第7話 絵描きのおまじない
ミミルとトモリさんは、この頃散歩に出かけることが多くなりました。お店は朝のうちだけ開けておけば十分でしたし、ミミルはスースの奥さんに作ってもらった新しい靴を履いて外に出たくてウズウズしていたのです。
それでこの日も、まだお昼前に、二人連れ立って出かけていきました。
通りには、穴ぼこがまだいくつも残っていました。器用に穴や割れ目を避けて、二人は歩いて行きました。
むしろ穴ぼこがあるおかげで、車が入って来れなくて安全なぐらいでした。空は綺麗で、お日様が輝いていました。
嘘みたいにのどかで、平和な日でした。
トモリさんは不思議に思いました。少し前まで、本当に戦争があったのです。暗いパン屋に閉じこもって、トモリさんは絶望感に打ちひしがれていたのです。
(あのときは、こんな暗闇がずっと続くのだと思っていたなあ)
それが今は、気持ちのいいお天気の日に、ミミルと一緒に軽快に歩いています。トモリさんはミミルが店に舞い込んで来た夜のことを思い出しました。
(突然、この子がやって来て。そんなこと思いもよらなかった。僕の仕業じゃない。僕がしでかしたことじゃないな。するとこれは女神様のお導きなんだろうか)
トイデル大通りの真ん中にある公園を、港に向かって歩いていくと、二人はいつの間にか噴水の女神像のところにやって来ていました。それがいつものお決まりの散歩のコースでした。
噴水と言っても、ここも壊れてしまっていて、水は枯れていました。いつもここで少し休憩することにしていました。ミミルがいつもそうしたがったのでした。
「女神様、まだ壊れてる」
と、ミミルは女神像を見上げてポツリと言いました。
女神像は酷い有様でした。胸のところから大きく抉られ、首から上と片腕がありませんでした。
「どうしてすぐに直さないの?」
と、ミミルはトモリさんに訊きました。
「まだ道路の穴も塞がっていないし、壊れている家も多いからね」とトモリさんは答えました。「女神像は壊れたままでも、僕らは生きて行けるじゃないか。人々の生活が先なんだよ」
そう言うと、ミミルは少しひねくれたみたいになりました。
(あれ、何かまずいことを言ったかなあ)
とトモリさんは思いました。
「そういえば、君は何か言っていたね。この女神像のこと」
そう語りかけてみましたが、ミミルは下を向いて石ころを蹴飛ばしたりしていました。
(ときどき、すごく大人だったり、すごく子どもだったりするんだよなあ)
とトモリさんは思いました。
そのときカモメが一羽やってきて、女神像の片方だけ残った肩に止まりました。カモメたちはときどき、噴水のところに集まって、羽を休めるのです。
「ほら、カモメが来たよ」とトモリさんは言いました。「カモメも女神様が好きなんだ」
「昔はもっと来ていたわ」
とミミルはやっと口を開いてくれました。
「カモメはおまじないする?」
とトモリさんは訊きました。
「しないわよ」とミミルは答えました。
「しないの、どうして?」
「だって、喋れないじゃない」
「そうだった」
と、トモリさんは一本取られた、といった感じで後ろ頭に手をやりました。
「早く直した方がいいね、うん。今度街の人たちにも言ってみるよ」
とトモリさんは失敗を繕うように言いました。
それから二人は、カモメが飛んできた方に歩いて行って、港に出ました。港にはヨットや船が、壊れたままで停泊していました。
「ここから街を見ると、綺麗だったんだよ」
昔を懐かしむように、トモリさんは言いました。海に面した家々は、壊れているのと壊れていないのとがありましたが、みんなくすんだ色でした。
「この辺の家は、戦争の前はみんなカラフルだったんだ。漁師さん達が海から戻って来たとき、すぐに自分の家がどれだか分かるように、派手な色を塗っていてね。でもそれじゃ目立って爆弾の標的になるから、地味な色に塗り替えたんだそうだ」
「まだ戦争は終わってないの?」
「だいじょうぶ、終わったよ。そのうちまた綺麗になるよ」
トモリさんはミミルの肩を抱き寄せて、しばらくじっとしていました。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
