第22話 お祭りのケーキ
とうとうお祭りの日がやってきました。
その日もいつものように、ミミルは焼き立てパンの香りで目を覚ましました。
いつもと同じように香ばしくて、いつもと同じように大好きな香りでした。
ミミルがレインボウ・ベーカリーの二階に住むようになってから、一日も欠かさず朝ミミルを起こしてくれた、いつもと変わらない素敵な香りでした。
お日さまの光が窓から射し込み、小鳥の囀りが聞こえました。
その日はまったく、いつもと変わらない朝の始まりでした。
でも、目を覚ましたとき、ミミルはこう思ったのです。
(なんだか今日は違うわ)
どこかが、何かが、とは言えないのですが、なんとも言えずいつもと違う感覚がありました。
不思議に思いながらも、パジャマから服に着替えて、ミミルは下に降りていきました。いつものようにトモリさんが笑顔で出迎えてくれました。
「おはようミミル。今日は何の日か分かるかい?」
トモリさんは朝はたいていごきげんなのですが、今朝はいつにも増して上機嫌でした。
「さあ、何の日だったかしらね?」
と、ミミルはわざととぼけました。
「おやおや、忘れちゃったのかい?」とトモリさんは大げさに残念がりました。「今日は待ちに待ったお祭りの日じゃないか」
「知ってるわ」とミミルは言いました。「飾り付け手伝ったもの。お忘れかしら?」
店の中はいつもと違って、特別な飾り付けがしてありました。
「そうだった。これは一本取られた」
とトモリさんは、手のひらで額を叩くまねをしました。
食卓の上には、いつもの食パンのほかに、人形の形をしたクッキーも焼いてありました。
「ドールクッキーね!」
とミミルは興奮気味に言いました。ドールクッキーは、お祭りの日の定番のお菓子として親しまれています。
「ただのドールクッキーじゃない。特別なドールクッキーだよ」とトモリさんはニヤリと笑いました。「良く見てごらん」
「あれ、これは?」
「誰だか分かるかな?」
ドールクッキーで街の人たちを作ってありました。
「このきれいな女の人はフィーナさんね。このモジャモジャ頭の人はソンボさん。この細い人はバゲット先生かしら?」
「それは僕なんだけど」
「ご冗談!」とミミルはクスクス笑いました。「私のは?」
「ほら、これがミミルだよ」
と、トモリさんは一番小さなものを指し示しました。
「う〜」
とミミルは不満げな声を漏らしました。
「どうしたの?」
「私、こんなに小さくないわ」
ミミルは爪先立ちで背伸びをして見せました。
「口に入らないからね」とトモリさんは肩をすくめました。「これから大きくなるんだ。毎日ミルクを与えるといい」
でもミミルは、自分のドールクッキーをミルクにつけると、一口で食べてしまいました。
その日はなんだか街全体がそわそわしているように感じられました。
いつものように朝一番にフィーナとバゲット先生がやってきましたが、二人ともいつもより興奮している様子でした。
まるで二人の爪先が少し宙に浮いているように感じられて、ミミルはじっと二人の足元を見てしまいましたが、靴の裏はちゃんと床についていました。
フィーナはいつもよりお喋りで、早口でした。
バゲット先生でさえ冗談を言いました(おそらく冗談だったのだと思います。誰も笑いませんでしたので)。
スースの奥さんもユリヤと一緒にやって来て、何やらけたたましく喋って笑って帰っていきました。
しばらくすると、表の通りから賑やかな音が近付いてきました。なんだろうと思って窓の外を見ると、ピエロみたいな格好をしたソンボが、祭りのチラシを配って練り歩いていました。
今日はちゃんとした太鼓を叩いて、プオーとラッパも吹いています。
そのあとを付いて、近所の子どもたちが空き缶やら小さな手鍋やらを叩いて行進していきました。
その日はなんだか時間の感覚がおかしく感じられました。
さっき朝ごはんを食べたと思ったら、もうお昼になりました。閉店の時間です。
「さあ、ミミル。お昼にしよう。今日は特別にお祭りの日のケーキを食べるよ」
「お祭りの日のケーキ?」
とミミルは訊きました。
「うん、お祭りの日のケーキだよ」
とトモリさんは言うと、オーブンからケーキを取り出しにいきました。
「お祭りの日にケーキを食べるの?」
と、ミミルは何か腑に落ちない様子でした。
「どうしたの?いつも食べるじゃないか……」
とトモリさんは言いかけましたが、もしかしてミミルの家は裕福でなくて、お祭りの日にケーキを食べていなかったのかもしれないと思って、途中でやめました。
