第14話 再会のおまじない

 それから程なくしてのこと。ミミルの先生は、意外なところから見つかりました。

「おはようございますですわ」


 いつものように、フィーナは朝一番にレインボウ・ベーカリーの扉を開きました。最近はもっぱら、トモリさんの開発した細長いパンに夢中でした。


 いつものやつをくださいな、と言おうとしたフィーナは、それに名前が付いているのに気付きました。


「あら、バゲット、ですの?」

「ええ、そうなんです」とトモリさんは言いました。「ある人が名前を付けてくださって。棒とか杖とかいう意味らしいです」


「へえ、どこの言葉かしら?」

「なんでも、外国の言葉みたいですよ。ほら、パンセさんの本屋さん。あそこの息子さんがしばらく外国に留学してらして。最近帰って来たみたいなんです」


 そのとき、フィーナの後ろでカランカランカランとベルが鳴って、扉が開いて誰かが入ってきました。


 その人は、まるでバゲットのように、背が高くて細身の人でした。

「おはようございます」

 とトモリさんが言うと、その人は恥ずかしそうにしましたが、丁寧に挨拶を返しました。

「おはようございます」


 シャイで神経質な感じのする男の人でした。細い銀縁の眼鏡をかけて、少し禿げかけた黒い髪の毛を、無造作になでつけていました。


「あの、バゲットを一本」

 と、手短に言いました。あまり社交的な人ではなさそうでした。


「ええ、毎度あり」とトモリさんは笑顔で言って、バゲットを一本紙に包みました。「お気に召していただけましたか?」


「はい」と男の人は言いました。「余計な味がしないのがいいのです。それに持ち運びも便利で、一本あれば一日の飢えを満たすことができます。これはシンプルで機能的であることを示しています。こういったものには、美が備わっています。機能的かつ美的です。美的であるのに実用的です。往々にして美的なものというのは、人間の生存的な行為には無関係ですが、これは違います。これは発明と言ってもいいものです」


「そ、そうですか、そりゃどうも」

 と、トモリさんは少し気圧されたようでした。


 いったん喋り始めると、男の人は最初の印象とは打って変わって、饒舌になりました。何やら難しいことを言っています。


 横で見ていたフィーナは、ところどころ良く分からない部分がありましたが、この人がこのパンのことを気に入っているのだということは想像がつきました。


「私もスケッチに持って行くのにちょうどいいと思いますのよ」と、出し抜けにフィーナは言いました。「今日は行きませんけど」


 すると男の人は、大袈裟にビクッとしました。やっと彼女がそこにいることに気付いたといったように、目を丸くしてフィーナを見つめました。それはまるで、何かを発見したかのようでした。


「あ、あ…」

 と、男の人は口を半開きにして、声にならない声を出しました。

「あら、ごめんなさい。驚かすつもりはなかったのですけど」

 フィーナはにっこりと優しく微笑みかけました。


「い、いえ」

 男の人の顔に、サーッと赤みが差しました。


「噂をすれば何とやらですよ」とトモリさんは言いました。「フィーナさん、こちらがバゲットの名付け親のパンセさん。本屋のパンセさんの息子さんです」


「まあ、あなたがそうでしたの」とフィーナは微笑んで言いました。「いい名前だと思いますわ、バゲットって。このパンのイメージにピッタリですし、それになんだかかわいらしい響きもあるわ。私、気に入ってしまいました」


