第6話 靴屋のおまじない

「いただきます」

「いただきます」

「いただきます」

 三人で食事の前のおまじないをして、お茶とクッキーをいただくことにしました。


「もっといろいろあるんですよ、おまじないが」

 とトモリさんはスースの奥さんに言いました。

「このクッキーも、おまじないをして焼いたのだわ」

 とミミルは得意げでした。


「おいしい、おいしい、ですか。うふふ」と言って、スースの奥さんはクッキーを口に入れました。「久しぶりですねえ、トモリさんのクッキーをいただくのも」


「ところで奥さん、しばらくはこちらにいるんでしょ。また店を開けるんですか」

 とトモリさんは訊きました。

「そうねえ。帰って来たはいいけど、私一人では、大したことは出来ないし」とスースの奥さんは言いました。「店をやるのは、どうしようかと思っていますわ」


「奥さんだって、いい腕をお持ちじゃないですか」

「でも、一人ではねえ。やる気も起きないわ」

 奥さんは言葉を切ると、お茶を少しすすりました。


「スースの奥さんはね、靴屋さんなんだ。お隣さんだよ」

 と、トモリさんはミミルに言いました。

「ステキだわ。靴屋さんって、なんだかステキよ」

 と、ミミルはスースの奥さんに言いました。

「そうかい?ずっとやっていると、あまり何も感じなくなるのよ」

 とスースの奥さんは答えました。


「ステキだわよ。いろんなところに通じているって感じがするわ」

 とミミルは言いました。

「へえ、それはどういうこと?」

 と、トモリさんはミミルに訊きました。

 するとミミルはこう答えました。


「だって、山の靴なら、山に行くわ。海の靴なら、海に行くわよ。お散歩用なら、お散歩するでしょ?春の靴があれば、春のお花を見に行けるし、冬の靴なら、雪の上だってへっちゃらよ。雨の日だって、長靴があれば楽しいわ。でも、靴がないとどこにも行けないのよ。ずっとお家でお留守番。靴があるからどこかに行けるのだわ。だから靴屋さんって、きっと世界中どこにでも通じているのよ」


「面白いね」とトモリさんは言いました。「靴屋の扉を開けると、そこはジャングルでした、なんてね。そう考えると、靴屋というのは素敵な仕事ですね」


「そんなこと考えたことなかったわ」とスースの奥さんはちょっと戸惑い気味で言いました。「ただ、その人の足に合うように靴を作るだけですよ」


「それがいいんじゃないですか」とトモリさんは言いました。「その人の足に合う。これが最高ですよ。ほら、この靴だって、昔スースのご主人に作ってもらったものです。軽くて滑りにくくて、パン屋の仕事にちょうどいいんです」

 ほら、と、トモリさんは自分が履いている靴をミミルに見せました。


「トモリさんは、この靴があるからパン屋なのだわ」

 とミミルは言いました。

「そうだね」とトモリさんは答えました。「これはパン屋の厨房に入っていける靴なんだ」


「ありがとうね」とスースの奥さんは言いました。「大事に使っていてくださるのね。あの人はでも、そんな大それたことは考えていませんでしたよ。ただ一つ一つの仕事を丁寧にすることだけでしたわ」


「職人でしたね、ご主人は。本当の職人でした」とトモリさんは昔を懐かしむように言いました。「僕もご主人を見習うところがあります。いけないことですが、長くやっていると、どうしてもおざなりになってしまうことがあるんです。仕事が雑になってしまいます。でも、そんなときには、この靴を見る。本当に自分の足元を見るんです。そうすると、基本に立ち返れます。目の前の仕事を丁寧に、一歩一歩進んで行かなければいけないな、と改めて思うんです」


