第8話 ミミルの心配事
ミミルがレインボウ・ベーカリーに転がり込んできてから、もう何度もお日様が昇り、何度も沈みました。
この間、いつも毎朝焼き立てのパンの香りで、幸せに目を覚ましました。トモリさんの作るおいしいパンをお腹いっぱい食べられて、温かいミルクが飲めました。
ママが戦争で亡くなって、家を焼け出されて、ボロボロの格好でトイデル大通りをふらふら彷徨っていたあのときとは、信じられないくらいに大違いでした。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。
口の中でおまじないの言葉を呟きながら、縋るように女神様にお願いをしたのでした。
そこで偶然レインボウ・ベーカリーを見つけ、トモリさんに出会わなければ、あのまま夜の寒さに命を奪われていただろう、本当にそう思います。
偶然にもトモリさんは親切な人で、そして、トモリさんも心に傷を抱えていました。
そのことについて、トモリさんは二人が出会った晩以降は話すことはありませんでした。でも、亡くなったエリーゼの影をミミルに見ているだろうことは、ミミルにも分かっていました。
ある夜のこと。トモリさんにおやすみを言って、ミミルはいつものようにパタパタと二階に上がって行きました。
ミミルの部屋は、二階の、元はエリーゼの部屋でした。明かりを消してベッドに入ったミミルは、妙に落ち着かなくて目が冴えてしまいました。
カーテンを開けると月明かりが入ってきました。満月でした。明かりを付けなくても、部屋の中が良く見えました。
(さっきから落ち着かないのは、こういうわけだったんだわ)
それは満月のせいではなくて、ミミルがこの部屋に住むようになって以来、ずっとあったものでした。
ただ、しばらく新しい環境に馴染んでいなかったせいで、目には入っていても見えていなかったものでした。今、徐々にこの部屋に馴染むようになって、改めて見えるようになったのです。
部屋の中を見渡すと、そこにはエリーゼの影がそこかしこにありました。
ミミルはボロの着の身着のままでここに転がり込みましたから、ミミルの持ち物なんてほとんどありません。唯一と言えるものは、ママから貰った小さなおまじないノートぐらいです。
今ミミルが着ているパジャマも、さっきまで履いていたスリッパも、元はと言えば、みんなエリーゼのものでした。
毎日エリーゼのお下がりを着せてもらっているから、もう最初に着ていたボロは着なくなりました。紐が切れそうだったポーチも、エリーゼが使っていた、しっかりしたものに変わりました。
エリーゼのママ、トモリさんの奥さんだった人が選んだものでしょうか?それはお花の刺繍の入った見事なものでした。
ミミルのママが選ぶようなものとは大分違っていました。ミミルのママが選んだものは、赤やピンクや無地のものが多かったですが、ここにあるものは、ブルーや紫や小花の柄が多いのでした。
急に、どうしようもなく切なくなって、ミミルは口の中でおまじないの言葉を呟きました。
「だいじょうぶ、だいじょ…」
でも、途中で止まって、最後まで言うことが出来ませんでした。
ミミルは凄く落ち着かなくて、なんだか思い切り暴れたいような、そんな気になりました。思い切り暴れてしまって、この部屋にあるもの全てを無茶苦茶にしてしまいたくなったのです。
(いけない、いけない)
でも、ミミルは心にトモリさんの顔を浮かべて思いとどまりました。そんなことをしたら、トモリさんは悲しむでしょう。せっかく、トモリさんにお世話になっているのに、その好意を台無しにしてしまいます。
(いっそのこと、家出しちゃおうかしら)
なんていうことまで考えました。
(だって今日は満月だもの。外に出て歩いたって、道の穴ぼこに足を取られることはないし。そうだ、思い切り歩こう。歩けるまで歩こう。歩いて歩いて、うんと遠くまで行って、それから、それからどうするの?きっと、もう一歩も歩けなくなって、死んじゃうんだわ)
そんなふうに考えたりもしましたが、やっぱりやめにしておきました。それだけはやってはいけないことのように思ったのです。