「あ、そ、そう、は、はい」

 と、パンセさんはしどろもどろでした。顔がますます赤くなりました。


「私も一本いただきますわ、バゲットを」

 とフィーナはトモリさんに言いました。

「最近、こちらがお気に入りですね」とトモリさんは言いました。「この店は食パンが自慢なんだけどなあ」


「本当、この店の食パンはおいしいですわ」とフィーナ。「でも今はバゲットに夢中なんですの。ミミルちゃんはやっぱり食パンよって言ってましたけど」

「ミミルは食パンに恋をしていると言ってもいいくらいですからね」とトモリさん。


「私はバゲットに恋してしまいましたわ」

 とフィーナは言って、あなたもそうですよね、と言う代わりに、パンセさんの息子さんに微笑みかけました。


 するとパンセさんの息子さんは、ギクッとして、あたふたとお財布から一枚紙幣を取り出しました。


「お、お、お代はここに」と、それをテーブルに置くと、「そ、それじゃ」と言って、バゲットを持って逃げるように店を出て行ってしまいました。


「あら、あの人、どうなさったのかしら?」と、フィーナは扉の向こうを見つめました。「私、何か気に触るようなことでも言ったかしら?」


「心配ありませんよ」とトモリさんは言いました。「ちょっと変わった人で有名なんです」


 なんだか店が騒がしくて、ミミルも奥からやってきました。

「トモリさん、どうなすったの、朝っぱらから?」


 ミミルはフィーナがいるのを見つけました。

「フィーナさん、おはようだわ」

「ミミルちゃん、おはよう。ごめんね、騒がしくしちゃって」


「ねえ、フィーナさん。本当に今日が最後なの?」

 とミミルは言いました。

 フィーナがミミルの家庭教師をするのは、今日が最後でした。エリーゼが使っていた教科書は、もうほとんど勉強し終えてしまって、あとわずかなページを残すのみとなっていました。


「ええ、そうよ」

「えーっ、やだぁ〜」

「家庭教師が終わっても、近所にいるじゃないの。またいつでも会えるわ」

「ずっとフィーナさんがいいなあ」


「そうしてあげたいけど、私ではもう無理。ミミルちゃんてば、すごく良くお出来になるんですもの。約束通り、今日はお勉強が終わったら、一緒にご本を買いに行きましょうね」


 トモリさんは今日の午後、トイデル大通りでお店を構えている人たちの寄合があるため、ミミルとフィーナの二人で行くのです。


「あ、フィーナさん、悪いですけど、パンセさんのところに行ったついでに、忘れものを届けてもらえませんか?」

 と、トモリさんは一つお使いを頼むことにしました。


「忘れもの、ですか?」

「ええ。あの人、お釣りを渡す前に出て行ってしまったんです」



 その日の午後。フィーナが先生の最後の授業が終わった後、ミミルとフィーナは二人連れ立って本屋さんに行きました。


 記念にと、少し大きい子用の読み物になるような本を、フィーナはミミルにプレゼントすることにしていたのです。


「そんな、悪いですよ。家庭教師も無理にお頼みしたのに、その上さらにそんなお金まで使わせてしまって」と、最初トモリさんは言いました。「お金なら僕が出しますから、これでフィーナさんがお選びになってください」

 と、お金を渡そうとしましたが、フィーナはそれを丁寧に断りました。


「いいえ、私の方こそいつもお世話になっていますから、これはほんのお返しですわ」とフィーナは言いました。「それに、教師として、ささやかだけれどミミルちゃんに何かをしてあげたいのですわ」


 結局、トモリさんはフィーナの好意を受け入れることにしました。なんだかんだで、友達同士というのは貸し借りは無しにしておきたいものです。それに、人の好意というのは素直に受け入れるものです。特にそれが大事な人である場合には一層ですね。


「ごめんくださいな」

 本屋さんに着くと、フィーナは奥に向かって声をかけました。

「あら、誰もいないのかしら」

 店の奥からは、誰も出て来ませんでした。


 そこは小さな街の本屋でした。入り口が狭くて、中がごちゃごちゃしていて、奥に行くほど細長い本屋でした。


 フィーナとミミルは勝手に店の中に入って行きました。中はあまりお洒落な感じも、明るい感じもしませんでした。背の高い本棚に挟まれた、細い路地のような通路があるだけでした。