「立ち返るから進めるのだわ。面白い」

 とミミルは言いました。

「そうだね」と言ってトモリさんはクスッと笑いました。「一歩一歩」


 すると、ミミルはこう言いました。

「それ、いいわね」

「それ?」

 とトモリさんは訊き返しました。

「今の言葉。おまじないみたいだわ。一歩一歩」

 とミミルは言いました。


「一歩一歩、か。それもそうだね、おまじないみたいだね、これは。ねえ、奥さん。時間はかかるかもしれないけど、この街も一歩一歩、元に戻っていければいいですね」

「そうですね、一歩一歩」と、スースの奥さんは何かを思い巡らすように言いました。「先は長いけど」


「そうですよ、一歩一歩」とトモリさんは言いました。「何だか靴屋さんにピッタリじゃないですか、一歩一歩って」

「本当ね」とミミルは言いました。「靴屋さんみたい」


「一歩一歩、ねえ」とスースの奥さん。「戻っていけるかしら」

「戻っていきますよ」とトモリさんは言いました。「何事も一歩一歩です。僕も今は食パンしか売り物がないパン屋ですけど、でも、一歩ずつ進んでいければいいと思っています」


 スースの奥さんは、しばらく天井を見上げていました。それからこんなことを言いました。

「店を開いていようかしらね」

「本当ですか、それは嬉しいなあ」とトモリさんは喜びました。「ねえ、奥さん。僕はおまじないの力だと思っているんです。なんだか、根拠はないけど、希望のようなものが湧いてきませんか?」


「だといいけど」

「そうですよ、きっと」

「おまじないかどうかはわからないけど、でも、細々とやりながら、あの子の帰りを待つとしましょうかね」


「ビゼ君……」

 トモリさんは言葉に詰まりました。デリケートな問題を抱えている人の前で、少しはしゃぎすぎたかもしれないと反省しました。


「あの人がね、後悔していることが一つだけあって」

 そう言ってしまってから、スースの奥さんは言葉を切りました。一口お茶を啜りました。この先を言ってしまうのはどうしようかと思いました。


 それでも言ってしまいたいことが、喉元まで上がってきていました。でもそれを言うのは勇気のいることでした。


 やっぱりやめようかと思いましたが、不思議と言葉になって出てきてしまいました。

 トモリさんがそうであったように、スースの奥さんもミミルを前にすると、心の奥にしまっておいたことや、誰にも秘密にしておきたいことまでが、何故だか素直に出てきてしまうのです。


「あの人が一つだけ後悔していることがあって。それはね、あの子の軍靴を自分の手で作ってやらなかった、ということ」

「ご主人は、最後まで戦争に反対されていましたね」

 とトモリさんは思い出して言いました。

 それはトモリさんも同じでした。


「ええ、ビゼが戦争に志願して行くことだけは絶対に許せなくて。どうせすぐに根を上げて戻ってくるだろうと、高を括っていたんです。でも、あの子も強情だからね。一度言い出したことは、後には引かない子なんですよ。主人も、待てども待てどもビゼが帰って来ないものですから。後になって、どうして自分で軍靴を作ってやらなかったのだろうって。きっともうビゼはどこかで命を失っているのだと。あの人、自分が作ってやらなかったから、ビゼは戻って来ないのだって、自分を責めていましたわ。自分がちゃんとしたものを作ってやっていたら、自分の作った軍靴なら、ちゃんと戻って来れたんだと……」

 スースの奥さんは、熱いものが込み上げてきて、言葉に詰まってしまいました。しばらく服の裾で目頭を押さえていました。


「奥さん、ごめんなさい。辛いことを思い出させてしまいました」

 トモリさんは片手で奥さんの肩を抱いて慰めてやりました。


「いえ、いいんですよ」とスースの奥さんは、トモリさんの手をどけさせて言いました。「あの子はね、いつもこう言っていたんです。僕は広い世界を見てみたいって。古くからの王政の残るこの国じゃなくて、新しい社会を夢見ているんだって」


「ご主人は筋金入りの王党派でしたね」

「私はね、どっちでもいいんですよ。王党派だろうが、革命派だろうが。庶民が平和に暮らせさえすれば」


「結果として、若者たちが支持した革命派が勝利しました。そのことで、僕も多少は傷付きました。王政が崩壊したことよりも、王様が僕たちを裏切ったことに対して」

「幸せでしたよ、あの人は。王様が立派だと信じたまま、死んでいったんですから」

 と言ったスースの奥さんの言葉が、皮肉だったのかどうなのか、トモリさんは、うまく判断できませんでした。


 トモリさんは昔っからの王党派でした。戦争は最初、王党派と革命派との間の内戦でした。でも、終盤になって、王様は革命派を一掃するために外国と手を結びました。それは一時期、成功したかに見えました。