トモリさんがオーブンを開けると、なんとも言えない甘い香りが溢れてきました。
「ほら、王様のケーキだよ」とトモリさんはミミルの前にケーキを丸ごと置きました。「あ、王様はもういないから、これからは女神様のケーキだね」
いつもお祭りの日に食べるのは、王冠を型どった、輪っかになった大きなケーキです。上にナッツやフルーツがふんだんに乗った、豪華なものでした。
ミミルは目を見開いて、じっとケーキを凝視しました。
「見たことない?」
「分かんない」
「きっと食べたら思い出すよ」
と、トモリさんはミミルの分を切り分けてお皿に取りました。
「いただきます」とミミルは言って、一口食べました。「おいしい」
ミミルの顔がほころぶのを見ると、トモリさんはホッとしました。
「良かった」
ケーキは、しっとりとした生地の甘さの中に、大人っぽいほろ苦さがありました。
「この中に入っているの、何?」
「オレンジピールだよ。苦手だった?」
「ううん、そうじゃないの。この味、食べたことあると思う」
「そうだろう」とトモリさんは言いました。「食べるの久しぶりじゃないかな?今までお祭りも中止されていたから、街の人たちも、きっと今頃、この味を懐かしんでいると思うよ」
でもトモリさんの言葉は、ミミルに聞こえているようには見えませんでした。
「これって、いつもお祭りのとき食べるものなの?」
と、ミミルは何か気にかかるようでした。
「そうだよ。どうかしたの?」
「食べたことはあると思うわ。でも、お祭りの日に食べたような気がしないのよ」
「別に他の日に食べちゃダメってわけではないよ。家庭でも焼けるものだし、好きな人はお祭りの日以外にも食べることがあるかもしれない。君のママはどうだった?」
「どうだったろう?」
とミミルは昔を思い出そうとしました。
ミミルのママは、占いなどの神秘的な力には長けていましたが、料理などの家庭的なことは苦手な人でした。
こんな立派なケーキを焼いていたとは思えません。
「ママはこんなケーキは焼いたことないと思う」
「じゃあ、買ってきたんだね。だとすると、やっぱりお祭りの日に食べたんじゃないかな?少なくともこの店ではお祭りの日にしか置かないね。他の店はどうかわからないけど、あんまり誕生日とかには使わないケーキだし、似たようなものだと思うよ」
それを聞いて、(誕生日!)とミミルは心の中で思いました。(私は誕生日はどうしていたのかしら?)
以前トモリさんにも訊かれましたが、ミミルは自分の誕生日を覚えていません。歳もいくつだったか忘れてしまっていました。思い出そうとしてみても、どうしてもそれは思い出せないのです。
でもきっとママは覚えていたのでしょう。ミミルの誕生日には、何かお祝いをしてくれたはずです。
(どうして私は自分の誕生日を忘れちゃってるのかしら?戦争の前はまだ覚えていただろうか?)
今また、思い出そうとしてみましたが、ダメでした。
あの戦争のおかげで、なんだか頭の中にある記憶がぐちゃぐちゃになってしまったように思われました。
ミミルは何だか、頭に鈍い痛みを感じました。それ以上、ケーキを口に運ぶことが辛いように思われてきました。
「ねえ、どうしたんだい、さっきから?今日は様子がおかしいね。あんまりこのケーキは好きではない?」
「ううん、そんなことないわ。私はこのケーキが大好きよ」
慌ててそう言って、ミミルは残りのケーキを全部食べて、カップのお茶を飲み干しました。
「やっぱりオレンジピールは苦手だったんじゃない?」
「そんなことないわ。この味、知ってるもん。本当よ。ちゃんとこの味は覚えてる」
それは間違いありませんでした。だってミミルが知っているケーキと言えば、このケーキしかなかったのですから。
「それならいいけど」とトモリさんはミミルのカップにお茶を注いでやりました。「もう少ししたらお祭りに行こう」
「うん」
ミミルはまたお茶を飲んで、口の中にあったケーキの甘さを洗い流しました。
さっきあった鈍い頭痛も、どこかに行ってしまったように感じられました。
でも舌の上には、いつまでもオレンジピールのほろ苦さが残っていました。
そのほろ苦さが、何かを思い出させてくれるような気がしましたが、記憶にはしっかり蓋が閉まっていました。
それはまるで、何かが記憶の蓋を開けるのを邪魔しているようでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます