第21話 ビゼの苦悩

 この頃、ミミルはよくビゼの姿を見かけるようになりました。


 トモリさんと散歩に出かけるときを別にすれば、ミミルは基本的には家にいます。でも一日中部屋の中にいると鬱屈するので、外に出ます。


 でも一人で遠くへは行けません。だいたいは、レインボウ・ベーカリーの近くをぶらぶらしています。


 ビゼはビゼで、一日のうち多くの時間を靴屋の工房で過ごします。あまり遠くまで出歩かないみたいです。


 もしかしたら義足で歩くのを人に見られるのが嫌なのかもしれません。昔の友人に会うようなこともせず、いつも浮かない顔をしていました。


 そういうことで、自然と二人が顔を合わせる機会は多くなっていきました。


 ビゼにはミミルが孤児になったことについての申し訳なさがあったので、レインボウ・ベーカリーの前で所在なさげにしている少女を放っておくこともできませんでした。


 スースの奥さんと同じで、おまじないを信じるタチではありませんでしたが、出来るだけ親切にしてやろうと思っていました。


 ユリヤさんにも、見かけたら気にかけてやるようにお願いしていました。彼女は気さくで親切な人なので、快く引き受けてくれました。


 そんなこんなで、最初はユリヤさんを交えて軽く挨拶をするぐらいでしたが、そのうちに二人だけのときにも会話を交わすようになっていきました。


 ビゼは不思議だなと思いました。いくらお隣さんだからと言っても、ミミルは歳の離れた少女に過ぎません。ビゼのような青年が親しく交流するような相手ではないのです。


 そもそもミミルよりは歳の近いエリーゼとだって、そんなに言葉を交わしたことはありませんでした。ただ、お隣さんの娘さんというだけでした。


 それなのにミミルとは、なぜだかそこまで話すつもりはなかったのに、ということまで口をついて出て来てしまいます。いったいどうしてだろう、とビゼは思いましたが、いくら考えてもよくわかりませんでした。


 ただミミルと初めて会ったときに感じた、あの不思議な感覚を思い出していました。それはミミルが持っている不思議な力でした。ミミルのママや、一族の女の人たちでも持っていなかった、不思議な力でした。


「いい天気だね」

 と、ある日のこと、ビゼは工房の仕事が終わったあとで、レインボウ・ベーカリーの前でなにやらゴソゴソやっていたミミルに声をかけました。


「いい天気」

 とミミルは呟くように言いました。今やっていたことを見られたのが少し恥ずかしいようでした。


「暇を持て余しているんだろう」

 とビゼは言いました。

「そんなことないわよ」

 とミミルは答えました。


「それじゃあ、おまじない屋に誰かお客が来てるのかい?」

 ビゼは、誰もいないじゃないか、といったふうにあたりを見回しました。


「ビゼさんがお客さんなのだわ」

「僕がかい?」


「悪いけど、僕は君の友達にはなっても、おまじない屋のお客にはならないよ。おまじないなんて信じていないからな」


「信じてなくてもいいのよ。おまじないは信じてなくたって、ちゃんと力があるんだから」

「へえ、そうかい?」


 ミミルの手には、細い木の棒が握られていました。ビゼはそれを見て言いました。

「なるほど、魔法の杖を使うからか」


「違うわ」とミミルは首を左右に振りました。「これはお祭りの準備なの。私も音楽を演奏するのだわ」


 ミミルが手に持っていたのは、太鼓のスティックでした。音楽屋のソンボが、木を削って作ってくれたものでした。


 今度のお祭りでは、ソンボが音楽を担当していました。街の子どもたちからお年寄りまで、楽器がなくても誰でも簡単に演奏できるようにと、ソンボが考えたのが、スティックで何か音の出るものを叩く、ということでした。


「いろんなものを叩いて、音を確かめていたのよ」とミミルは言いました。「壁とか看板とか、その辺の石ころとか、外にあるものをいろいろと。家の中でやるとトモリさんが嫌がるから」


「トモリさんはどうしてる?」

「今、中でアップルパイを焼いているわ。何か用事?」


「いや、用事ってわけじゃない。姿が見えなかったから聞いただけ」

「何も言わなかったけど、焼き上がったら招待するわよ、きっと」

「そりゃどうも」


 ミミルはスティックで壁をトントン叩き出しました。

「お祭り会場まで壁を持っていこうってのかい?」

 とビゼは冗談めかして言いました。


「試し打ちだわよ」

「本番はフライパンにしたらどう?いい音がするよ。鍋でもいい」

「そうね、でもきっとそういう人は多いわよ。私は他の人と違う音を出したいの」

「カチカチになったパンはどうだい?」

「面白いわね」

 とミミルはクスクス笑いました。


 ビゼは、やっぱりミミルはヒマなんだなと思いました。地面を見ると、ミミルがスティックで描いたとおぼしき落書きがいっぱいありました。


「ぼくも落書きの練習をしよう」

 と、ビゼは松葉杖でミミルの落書きに何か線を加えようとしました。


「これは見ちゃダメ」とミミルははにかんで、足で落書きをくちゃくちゃにしました。「人ごとじゃないわよ。ビゼさんだってやるんだから」


「それなら僕はお祭りは留守番だ。音楽は落書きほど得意じゃない」

「音楽は誰でも演奏できるように、ソンボさんが考えてくれたのよ。ビゼさんも一緒にやるのだわ。踊りたい人は踊ってもいいんですって。ジュースにお菓子も出るのよ」


「僕はジュースだけ頂くとするよ」

「他にもあるわよ。短冊に願い事を書いて吊るすんですって。トモリさんが張り切ってらっしゃるわ」


「願い事、ねえ」とビゼは天を仰ぎ見ました。「昔はあったけど、今はどんな願い事もないよ」

「どうして?立派な靴屋さんになれますようにってのは?」

 とミミルは言いましたが、ビゼは力なく首を振りました。


「僕は靴屋になんかなりたくないよ」と言って、ビゼは壁に背をもたれて座り込みました。「物心ついてからずっとだ。靴屋になりたいなんて、思ったことは一度もない」


 ビゼは松葉杖を伸ばして、先っぽでミミルの落書きの隣に何かを描き始めました。

「やっぱり描きにくいな。ちょっとそれ貸してくれるかい?」

 ビゼはミミルからスティックを借りて、落書きを続けました。


「何を描いているの?」

 とミミルもビゼの隣にしゃがみ込みました。

 ビゼはミミルの問いには答えずに、粛々と描き続けました。


 ミミルはお尻が汚れるのが嫌だったので、しばらくしゃがんだ格好でいましたが、そのうちに足が疲れて座ってしまいました。そのままじっとビゼの絵が完成するまで、そばで見ていました。


 しばらくして、「できた」とビゼは言いました。

「足は?」と言いかけた言葉を、ミミルは飲み込んで、代わりにこう言いました。「小人かしら?」

 でもそこには、片足がありませんでした。


「レプラコーン。知らないかい?片足の靴屋の妖精」

 とビゼは答えました。

 ミミルは何だか何も言えなくて黙っていました。


「これでも絵描きになりたいと思っていたこともあったんだ」

 と、ビゼは昔を思い出すように言いました。

「上手だわ」

 とミミルは言いました。本当にそう思いました。

 でもビゼは首を横に振りました。


「これはプロの絵じゃない。素人からすれば上手に見えるけどね。でもあの、絵描きのフィーナさんのような人の絵と比べると、どうしたって見劣りがする。そこには決定的な違いがあるんだ」


 ビゼは知らず知らずのうちに饒舌になっていました。いつものように不思議に思いましたが、その不思議さに身を任せることにして話し続けました。


「勉強も良く出来たから、教師になることも考えた。でも高等学校に入ってみると、とても仲間たちについて行けなかったんだ。初等から私立に行っていた連中は、もっとずっと先に進んでいた。今にして思えば、もうその頃すでに王様の時代ではなくなっていたんだな。いずれにせよ、自分にはバゲット先生みたいに学問で身を立てるのは無理だと気づいたね」


「バゲット先生は学問で身を立てれてないわ。本屋さんなのよ」

「分かってる。でも彼は立派な教師だろう」

 ミミルはうんと頷きました。


「自分には靴屋しかないんだろうかと、そう思ったら、何の為に高等学校まで行ったのか分からなくなってしまったよ」


 そのときリンリンとベルが鳴って、レインボウ・ベーカリーの扉が開きました。甘くて香ばしい香りが外に漏れ出します。続いてトモリさんが顔を出しました。


「声が聞こえると思ったら、やっぱりビゼ君もいたか。今、今朝ユリヤさんにもらったリンゴを使ってアップルパイを焼いているんだ。出来上がったら呼ぶから、スースの奥さんとユリヤさんも呼んで一緒に食べにおいで」