 フィーナは子ども向けの読み物がある棚の前に行って、何かいいものがないかと探してみました。でも、そこには古いものしかありませんでした。


 今の子が読んでも喜ばないのではないかしら、とフィーナは思いました。そもそも、子ども向けの本の数も、そう多くありませんでした。


 その代わりに、学術的な本はたくさんありました。小説も、流行りのものというよりは、古典的な名作が多くありました。


「私、本屋さんに入ったのって初めてだわ」とミミルは興味深そうに言って、店の奥まで入って行こうとしました。


「お店の人がいらっしゃったら、ちゃんとご挨拶しなきゃだめよ」

 と、フィーナはミミルの背に向かって声を掛けました。


「だいじょうぶだもん、任せてちょうだいな」

 と言って、ミミルはずんずん進んで行きました。


 背の低いミミルにとって、そこはまるで本棚というより、樹木に囲まれたジャングルのようでした。あるいは本棚という壁で出来た迷宮でした。


 店の一番奥の奥まで行くと、ミミルはそこに誰かがいるのに気付きました。フィーナに言われた言葉を思い出しました。


 この人に挨拶をしなくてはいけないのかな、と思いましたが、ためらいました。その人はすやすや眠っていたからです。


 そこにはパンのにおいもしていました。その人が枕のように抱いていたのは、齧りかけのバゲットでした。


「ミミルちゃん、どうしたの?あら?」

 後からフィーナがやって来ました。


「まあ、さっきの人だわ」とフィーナは言いました。「今朝、ベーカリーにバゲットを買いにいらしていた方よ」


 それはパンセさんの息子さんでした。奥のカウンターの中の椅子にもたれて、バゲットを抱いたまま眠っていました。小さな会計机の上には、分厚い本が積み上がっていて、その横には、読みかけの本が開きっぱなしでした。


「まあ、良く寝ていらして。起こすのも悪いかしら」とフィーナは言いました。「でも、起こさないことには用事が済ませられないわね。もしもし、おやすみのところすみませんけど、お客さんですよ」

 と、フィーナは優しく声をかけました。でもその人は、目を覚ましませんでした。


「どうしてこの人は、パンと一緒に眠っているの」

 とミミルは訊きました。

「お昼を食べにいけないぐらい、お店が忙しかったんじゃないかしら。でも、そんなふうにも見えないわね」

 と、フィーナは答えました。


 でも、改めて店の中を見回してみると、あまり繁盛した形跡のなさそうな店でした。きっとこの店が出来てから、一度も繁盛したことはなかったのだろう、とフィーナは思いました。