 ですが、王様がこの国を捨てて、外国に統治を任せるつもりだということが明らかになった後、形成は逆転しました。王様に裏切られたと感じた民衆が革命派の支持に転じ、革命派が一気に盛り返したのです。


 最後は外国勢力と革命派との泥沼の戦いになりました。そのときこの街も多くの場所で戦場になり、多くの血が流されたのでした。


「もし革命派に参加した若者たちがいなければ、今頃、この国は外国の兵隊に支配されていました。ご主人はきっと、息子さんのことを誇りに思っていらっしゃいますよ」

 さっきの奥さんの言葉を受けられなくて、トモリさんはそう言いました。でもそれはスースの奥さんに届いているようには見えませんでした。


「やっぱり私立じゃなくて、普通に王立の学校に行かせるべきだったんですわ。そこで新思想を吹き込まれんですの」と、奥さんは首を左右に振って言いました。「あの子はね、自分は街の小さな靴屋で終わるのは嫌だ、なんて言って。昔から。もっと広い世界を見てみたいって。そういう子でしたの。なんでああいう子が私たち夫婦に生まれたんでしょう?主人も私も、店を継いでもらいたかったんですよ」


 スースの奥さんは、しばらく壁に掛けられた、この店の代々の主人の肖像画を見てから、ポツリとこう言いました。

「古いのかね、私は」

「僕だってそうですよ」

 とトモリさんは言いました。


「お嬢ちゃん、ミミルちゃんって言ったかね」とスースの奥さんは、話題を切り替えるようにミミルに言いました。「あの子にお嬢ちゃんの言葉を聞かせてやりたかったわよ。靴屋だって世界中に通じているのよって」


 ミミルは何て言ったらいいのか分からなくて、無表情に奥さんの目を見つめていました。スースの奥さんはトモリさんの方を向いて話を続けました。


「王党派だろうと革命派だろうと、そんなこと、どっちでもいいのにね。ただ今までの生活が続くだけじゃ、駄目なんでしょうかね?」

「王政から共和制に変わったんです。大きな歴史の潮目が変わるときだったのでしょう」

「庶民のことはそっちのけだわ」スースの奥さんは、首を左右に大きく振りました。「私たちには、どうにもできないのね」


 ミミルは二人の会話をしばらく黙って見ていました。正直、あまり話は分かりませんでしたが、トモリさんもスースの奥さんも、戦争はもうこりごりだと思っているのだと思いました。トモリさんは、そんなミミルの様子に気付いて言いました。


「ごめんよ、ミミル。君の前でこんな話をして。戦争になるとみんなこうなるんだ。みんなおかしくなっちゃうんだな。みんな戦争のせいなんだ。僕たちには、どうしようもないんだよ」


 でも、大人たちは忘れていたのです。ミミルだって戦争を生き抜いてきたということを。ただ一つの希望を胸に、生き抜いてきたのだということを。


「一つだけ出来ることがあるわ」

 と、急にミミルはそんなことを言いました。

 その言い方が力強かったので、トモリさんもスースの奥さんも、面食らってしまいました。


「おまじないよ。おまじないだったら、出来るわ」

 それはいつもミミルがママに言われていたことでした。ミミルのママが持っていたような、一族の女が代々受け継いできた、不思議な力はミミルにはありませんでした。


 でもママは、ミミルにおまじないを教えたのです。これだったらあなたにも出来るわ、と言って。

 そのときママは、もう一つ大事なことを付け加えることを忘れませんでした。これは誰でも使えて、そしてどんな魔法よりも強い力なのだと。


「そうだね」

 とトモリさんは言いました。

 ポンポンとミミルの頭を撫でて続けました。

「せっかく君に教えてもらったのに、僕ったら、すぐに忘れちゃうんだ。ねえ、奥さん。希望だけは持っていきましょうよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 と、スースの奥さんに微笑みかけました。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ?」

 と奥さんは訊きました。

「ええ、だいじょうぶ。おまじないですよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 とトモリさんは茶目っ気たっぷりに言いました。