港の空の低いところを、カモメたちが舞っていました。二人が袋に入れて持って来たパン屑を撒くと、すぐに空から降りてきて、カモメたちは飢えたようにパン屑を啄みました。
「お腹空いていたのね」
「カモメもパンを食べるんだ」
「戦争は、終わったのよ!」
ミミルははしゃいで、堤防の上を走りながら、袋に残ったパン屑を撒き散らしました。
「あ、ミミル、待って」
誰もいないと思っていたら、トモリさんは、そこに人がいるのを見つけました。
「ごめんなさい、邪魔しちゃって」
その人は、絵を描いていました。キャンバスの横から顔を出して、ニッコリ微笑みかけました。その顔にトモリさんは、ドキッとしました。長い髪の女の人で、凄く美人でした。
「いえ、構いません」
と、その人は感じよく答えました。
上品で、おしとやかな印象の人でした。地味だけど仕立てのいい服を着て、白い日除け帽を被っていました。トモリさんが見たことのない女の人でした。
「すみません、人がいるのを知らなくて」
パン屑を全部撒いてしまったミミルがやって来ました。
「ミミル、人がいるのを良く確認するべきだった」
「ごめんなさい」
とミミルはペコリと頭を下げました。
「ミミルちゃんって言うのね。お利口さんね。だいじょうぶ、迷惑じゃないわ」と、女の人はミミルにも感じ良く微笑んでくれました。「元気なお子さんですね」
と、トモリさんにも屈託のない笑みを見せました。
「あ、いえ……」
と、トモリさんは言い淀みました。違うんです、この子は僕の子どもではないんです、という文章が頭に浮かびましたけど、見ず知らずの人にそこまで説明しなくてもいいか、とも思いました。
それに、親子に見られたことを嬉しく思う気持ちも、どこかにあったのです。
するとふいに、「わあ、すごい!」という声がトモリさんの耳に入りました。見ると、ミミルがキャンバスの前に回って、驚いていました。
「あ、ミミル。勝手に見ちゃだめだよ」
「いいんですよ。良かったら、ご覧になってください」と女の人は言いました。「お気遣いなく。そろそろお昼ですし、ちょうど切り上げるところでしたから」
そこでトモリさんも失礼することにしました。
「わあ、これは……」
と、息を飲みました。
「あまりお好みでなかったかしら?」
と女の人は不安そうに言いました。
「い、いえ、違います。すごく素敵で。思わず引き込まれてしまったんです」
「本当ですか?やり過ぎだと思われたら、正直に言ってくださって構わないわ」
と、女の人は、くすんだ色の家の壁に目を向けました。
「そんなことはありません」とトモリさんは力強く言いました。「とても素敵だと思います。ね、ミミル?」
「すごく綺麗だわ」とミミルは言いました。「こんな街だったらいいなあ」
「本当?ありがとう」
女の人は、ミミルに向かってニッコリと微笑みかけました。
キャンパスの上には、美しいエメラルドグリーンの海と、そこに浮かぶ色とりどりのヨットがありました。明るい空をバックにして、岸辺の家々は、みんなパステル調のカラフルな色に塗られていました。
「いえ、驚きました」とトモリさんは興奮して捲し立てました。「元々家の壁はこんな色ではありません。もっと原色の、はっきりした色でした。でも、こちらの方がずっと綺麗です。海だって、空だって、実物よりもずっと綺麗です。ずっと地元で生きてきましたけど、こんな素敵な港の風景は見たことありませんよ」
それからしばらく話をしてみると、女の人はフィーナと言って、絵描きの見習いのような人でした。絵の修行であちこち旅をして回っていて、数日前から、トイデル大通りの例の老舗のホテルに宿泊しているということでした。
「この街には以前から興味があったのですけど、戦争が終わってようやく行けるようになったものですから」
とフィーナは言いました。
「この街は気に入っていただけましたか?」とトモリさんは訊いてみました。「今はこんなですけど、戦争の前はもっと綺麗だったんですよ。王様の通りなんて言われて、それは賑やかでした。この辺りも、こんな殺風景じゃなかったんですけど」
「今も十分魅力的だと思いますわ。特に私の故郷は山の方ですので、こういう港のある風景に憧れます」
「それは嬉しいなあ、あちこち回ってらっしゃる方にそう言われると。僕は先祖代々この街でパン屋をやっていて、お恥ずかしながら、あんまり外の世界を知らないんです」
「まあ、パン屋さんですの」
「ホテルから少し歩いたところですよ。レインボウ・ベーカリーという店です」
「ああ、そう言えば一軒、お見かけしましたわね」
「ええ。隣に一歩一歩っていう靴屋さんがあります。僕は店の主人で、トモリと言います。レインボウ・ベーカリーのトモリです」
すると間髪入れずにミミルがこう言いました。
「私はミミルよ。おまじない屋なの」
「おまじない屋?」とフィーナは訊きました。「おまじない屋って、何かしら?」
「おまじないがご入用な人に、おまじないをあげるのだわ」
とミミルは答えましたが、フィーナがうまく飲み込めていない様子でしたので、トモリさんが補足をしてあげました。
「えっと、一応、一階がパン屋で、二階がおまじない屋ということになっているんです。おまじないが必要な人におまじないを渡してあげるんですけど、普段は、僕がパンを焼くときにミミルがおまじないをかけてくれます。ね、ミミル。いつもどうやっているのか、フィーナさんに教えてあげなよ」
「オーブンに向かって、こう言うの。おいしい、おいしいって」
と、ミミルはちょっと恥ずかしそうに言いました。
「まあ、そうなの。面白いわね」と、フィーナは言ってくれました。子どもの遊びのようなものと思ったのかもしれません。「じゃあ、私の絵にもおまじないをかけてもらおうかしら?チチンプイプイうまくなれ、とか?」
ミミルは、ウーム、と考えました。ちょっと違うんじゃないかと思っているふうでした。
「こういうのはどうかしら?ステキ、ステキ」
「ステキ、ステキ、か」
「そうよ、ステキ、ステキ。そう言うと、本当に素敵になるのよ」
ところが、今度はフィーナが、ウームと考え込みました。
「うーん、そうね。それもいいけど、私が欲しいのは、もうちょっと別のものかな」
「別のもの?」
「うん。もちろん素敵な絵は描きたいわ。上手な絵も描きたいと思う。けど、世の中には、素敵で上手な絵を描く人はたくさんいるのよ。私が欲しいのは、そうね、もっとこう、何て言うかな。私にしか描けないもの。私が描かなければこの世に存在しないもの。まだ誰も見たことのない景色のような、そんなものなのよ」
と、フィーナは知らずに真顔になっていました。
そこでミミルは、「ちょっと待ってて」と言って、ポーチからおまじないノートを取り出しました。
パラパラめくって、何か相応しいおまじないがないか探してみましたが、それらしいものは見つかりませんでした。
フィーナはミミルが困っていると思って、助け舟を出してあげました。
「じゃあ、私はまだもう少しこの街にいるから、それまでに考えておいてちょうだいね」
「うん」
「ねえ、ミミルちゃん」
「なあに?」
「こういうのは、あなたどうだと思うかしら?」と言って、フィーナはキャンバスのある部分の上で、絵筆をくるくる動かしました。「この辺に天使が飛んでいたら?」
ちょっと言うのが恥ずかしい気もあったのですが、フィーナは口に出して言ってしまいました。ミミルの前だと、みんなこうなのです。
「うーん、と」
ミミルは戸惑ってしまいました。絵の良し悪しを判断することに慣れていなかったのです。
「やっぱり駄目か。駄目よね。色を変えるぐらいならまだしも、ないものを作っちゃ駄目ね」
「いや、いいですよ。そんなことないです」と、代わりにトモリさんが答えました。「こんな素敵な街に、天使が飛んでいちゃ駄目なんてことがあるものですか」
「お気遣い結構ですわ。いいんですの。私はいつもこうして絵を台無しにしちゃうのよ。師匠からも良く言われるんです。空想で描くのではなくて、実物をちゃんと見て描きなさいって。それで各地に出かけて風景を描いているというのに、これじゃあ駄目ね。いつまで経っても一人前の画家にはなれないわ」
「そんなことないですよ」とトモリさんは思わず熱が入りました。「これは僕の中にあるこの街です。僕の思い出の中にある、トイデル大通りです。さっきも言いましたけど、この街は、本当に綺麗な街だったんです。僕の誇りだったんです。ただ……」
「ただ?」
「それよりも、もっと綺麗だっていうことです。この絵の中のトイデル大通りは」
「どうもありがとう」とフィーナは、ほんのり顔を赤らめてお礼を言いました。「あなたたちにお会いできて嬉しかったですわ」
