第19話 それぞれの変化

(賑やかになったものだなあ)

 と、トモリさんは思いました。


 午前中の店の営業がひと息ついて、お茶を飲んでホッとしていると、戦争が終わった直後のことが思い出されました。


(あのとき僕は、店を閉めようと思っていたんだ)

 しみじみと店の中を見回しました。


 ふと店の一角に目が止まります。そこは歴代の店主が、歴代の王様からもらった賞状やらトロフィーやらを飾ってある棚でした。この店の歴史そのものでした。


 トモリさんは何だか切ないような、昔を懐かしむような気分になりました。

 もうすでに壊れてしまったものが、まだそこに残っているような、そんな複雑な気分でした。まるで過去に栄華を誇った古代文明の人たちが、肉体が滅びても魂だけそこに残っているような、そんな奇妙な感じでした。


(あの夜ミミルがやって来て、そこからすべてが始まったんだ)

 トモリさんはしばらくミミルが来てからのことを振り返りました。


 ミミルが来て、スースの奥さんが戻って来て、フィーナが来ました。ソンボがこの街に音楽を持ってきて、バゲット先生がミミルの先生として店にやって来るようになりました。そして行方不明だったビゼまで戻ってきました。おまけにユリヤという奥さんまで連れて。


 ただ壊れた傷跡だけがあったこの街が、急速に息を吹き返しているのを、トモリさんは感じました。それも、ミミルが来てから始まったことです。


(あの日、僕の中で何かが変わったんだ)とトモリさんは思いました。(何かが芽生えた。ミミルとともに、ミミルのおまじないとともに芽生えたんだ。それは希望だったんだなあ)


 トモリさんは改めて店の中を見回しました。

 まだ扱っているパンの種類はそう多くありません。伝統の食パンと新しいバゲット、それにちょっとしたビスケットやクッキーがあるばかりです。


(お祭りの日には、うんと豪勢なケーキを焼いてやるんだ)

 トモリさんはミミルの喜ぶ顔を目に浮かべました。



 ビゼとユリヤとは、ちょくちょく顔を合わせるようになりました。ユリヤは明るい人で、慣れない外国の生活にも積極的に馴染もうという態度が見受けられました。毎朝のパンを買いにくるのは、どうやら彼女の仕事になったようで、いつも笑顔でやって来てくれました。


 心配なのは、ビゼの方でした。ユリヤと対照的に、彼はいつも浮かない顔をして、影を背負っているようでした。


 ビゼは家業の靴屋を継ぐことにしたようで、今は毎日工房に入ってお母さんから靴作りを学んでいました。


 このことはスースの奥さんを大変喜ばせました。ビゼは子どもの頃は、自分は大きくなったらお父さんの後を継いで靴職人になるのだと、よく目を輝かせて言っていたものです。


 ですがやがて大きくなるにつれて、それは彼を満足させるものではなくなりました。


 聡明で野心的だったビゼは、王立の初等学校を終えると、私立の寄宿学校に入りました。スースの奥さんは反対しましたが、親父さんは息子の希望を認めることにしました。


 これはその当時のことを知るトモリさんにも驚きでした。

 スースの親父さんは頑固一徹な昔気質の職人で、当然ビゼにも靴屋を継いでもらいたいと思っていると、トモリさんはそう思い込んでいたのでした。


 ですが、スースの親父さんは敏感に世の中の変化を感じ取ってもいたのでしょう。また、ビゼの気質が自分とは違っていることも良く承知していました。靴屋とは違うことも学ばせた方がいいだろうということで、ビゼを寄宿学校に行かせたのです。


 ただし、親父さんは戦争にだけは猛反対していました。それでもビゼは親父さんの反対を押し切って、戦争に行くことを選びました。


 そのことで、親子の仲は決定的に壊れてしまったのです。「新しい世界がなんだ、共和主義がなんだ」と不機嫌な顔で親父さんがブツブツ言っているのを、トモリさんも見たことがありました。


 スースの親父さんが望んでいたことは、ささやかで普通の生活でした。そこには王党派も共和派もありませんでした。


 一方でビゼが思い描いていた未来は、自由で新しい社会でした。平等な生得の権利でした。


 元々、知性が鋭敏であった彼には、矛盾に蓋をしたまま生きていくことに甘んじることはできませんでした。曖昧さを見ないようにして生きていくことに納得することが出来ませんでした。