「私、目覚ましのおまじない知ってるわ」とミミルが言いました。「耳元でおはようって叫ぶのよ」

 と、すーっと息を吸い込みました。


「だめよ」と、フィーナは手でミミルの口を塞ぎました。「今朝、気を悪くさせてしまったかもしれないのよ」


 フィーナは会計机の前にかがみ込んで、出来るだけ穏やかな調子でこう言いました。

「すみませんけど、起きてくださいな。お客さんですよ」

 それでもその人は、眠ったままでした。


「困ったわね」とフィーナは言いました。「バゲットと一緒に寝るのって、そんなに気持ちがいいのかしら」


 それを聞いて、ミミルはこう言いました。

「もしもし、バゲットさん。起きてくださいな」


「あら、この人はバゲットさんじゃないわ。このパンにバゲットっていう名前を付けた人よ」

 とフィーナは言いましたが、そのときうっすらと男の人の目が開いたように見えました。


「バゲットさん、起きて」

 とミミルは言いました。

 いいのだろうか、とフィーナは思いましたが、まあ寝ているようだからいいだろうと、こう言ってみました。

「バゲットさん、起きてくださいな。お客さんですわよ」


 すると、男の人の両目がぱっちりと開いたのでした。しばらくフィーナと見つめ合うかっこうになりました。

 フィーナは少し恥ずかしくなって、立ち上がりました。

 はっとした顔になって、男の人は言いました。


「あ、す、すいません。つい、居眠りを。い、いらっしゃい」少し顔を赤らめて、咳払いをして言いました。「えー、こ、コホン。な、何か、御用でしょうか」


「御用は御用ですけど、あの、その前に」

「あの、その前に?」

「お釣りを届けに来たのです」

「お釣り?」


「ええ、パンのお釣りです」フィーナはトモリさんから預かっていたものを渡しました。「今朝方、レインボウ・ベーカリーにパンを買いにいらして、その、バゲットを。どうやらお釣りをもらうのをお忘れになったみたいですので」


「あ、こ、こりゃ、どうも」と、男の人はそれを受け取りました。「さ、先程は失礼を」

「いえ、私の方こそ、いきなりお声掛けして悪かったですわ」


「い、いえ、店員の方がいらっしゃるとは思わなかったものですから、急に、取り乱してしまって」

 と、男の人は頭をくしゃくしゃかき乱しました。


「あ、私は違うのですよ。店員さんではありませんわ」と、フィーナは優しく微笑みました。「ちょっと前にこの街に引っ越してきた、絵描きのフィーナと申します。あなたと同じで、バゲットに恋をしているだけの女です」


 すると男の人は、今朝レインボウ・ベーカリーでそうだったように、また顔が真っ赤になりました。落ち着かない様子で立ち上がり、意味もなくその辺を行ったり来たりしました。


「あ、ど、どうなさいました?」

 とフィーナ。立つと男の人の背が高いものですから、見上げる格好になりました。


「あ、いえ、その。な、なんでもありません」

 と男の人は言いました。

「ねえ、バゲットさん」

 と、ミミルが男の人の足元から言いました。

「はい、何です?」

 と男の人は、窮屈そうに腰を屈めて言いました。


「あら、ミミルちゃん。もうバゲットさんじゃないわ」とフィーナは言いました。「すみません。私たち、あなたのお名前がわからなかったものですから。さっきそんなふうにお呼びしていたのです。お気を悪くされたらごめんなさい」


「いえ、いや、かまいません。僕はバゲットですから」

「え、バゲットさん?それじゃ本当にバゲットさんとおっしゃるの?」


「本名ではありませんけど、外国に住んでいたときに、そう呼ばれていました」

 と、バゲットさんは言いました。少し恥ずかしそうでしたけど。


「ねえ、バゲットさん」と、また下からミミルが言いました。「私たち、ご本を探しに来たのよ」

「ご本?」と、バゲットさん。


「あ、この子ぐらいの子が読むような本を探していたのですわ」とフィーナが補足しました。「でも、あんまり子どもっぽいのでは駄目なんです。ミミルちゃんは、読み書きも計算もとっても良くお出来になられるから。それなりに読み応えのあるもので、面白くって、尚且つ教養が身につくものがいいんですの。あら、欲張りすぎかしら?」


「いえ、かまいません。そういうものなら、おやすいごようです」

 とバゲットさんが言ったので、ミミルは彼を気に入りました。


「あ、あの、その前に」と、言いにくそうにバゲットさんが言いました。「この子は、あなたのお子さんなのですか?」


 それがあまりに出し抜けだったものですから、フィーナは思わずアハハハと笑ってしまいました。


「いいえ、違います。この子は、ミミルちゃんは、トモリさんの……、あ、いや、えっと……。レインボウ・ベーカリーのところの、ええっと、パン屋の二階に住んでいらっしゃる、おまじない屋さんなんです」