「いえ、こちらこそ」とトモリさんは言いました。「素敵な画家の方とお会いできて嬉しいです」
「さあ、今日はこのくらいにしましょう。そろそろお昼にしなくっちゃ」
と、フィーナは絵の道具をしまい始めました。
「あ、あの、良かったら、ウチのパン屋に来ませんか。この時間はお客さん来ませんし」
「いえ、ご親切にどうもありがとう。けど、ホテルのカフェに予約をしてあるのですわ。この街には、まだ気軽に食べられるようなお店はありませんし、お弁当を作ってもくれるんですけど、昨日それをやったら、あの子たちが喜んじゃって」
とフィーナは、ヨットのマストに止まっているカモメを見て、肩をすくめて笑いました。
三人はホテルまで一緒に歩きました。ミミルはなんだか嬉しくて、フィーナに色々と喋りながら行きました。
「まあ、そうなの。てっきり私は親子だと思っていたわ」
そうフィーナに言われて、トモリさんは少し照れくさそうでした。
「こんな状況ですから。みんなで助け合わないと」
「あなたもお小さいのに色々とあったのね。同情するわ」とフィーナはミミルに言いました。「でもトモリさんがいて良かったわね」
「女神様のおまじないのおかげなのよ」
「ウフフ、あなたは本当におまじないが好きなのね」
「僕も助けられているんです」と、トモリさんは言いました。「おまじないって、本当に力があるのかもしれません」
「だとしたら、夢のようですわね」
フィーナは優しく微笑みました。
帰るときに、噴水の女神像のところを通りました。女神像はやっぱり壊れていて、ミミルは残念そうにそれを眺めました。
「女神様も描く?」
「そうね、今度そうしましょうかしら」
やがてホテルに着き、二人と一人に分かれました。
「今度、パンとおまじないをいただきに行きますわ」
と言って、フィーナはホテルに入って行きました。
トモリさんとミミルはまた、道の穴ぼこに注意して、家まで歩いて行きました。道すがらトモリさんは、こんなことを考えていました。
(フィーナさんか。素敵な人だな。また会えるといいなあ)
その日の夜遅くのこと。ミミルがトイレに行こうと、パタパタとスリッパの音を鳴らして一階に降りて来ると、まだ明かりがついていました。
パン種をこねる調理台の前で、トモリさんがうーんと腕組みをしています。
「トモリさん、まだ起きてらっしゃるの?」
「ああ、うん。もう寝るよ」
とトモリさんは腕組みをしたまま、上の空で返事をしました。
ですが、ミミルがトイレから出てきた後も、トモリさんはまだ同じ格好のままでした。
「寝なさるんじゃなかった?」
「ああ、うん」
「何してらっしゃったの?」
「うん、実は……」
トモリさんは、新作のパンの開発に取り組んでいたのでした。店を再開したと言っても、まだ満足にパンの材料が手に入らない状況でした。ですが、今手に入る材料だけでも、何か工夫が出来ないかと思ったのです。
「昼間、フィーナさんの絵を見ただろ?あんなふうに、僕も創造性が発揮できたらと思ってね。現状を甘んじて受け入れるだけじゃなくて、創意工夫すれば素敵なものが生まれるんじゃないかと。できればフィーナさんが買いに見えたときに、びっくりさせてやりたいんだ」
「それで、いい案は浮かんだのかしら?」
「ウーム、あんまり浮かばないなあ」とトモリさんは言いました。「そうだ、こんなときこそ、君の力が必要だよ。何かいいおまじないでも、かけてくれないかな?」
「それを私も悩んでいるのだわ」と、今度はミミルが腕組みをして言いました。「フィーナさんから依頼を受けたのよ」
「そうだった。君も新作の開発をしているんだった」
「そうなのよ」
「フィーナさんの絵みたいに、夢のあるパンを作りたいな。でも僕が考えると、どうも堅苦しくなっちゃうんだよ。食パンは四角だろう、ならば、それを三角にしたり丸にしたりと、色々考えるんだけど、それじゃつまらないよなあ」
トモリさんは、ふわあっと大きなあくびをしました。
それがうつったのか、ミミルも、ふわあっと大きなあくびをしました。
「こんなのはどうかしら?小人の形の小人パン。トモリさんが寝ている間に動き出して、食パンの仕込みまでやってくれるわ。それで朝になると、勝手に動いて私の口に入って行くの」
