ)

 トモリさんに、また小さな希望が戻ってきました。


「ありがとう、ミミル。だいじょうぶだよ。ちょっと昔のことを考えていたんだ。昔のことを考えて、ちょっと憂鬱になっていた。それだけなんだ、だいじょうぶ」

「もういいかしら?」


「うん、ありがとう。心配いらない。君の先生のことは、ゆっくり探そう。なに、きっといい人が見つかるさ。だいじょうぶ」

「良かったわ」


 ミミルはお昼寝をしに、また上に上がって行こうとしました。でもその途中で振り向いて言いました。


「またご入用のときは、いつでもどうぞ。おまじない屋の場所は分かってるわよね?」

「ああ、また明日」


「こんなにいっぱい仕事があるのに、何でおまじない屋じゃ食べていけないのかしら?」と言って、ミミルは階段の奥に消えて行きました。

 苦笑いして、トモリさんはそれを見送りました。


 一人になって、首にかけていたロケットを開いて中の写真を見て、こう口に出して言ってみました。

「いつまでも僕の中にいていいんだ。でも、また明日。さよならはしないけど、また明日」

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