第20話 おまじないしないおまじない
その日の午後、店を閉めた後でミミルはトモリさんを散歩に誘い出しました。
そういえばここのところ二人で散歩をする機会がなかったような気がします。
バゲット先生の家庭授業が始まってから、二人でゆったりと過ごす時間がなくなっていました。
トモリさんもお祭りの準備で何かと忙しく、午後に家を開けることが多くありました。
二人は以前よくしていたように、通りの真ん中にある公園を抜けて、女神像のあるところを通って、港まで歩いて行きました。
以前と違っていたのは、もう通りは穴ぼこだらけではないということ、女神像は新しいものが製作中だということ、そして海に面した家々の壁も、カラフルな彩りが戻ってきたということでした。
同じなのは、空を飛び交うカモメだけでした。それは戦争の前から変わりません。
二人は初めてフィーナと出会った場所の辺りまで来ました。ミミルは持ってきたパン屑をカモメに撒いてやりました。カモメたちはすぐに降りてきて、先を争うようにパン屑を啄みました。この時間、港にはミミルとトモリさんの二人の他には誰もいませんでした。
トモリさんは、大きく息を吸い込んで、吐き出しました。
「懐かしいなあ」と言いました。「なんだかすごく懐かしいよ。あれからほんのちょっとしか経っていないはずなのにね」
二人の間に、そんなに多くの説明はいりませんでした。二人は港にあるベンチに腰掛けました。
「ふう」
とトモリさんは大きなため息をつきました。
「今日のトモリさん、変だったわ」
とミミルは言いました。
「そうだね」
とトモリさんは言いました。ミミルの前だと、素直になります。
「フィーナさんのこと、お好きだったんでしょう」
「うん」
ミミルは小さな手でトモリさんの手を握りました。トモリさんは大きな手で、ミミルの手を握り返しました。
「君には隠せないなあ」
「そうよ」
「そうよ?」
「だってトモリさん言ってらしたじゃない。家族は何でも話し合うんだって」
「そうだね」とトモリさんは以前そう言ったときのことをしばらく思い出していました。「僕は変なことを考えていたのかもしれないね。ちょっと浮かれていたのかな。やっと戦争が終わって、すべてのものが活動的になっていく中で、僕もおかしな期待をしていたみたいだ」
「おかしくなんかないわよ」
「おかしいよ。思慮が浅かったんだ。よく考えてみれば分かることだったんだよ。フィーナさんとは歳も離れているし、だいたい僕には奥さんがいたんだ。エリーゼだって、生きていればもう立派なお嬢さんだ。こんなおじさんが期待することがおかしいんだよ」
と、トモリさんは胸のうちを一気に吐き出しました。
「そんなことないわよ」
「バゲット先生とはお似合いだよ。彼を恨んでいるとかはない。今まで通り君の家庭教師をやってもらうよ。だってあんないい先生はいないじゃないか。僕は二人が幸せになってくれればいいと思っているんだ。本当、お似合いだと思うよ、あの二人は。二人とも背が高いし知的だし、芸術的だ。僕みたいな、ただの街のパン屋とは違うんだ」
「そんなことない」
と、ミミルは握った手をキュッと強くしました。
「ありがとう、ミミル」とトモリさんは優しく握り返しました。「でも、僕のことは僕が一番良く知っているよ。僕は向いていないんだ、そういう恋愛みたいなことには」
トモリさんは、ちょっと不思議な感じがしました。だって、自分が失恋の痛みを話しているのは、実の娘よりも幼い少女だったからです。
もしエリーゼだったら、こんなことまで彼女に話しただろうか、と想像してみました。でもそれは想像するだけ無駄でした。そもそもエリーゼが生きていたら、こんなことを話すような機会は訪れなかったでしょうから。
(でも)と、トモリさんは思いました。(話してしまえばいいんだ。良く分からないけど、これでいいんだ、話してしまおう)
「向いていないんだよ、僕は。そういえば昔からそういうことは苦手だったんだ。僕の奥さんだって、パメラだって、どうして僕を好きになってくれたのか分からない。僕の方から彼女を気に入って誘ったとかじゃないんだ。もう当時のことは良く覚えていないけど、なぜだかあるとき、急に彼女が僕の人生に入ってきた。そうだよ、まるで君が僕の人生に入ってきてくれたみたいにね。気づいたときには、僕らはもう深く愛し合っていたんだ。本当だよ、不思議だね」
トモリさんはミミルの肩に手を回すと、優しく抱き寄せました。ミミルは力を抜いて、体を預けました。トモリさんは、ミミルが大好きな、焼き立てパンの香りがしました。
「だけど僕はパメラとの関係をうまく維持することが出来なかった。エリーゼが生まれて、それだけでうまく行くものだと思っていた。彼女は元々上流階級の出身で、街のパン屋の奥さんなんて似合わなかったんだ。これは前に言ったかな」
「幸せじゃなかったの?」
とミミルは訊きました。
「そんなことない」とトモリさんは言いました。「愛していたよ、僕は。パメラもエリーゼも。同じように愛していた。本当だよ」
「分かるわ。トモリさん、優しいもの」
「彼女も僕を愛してくれていると思っていたけど。でも、何かが違っていたみたい、僕が思っていたのとは。きっと彼女が思っていたのとは。僕たちの関係は、出会ったときと同じように、気づいたら壊れてしまっていた。もう取り返しのつかないくらいに」
カモメが数羽、ベンチに上がってきました。彼らはもう、さっきのパン屑のことは忘れてしまっているようでした。
ミミルとトモリさんがこうして寄り添っていることになど、何の関心も持っていないようでした。戦争も何も、彼らには関係なさそうでした。
トモリさんはカモメの丸い瞳を見て、彼らはまるで夢の中を生きているみたいだな、思いました。
「カモメみたいに生きられたらなあ」とトモリさんは、空を飛び交うカモメを見上げて言いました。「人間の世界なんて、全部夢みたいに思えるのかもしれない。うん、今振り返ってみると、あれは夢だったんじゃないかと思うよ。どうしてあんなきれいな人が僕の奥さんになんてなってくれたんだろう。夢としか思えないな。なぜだか突然、夢が始まって、終わっていったんだ」
しばらく二人は何も言わずに寄り添っていました。たとえそれが夢であっても、今隣に寄り添える人がいることをありがたく思いました。だいぶ経ってから、ミミルがこう言いました。
「後悔してるのかしら?」
「いや」とトモリさんは言いました。「素敵な夢だったと思う。もう過ぎたことだよ、これでいいんだ」
「いいの?」
「うん、良くは分からないけど、これでいいんだ。僕にはすべてを割り切ることはできないよ。でも、あれからだいぶ時間が経った。これでいいんだ」
「いいの?」
「うん、君のおかげ。君のおまじないのおかげだ。もう大丈夫、元気が出たよ、ありがとう」
「私、今日はおまじないしてないわ」
「寄り添ってくれた、側にいてくれた、話を聞いてくれた。何より、僕の人生を一緒に過ごしてくれた。それが一等のおまじないだよ」
トモリさんはミミルの頭を撫でると、素敵な笑みを見せました。
「さあ、帰ろう」
「おまじないしないおまじない」
「そう、おまじないしないおまじないだよ」
と、トモリさんは立ち上がりました。カモメたちが驚いてベンチから飛び立ちました。
「カモメになれないわね、私たちは」
と、ミミルもピョンと元気良くベンチから跳ね降りました。
「うん、これでいいんだよ」
と、トモリさんはすっきりした表情でした。
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