「あはは、それは夢みたいだね。まるで魔法だよ。さ、おやすみ。夢の続きはベッドで見ようね」
「はーい」
トモリさんは、眠い目を擦りながら二階に向かうミミルを見送りました。
「ふう、小人か。小人みたいに魔法が使えたらなあ。自由自在だ」
そのとき、パタパタというスリッパの足音が、ピタリと鳴り止みました。
「トモリさん」
今度はバタバタと、ミミルが降りてきました。
「うん、何だい?」
「それよ!」
「どれ?」
「フィーナさんのおまじない!それよ、それだったんだわ!」
数日後。いよいよ地元に帰るという日の朝になって、フィーナはレインボウ・ベーカリーの扉を開けました。
「ごめんくださいな」
「いらっしゃい、あ、フィーナさん!」
満面の笑顔で、トモリさんが出迎えてくれました。
「悪いと思ったのですけど、なかなか顔を出せなくて。帰る前にパンとおまじないを頂きに来たんです」
「ええ、僕らも、フィーナさんをお持ちしていました。自信作のパンとおまじないをお渡ししようと。見てください、これを」
と、トモリさんは新作のパンをフィーナに見せました。
「まあ、これは……。これがパンですの?」
と、フィーナは目を丸くしました。
それはまるで棒のように細長い形をした、固いパンでした。こんなに長いパンを目にしたのは、初めてでした。
「ええ、今ある材料だけで、何か工夫出来ないかと思って考案してみたんです。けど、これが大正解。フィーナさん、ちょっと味を見てくださいませんか」
トモリさんは、細長いパンを小さく輪切りにして、フィーナに渡しました。
「まあ、おいしい。外がカリッとして中がモチッとして。素朴だけど、噛むたびに味が深まるわ」
「お気に召しましたか?」
「ええ、これなら毎日食べても飽きないわね」
フィーナはお土産にと、一本買って籠に入れました。パンはとても長くて、籠から大分はみ出てしまいました。
「ちょっと長すぎましたか?」とトモリさん。
「とても個性的で素敵ですわよ。ウフフ、家の人たち、何を持って帰ってきたのかと思うでしょうね」と、フィーナは大変気に入ってくれたようでした。「良くこんな斬新なパンを思いつきましたね」
「実はミミルのおかげなんですよ」
「と言うと、おまじない?」
「ええ、そうなんです」
そのときパタパタと、ミミルが二階から降りて来ました。
「あ、フィーナさん」
またフィーナに会えたのが嬉しくて、ミミルは仔犬のように彼女の周りを跳ね回りました。
「出来たわよ、出来たわよ、フィーナさんにピッタリのおまじない」
「まあ、ミミルちゃんったら。それはなあに?」
「自由自在、自由自在だわ。フィーナさん、自由自在よ」
フィーナは、はっとして息を飲みました。
「自由自在?」
と、自分で呟いてみました。
「そうです、自由自在です」と、トモリさんが言いました。「僕たちは、つい物事を型に嵌めて考えがちです。例えば、戦争中には派手で華美なものは駄目だとか、復興はまずは生活に直結するものから、とか」
「自由自在……」
「この店は、ずっと食パンを自慢にしてきたんです。これは代々の主人が守り通してきた、大切なこの店の伝統です。この先もずっと残していきたいと思います。ですが、それは別として、僕もフィーナさんが仰ったような、誰も見たことのない景色を見てみたいと思いました。だから、思い切って今までの在り方からはみ出そうと思ったんです。でも葛藤がありました。伝統があるからこそ、枠をはみ出してはいけないのではないかと」
「自由自在でいいのだわ!」
と、ミミルはトモリさんのエプロンを引っ張りました。
「そうだね、ミミル。もう戦争は終わったんだ。僕らは何も恐れることはない。家の壁をカラフルにしたって、パンが籠からはみ出したって」
「自由自在か…」
と、フィーナは改めておまじないの言葉を呟きました。
「そうですよ、自由自在です。だからね、いいんですよ。街に天使が飛んだって」
とトモリさんはフィーナを見てニッコリとしました。
「だって、自由自在だもの!」
と、ミミルはしばらく興奮が止まりませんでした。
フィーナは、その日レインボウ・ベーカリーで、一風変わった棒みたいなパンと、おまじないを手に入れて、故郷に帰って行きました。
この細長いパンは、その後に大変評判になり、籠からパンを出して歩く人の姿は、この街の名物になったのです。