 スースの奥さんは、少し気が緩んでクスクスと笑いました。

「そうね、いいわ。おばさんもおまじない使っちゃう。だいじょうぶ、だいじょうぶ。それに、おいしい、おいしい、でしたっけね。これから私にも、おまじないを教えてちょうだいね」

「一歩一歩だわ。おばさんは靴屋さんだもの」

 とミミルは言いました。


 このときスースの奥さんに、ある考えが浮かんで、はっとしました。

「そうですよ、奥さん。一歩一歩です。お互い一歩一歩やっていきましょう」とトモリさんは言いました。


「一歩一歩……。一歩一歩、そうね。一歩一歩だわ。私は靴屋ですものね。靴屋のスースおばさんでしたわ。一歩一歩、よね」

「靴屋のスースおばさん、か。いいですね、その響き。そう言えば、ミミルに言われたんです。自分の役が分からなければ、舞台には上がれないって。僕たちには自分を名乗るものが必要なんです。僕はレインボウ・ベーカリーのトモリです。だから、この街でパン屋を続けるんです」

「私、おまじない屋のミミルだわ」

「そして私は靴屋のスースおばさん、か」


 続けてスースの奥さんは、そのときふと思ったことを口にしました。

「この街は、一体何なのでしょうね」

 トモリさんもミミルも、すぐに答えることは出来ませんでした。


「うーん、以前は王様の通りなんて言われてましたけどねえ。王様もいなくなってしまったし。それじゃ我らのトイデル大通りかな?」

「穴ぼこだらけのトイデル大通りだわ」

 でもトモリさんもミミルも、それはあまり良くないな、と思いました。


「名乗るものがないということは、まだこの街は舞台に上がっていないということね。ま、いいでしょう。いつかいい名前が付くわ。それまで一歩一歩ですわ」

 と言って、スースの奥さんは、また天井を見上げました。天井はさっきよりも、明るくなったように思いました。


「出来ることは少ないけれど、またやってみようかしらね、一歩一歩」

「そうですよ、奥さん。やりましょう」

 トモリさんは、仲間が帰って来たみたいな気がしていました。


「少なくともここにいれば、おいしいパンには困らないわね」

「あはは、そう言われるとプレッシャーだな」

 トモリさんは照れくさそうに頭を掻きました。

 するとミミルが、「任せてちょうだい、だわ」と、言いました。

「任せてちょうだい?」とトモリさんは訊き返しました。


「こういうときは、任せてちょうだいって言うのよ」

「それもおまじないかな?」

「うーんと、そうね。きっと、おまじないみたいなものよ。おまじないでいいと思うわ」

「そうか。じゃあ、任せてちょうだい、だ。奥さん、おいしいパンなら、任せてちょうだい」

「ええ、楽しみにしていますよ。私も靴のことなら、任せてちょうだい。でも、お客さんが来ますかね」


 トモリさんは、実際そんなに簡単ではないなと思っていました。街はまだボロボロだと言っていいありさまでしたし、まだ街の人口も十分に戻っていませんでしたから。


「そうだ。こういうのはどうかな。ねえ、ミミル。君の靴をスースの奥さんに作ってもらうのは」

「本当?」


 今、履いている靴は、もう元の色がわからないくらいボロボロになっていましたし、エリーゼちゃんのお下がりは少し古くなっていました。


「奥さん、どうでしょう?」

 とトモリさんは訊きました。

 スースの奥さんの答えは、一つしかありませんでした。

「ええ、いいでしょう。私だって舞台に上がりましたからね」

「うわあ、嬉しいわ。スースの奥さん、ありがとう」

 ミミルは喜びました。

「でも、一歩一歩ですよ。私一人しか働き手がいませんし、まだ材料だってそんなに揃いませんからね」


 しばらくして、ミミルの元に、新しい靴が届きました。赤い色で、ミミルの気に入りました。大喜びで、いつもそれを履いていました。あんまり嬉しくって、ベッドの中まで履いていこうとしましたが、それはお行儀が悪いとトモリさんに止められました。


 レインボウ・ベーカリーのお隣には、未亡人の奥さんが細々とやっている靴屋さんが開きました。同じところに元あったお店と良く似ていますけど、看板が新しいものに変わっていました。新しいお店の名前は「一歩一歩」。

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