どうしてミミルの心がこんなに泡立っているのかと言うと、原因ははっきりしていました。それはこの部屋でした。この部屋には、エリーゼのものが溢れていたからでした。もうそこにはいなくても、エリーゼの匂いが色濃くしていたからなのでした。
ミミルは、わがままを言うような子どもではありません。ママと二人で暮らしているときから、ずっと貧乏でしたし、贅沢を言うことはありませんでした。そんなに物を欲しがることもありませんでしたし、大人に迷惑をかけることもなかったのです。
優しいママがいてくれて、大好きなパンと温かいミルクがあれば、それ以上を欲しがる子どもではありませんでした。
ひょんなことからママと暮らしていた小さなまじないのお店から、トモリさんの二階に移り住みました。どちらが立派な家かと言えば、それはトモリさんの家の方でした。
でも、それだってこの街によくあるような普通の家でした。決して豪華や贅沢ではありません。ミミルはこれまでここで暮らしてみて、トモリさんの家はごく普通の家庭だったのだと思われました。
でもこの部屋には、ささやかだけれど確かなものがありました。トモリさんとその奥さんだった人が、エリーゼを愛していたという形が残っていました。
ミミルが初めてこの部屋に入ったときから、それはきちんとしてそこにありました。もし仮にエリーゼがどこか遠くに行っていて、何年か振りに久しぶりに家に帰って来たとしても、家を出る前の日の続きを何の違和感もなく続けられるように、ちゃんとしてありました。
まだエリーゼのことを深く愛しているトモリさんは、娘のものを捨てられずに、きちんと管理をしていたのだろうと思います。掃除も行き届いていて、ホコリなんかも積もってはいませんでした。
いえ、ミミルのママだって、精一杯ミミルを愛してくれたのです。それはミミルもちゃんと分かっていました。ただ、それを形の残るものに変えるほど裕福ではありませんでした。わずかにあったものも、家と一緒に全部焼けてしまいました。
(わがまま言っちゃいけないもん)
ミミルは毛布を引き寄せて、ベッドにうずくまりました。心が外の空気のように寒くなったように感じました。
(私にはおまじないがあるもの。この世で一番強い力があるんだもの。だいじょうぶ、だいじょうぶ、だい……)
急に目頭が熱くなって、涙が滲んで来ました。しばらく毛布に顔を突っ伏して、肩を震わせました。
明日はトモリさんに思いっ切り甘えてみようかと思いました。優しいトモリさんは、受け入れてくれるだろうと考えました。でも、そんな考えはすぐに振り払いました。
やがて顔を上げると、ミミルの目に飛び込んで来たものがありました。さっきは月の加減で見えなかったのでしょうか。今は月明かりが、はっきりと壁に掛かったそれを映し出していました。
それはフィーナから貰った、女神像の絵でした。フィーナがミミルのために描いた絵でした。世界中でミミルのためだけの、ミミルのものでした。
それからミミルは靴に視線を移しました。スースの奥さんから貰った、ミミルの赤い靴でした。
ミミルはベッドから出ると、赤い靴を絵の下に持ってきて、しばらくそれを眺めていました。
(変わってるんだ)
と、ミミルは思いました。
どちらもミミルが最初にこの部屋に入ってきたときには、なかったものでした。それが今はありました。
やがて月の角度が変わり、絵と靴の上に青いベールがかかりました。
(変わってるんだ)
と、またミミルは思いました。カーテンを閉めて、部屋を暗くしました。
ほっと息を吐いたそのとき、ミミルは新しいおまじないを思い付きました。
「なんとかなる」
小さな声で呟きました。
ママにおまじないを教えてもらったとき、どんな小さな声でもいいから、声に出して唱えた方がいいと言われたのを思い出したのです。
ミミルはしばらく自分にしか聞こえない声で、新しいおまじないを呟いていました。
「うん、なんとかなるわ。なんとかなる」
やがてミミルは安心して、またベッドに横になると、すぐに深いまどろみの中に落ちて行きました。
いつまでも戦争をやっていたときのままではありませんでした。この部屋の中も、この街も人も、徐々に変わっていっていました。そしてそれは人が考えるよりも、ずっと早いスピードでした。
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