それから、しばらく後のことです。ある日の朝、レインボウ・ベーカリーの扉に付いたベルがリンリンと鳴って、お客さんが入って来ました。
「いらっしゃい」
いつものように出迎えたトモリさんの顔が、パアッと明るくなりました。
「フィーナさん!」
「お久しぶりですわ」
入って来たのは、あのフィーナでした。
「やあ、お久しぶりです。またこちらにいらしたんですか」
そうトモリさんが聞くと、フィーナは少しはにかんだ笑顔を見せました。
「実は……」と言って、話し始めました。「この街を気に入ってしまいましたの。もっとこの街の風景や人々を描きたいと思いまして。それで、私、思い切ってこの街に引っ越そうかと思うのですわ」
「ええっ、本当ですか!?それは嬉しいなあ。それで、家はもう?」
「いえ、今はまだホテルですけど、近くにアパートを借りようと思っているんですの。でも、ご迷惑でなかったかしら?」
「迷惑だなんてとんでもない。大歓迎ですよ!」
それは待ち侘びた再会でした。
「ミミル、降りておいで!」
「なあに、トモリさん?あ、フィーナさん!」
ミミルにとっても、それは嬉しい再会でした。ああいう人が街に住んでたらいいね、なんてトモリさんと話していたのですから。
「またこちらに来てくださったのね!」
ミミルはフィーナの両手を取って跳ね回りました。
「ミミル、ビッグニュースだよ。フィーナさんがこの街に引っ越して来なさるんだ!」
「ええっ、本当なの!?」
「そうよ、よろしくね。ミミルちゃん、この街の暮らしはどう?」
「最高よ、フィーナさん!だって朝が来る度に、世の中で一番素敵な香りに包まれるんだから!」
フィーナは少し不思議そうな顔をしました。トモリさんが説明を足しました。
「あはは。朝焼いたパンの香りが、二階のミミルの部屋まで届くんですよ」
「まあ、それは確かに素敵な朝だわね。私もここの二階に住みたいわ」
なんて言ったものですから、トモリさんはドキッとしました。
ところでフィーナは、ミミルにお土産を持って来ていました。
「ミミルちゃん、これ良かったら私からプレゼントよ」
「なあに?」
「絵描きには絵を描くことしか出来ないから。こんなもので気に入ってもらえるかしら?」
それはフィーナが描いた、この街の風景画でした。想像で描いた街ではなく、正確なスケッチを元にしたものでした。でも本当とは違うところもありました。
「女神様!」
ミミルは、はっと息を飲みました。
(ママ!)
思わず出かけた言葉を慌てて飲み込みました。
そこに描かれていたのは、天気のいい日にこんなところで過ごしたいと思うような、素敵な公園。その中心にあるのは、どこも壊れていない噴水。それと、その真ん中で優しく微笑んで人々を見下ろしている、美しい女神像でした。そのまわりを羽の生えた天使たちが取り囲んで、祝福を送っていました。
「ほう、これは綺麗だなあ」
絵を覗き込んだトモリさんが感心するほど、それは良く描けていました。
「気に入ってもらえたかしら?勝手に作っちゃ駄目かなとも思ったけど、でも、自由自在ですものね。私もおまじないに背中を押されたのよ」
「女神像の顔、なんだかミミルに似ていませんか」
「ええ、これを描いている間中、私の頭にずっとミミルちゃんの姿が浮かんでいたのよ」
ミミルはしばらく、絵の中の女神像から目を離すことが出来ませんでした。それはミミルに似ているというより、ミミルのママにそっくりだったのです。
「これ、頂いちゃってもいいの?」
ミミルは声が震えないようにするのに必死でした。
「あなたに贈るために描いたのよ」
その日ミミルに、新しい宝物が増えました。
「フィーナさん、僕からもお礼を言います」
「お礼を言うのはこちらの方こそですわ。私、なんだか吹っ切れましたのよ。私は絵描きなんですもの。自由自在に、私の描きたいものを描くことにしますわ。それで、もっとこの街を描いてみたいと思いましたのよ。美しくなっていくこの街を」
今では、トイデル大通りのあちらこちらで絵を描いているフィーナの姿を見かけます。それは復興していくこの街の、新しい風景の一部となったのです。
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