「ありがとうございます」

 トモリさんが中に引っ込むと、ビゼは再び語り始めました。


「そんなときに戦争が起きた。学生たちは新しい世界を目指して、次々と戦いに参加していった。僕も人生をかけて戦った。絵描きにも教師にもなれないけど、僕はこの国を変えようと思った。結果、我々が勝ち、この国は変わった。でも肝心なときに、僕は戦場にはいなかった。国境線付近の戦いで負傷して、看病されていたんだ。おまけにそれは敵として戦った、外国の人たちにだよ」


「ユリヤさんはいい人だわ」

 とミミルは言いました。


 二人の様子を見に来たのでしょうか、まるでそのタイミングに合わせたみたいに、靴屋の店先からユリヤが出て来ました。


 ビゼが先ほどトモリさんに言われたようなことをユリヤに伝えると、了解して彼女は店に戻っていきました。その後ろ姿を、ビゼは苦しそうに見送りました。


「ああ、いい人だ。僕を看病してくれたのは、国境沿いの村の人たちだ。みんないい人たちだった。でもそれまで僕は彼らに銃を向けていたんだ。敵だったんだ。僕は敵に助けられたんだ」


「ユリヤさんのこと、好きじゃないの?」

「好きさ。何より大事さ。だからこそもどかしいよ」

 ビゼはレプラコーンの片足に義足を描くと、それを何度もなぞりました。


「何をやっても中途半端だよ。僕は両足のそろった靴屋になる可能性もあったんだ。少なくとも生まれたときにはそうだった。でも靴屋を嫌がって高等学校まで行って、親父の反対を押し切って戦争に行って、挙げ句の果てに敵に助けられて、最終的にレプラコーンだ。親の死に目にも会えなかった。いったい僕の人生は何だったんだろう?」

 ビゼは大変に苦しそうでした。


 しばらく二人は何も言わずに黙っていました。そうすることが適当だと思ったのではありません。けれど、世の中には時間にしか解決できないこともあって、時間が癒してくれることを、無意識に知っていたからかもしれません。


 リンリンと再びベルが鳴って、レインボウ・ベーカリーの扉が開きました。さっきよりもすごく濃くなった、甘い香りがやってきました。


「お待たせ、お二人さん。アップルパイが焼き上がったよ。熱々のうちに食べにおいで」と、アップルパイみたいな顔のトモリさんが、二人に声を掛けました。「二人とも、食べる前にちゃんと手を洗うんだよ」

 そう言って、また店の中に引っ込んで行きました。


 ミミルは立ち上がって、パンパンとお尻を払いました。

 ビゼもよっこらしょと、壁に手をついて立ち上がりました。


「これでいいのよ」

 不意にミミルがそう言いました。

「これでいい?」

 とビゼは訊き返しました。


「トモリさんが言っていたの。良く分からないけど、自分には割り切れないけど、これでいいんだって」

「これでいい、か」


「そう、これでいいのよ。続けて言ってみて」

「これでいい、これでいい、これでいい……。って、これじゃ、おまじないみたいじゃないか」

「だって言ったじゃない。ビゼさんがお客さんだって」

 いたずらっぽく笑って、ミミルはペロッと舌を出しました。


 何か言いたそうな顔のビゼに先んじるように、ミミルはこう言いました。

「私、ユリヤさんたちを呼んでくるのだわ」

 そうして、靴屋の方に駆けて行きました。


「これでいい、か」茫然としてミミルの背中を見送りながら、ビゼはまた呟きました。「これでいい、これでいい、これでいい、か」

 しばらく口の中で同じ言葉を繰り返しました。


 すぐにミミルはスースの奥さんとユリヤを伴って戻ってきました。

 奥さんたちは、食卓に飾る花と、ちょっとしたお菓子を持ってきていました。


 ユリヤはビゼと目が合うと、にっこりと微笑みました。ビゼも思わず微笑みを返しました。


「これでいいのよ」

 とビゼの足元からミミルの声がしました。


「これでいい、か」笑顔を見られたのが恥ずかしくて、ビゼは余計に苦笑いを浮かべました。「これでいい。うん、これでいいのだ」


「これでいいのだ」

 とミミルは新しいおまじないを気に入って、にんまり笑いました。

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