 そういった彼の性質は、彼をして当時若者たちの間に流行っていた思想に容易にかぶれさせることになりました。

 王政を打倒して、民衆の手による政治を打ち立てるという理想に燃えました。


 そして周囲の若者たちに呼応するようにして、彼の身を革命へと押し流していったのです。


 やがて革命は周囲の国を巻き込み、戦争へと発展しました。幾年にも渡る泥沼の戦いの結果、多くの悲劇を生み、ようやく戦争は終結しました。その結果、多くの人が傷つき、大切なものを失い、ミミルのような孤児も生んだのでした。


 大義である、とは、当時積極的に戦争に参加した若者たちが良く好んで使った言葉です。


 渦中にいるものは、正義を掲げ、理念を掲げて行動します。理想を掲げ、幸福な未来を信じ、自らを歴史の代弁者と見なします。


 でも、はたして大義とはどこにあったのでしょう。歴史、世界精神、それとも神。避けられない社会の大きな流れというもの。はたしてそれは必然なのかそれとも、人為的に作られた幻想にすぎないのか。


 誰も神の代弁者にはなれないのです。

 あるいは大切な人を思って、お祭りの日にケーキを焼くことを想像する。それが大義でなくてなんなのでしょう?



「やあ、いらっしゃい」

 と、トモリさんは少し元気がなさそうに言いました。ここのところ毎朝です。


 でもそれをお客さんに気取られるようなことはしません。傍目には、いつもの明るいトモリさんです。気づいているのは、ミミルぐらいでしょう。


「おはようございます、トモリさん」

「おはようございます」

 声が二つ。女の人と、男の人です。


 朝一番のお客さんと言えば、絵描きのフィーナとバゲット先生。店の中で出くわすことの多かった二人ですが、最近では、いつも連れ立ってやってきます。


「おはようございます、フィーナさんにバゲット先生。気持ちのいいお天気ですね」

 とトモリさんは言いました。でもその心の内は、今朝の青空のようにカラッと晴れているというわけにはいかず、どんよりと曇り空なのですが。


(いつの間にこうなってしまったのだろう)

 とトモリさんは複雑な感情を覚えました。


 つい、いつもより饒舌になってしまいます。何か話していないと間が持たない気がして、話さなくてもいいことまで口に出してしまいます。


「フィーナさんがデザインしてくれた女神像、制作の方も順調に進んでいるようですね」

「ええ、お陰様で。皆さんよく働いてくださいますわ」


「完成が楽しみだなあ。フィーナさんの名前も、ずっとこの街の歴史に残りますよ」

「まあ、そんなに大袈裟にしないでくださいな」

 とフィーナは苦笑いを浮かべました。


 トモリさんはちょっとやり過ぎたかなと反省しました。

「バゲット先生、ミミルの勉強は順調に進んでいますか?」

 と今度はバゲット先生に話を向けました。


「ええ、それはもう」

「やっぱり勉強は先生選びが大事ですね。学校に通わせるより良かったなあ」

「まあ、任せていただければ」

 とバゲット先生は苦笑いをしました。ちょっとトモリさんの勢いに気圧されている感じです。


「今日は何を勉強するんだったかな、ミミル」

 と、側でフィーナのパンを包んであげていたミミルに話しかけました。


「いやあね、トモリさん、お忘れになっちゃ。今日はお休みの日じゃないの」

 とミミルは答えました。


「あ、そうだっけ?あはは、この頃曜日の感覚がなくなっちゃって」

 とトモリさんは恥ずかしそうに頭を掻きました。


「お祭りのことでずっと先頭に立ってらっしゃるから、トモリさん」とフィーナは優しく微笑んで、ミミルから今朝のパンを受け取りました。「あまり無理をなさらないでくださいな」


「私もお手伝いできることがあったら力になりますぞ」

 とバゲット先生も言いました。同じようにミミルから今朝のパンを受け取ります。


「あはは、動いている方が性に合っているんですよ」とトモリさんはできるだけ明るく見えるように振る舞いました。「それじゃ、お二人さん。良い一日を」


「ありがとう、また来ますわ」

「ありがとうございます」

 と言って、二人は帰って行きました。


「ふう」

 ドアが閉まった後、トモリさんは、大きなため息をつきました。思わず、そこにあった椅子に腰を落としました。


「トモリさん」

 とミミルが側に寄り添いました。

「ん、ああ、ミミル、大丈夫だよ。疲れてないよ、本当だよ。ちょっと今日は天気が良すぎるんだ。だいじょうぶ、だいじょうぶ」


「トモリさん」

 とミミルは何か言おうとしましたが、そこで次のお客さんが入ってきてしまいました。

「やあ、いらっしゃい」

 とトモリさんは椅子から立ち上がると、いつもと変わらない調子で出迎えました。

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