「おまじない屋さん?」

 聞き慣れない言葉に、バゲットさんは不思議な顔でミミルを見ました。


「そうよ、おまじない屋よ」

 とミミルは言いました。

「とにかく私の子どもではありませんわ。お友達ですけど」

 とフィーナは言いました。


「そうよ、お友達よ」

 とミミルは言いました。

「それと、今日までは家庭教師でもあります」

 フィーナは本を買いに来たいきさつを、バゲットさんに説明しました。


「それでしたら、任せてください」

 するとバゲットさんは、すぐに何冊か本を探して来ました。少し大きな子どもが読むのにちょうどよく、大人が読んでも面白いようなものでした。


 その中の一冊を見て、フィーナは言いました。

「あら、レ・ミゼラブルですの?まだ早くないかしら?」


 でも、バゲットさんはこう言いました。

「これは子ども向けに翻訳し直されたものですから、大丈夫です。それに、子どもの頃から名作に親しむことは、豊かな感受性を育みます」


「そ、そうですか」

 バゲットさんの顔があまりに真剣だったものですから、フィーナは少し気圧されてしまいました。さらにバゲットさんはこう続けました。


「私は、レ・ミゼラブルほどの傑作は、この世に存在しないと考えています。物語を読むのなら、レ・ミゼラブルしかありません。これは神が書いた小説です。人間というものをこれ以上正しく、これ以上深く描いたものは他にありません。それも神の視点でです」


 その熱を帯びた調子は、フィーナに今朝彼がバゲットについて語っていたのを思い出させました。


「ありがとう、それじゃこちらをいただきますわ」

 と、フィーナはバゲットさんがすすめてくれた本を買うことにしました。良くは分かりませんでしたが、きっとこの人が言うのなら大丈夫なのだろうと思いました。


「では、また」

 と言って、フィーナは買ったばかりの本を抱えて店を出て行きました。


 バゲットさんは、店の前まで出てお見送りしてくれました。

「バゲットさん、またね」

 とミミルはバゲットさんに手を振りました。

「ええ、また」

 と、バゲットさんは手を振り返しました。


「またベーカリーにいらっしゃるでしょ?」

 とフィーナは振り返り微笑みました。

「ええ、また明日」

 とバゲットさんは言いました。


「また明日お会いしましょう」

 とフィーナは言って、前を見て歩き出しました。

 しばらく行って、ミミルは何かを思い出したように、「あ、そうだ」と言いました。

「なあに?」

 とフィーナは訊き返しました。


「この間作ったおまじないなのよ、また明日って」

「あら、そうなの?いい言葉ね、また明日って。どうしてだかはわからないけど、なんだか希望が持てそうな響きね」


「でも、今日のはそのときとは少し意味が違うわ。この間のは、過去から未来に進むためのおまじない。今日のは、人と人とがまた会うためのおまじないだわ」

 ミミルは立ち止まり、本屋の方を振り返りました。バゲットさんは、まだ同じ場所に立っていました。


「バゲットさん、またねーっ」

 と、大きく手を振りました。

 バゲットさんの細長い腕が、彼の頭の上で左右に揺れました。

 もう遠くになって表情はあまり良く分かりませんでしたが、バゲットさんは笑っているようでした。


「きっとまた明日の朝一番にレインボウ・ベーカリーに来なさるわよ」

 とフィーナは笑って言いました。

「どうして?」

「だってあの人、バゲットなしじゃ一日だっていられないみたいですもの」



 その日の夕方、トモリさんがレインボウ・ベーカリーに帰ると、ミミルは買ってもらったばかりの本を読みながら待っていました。


「ただいま、ミミル」

「トモリさん、おかえりなさい」とミミルは嬉しそうに言いました。「初めて本屋さんに行けて良かったわ。ジャングルみたいに本がいっぱいあって、面白かったわよ」


「それは良かったね。いい本は買えたかい?」

「バッチリよ。今も読んでたわ。バゲットさんに選んでもらったの」


「バゲットさん?ああ、パンセさんの息子さんのことかい?」とトモリさんは少し心配そうに言いました。「あの人、どうだった?変な人じゃなかった?」


「変な人?そんなことないわ。とってもいい人よ」

「そうかい?まあ、それなら良かったけど」とトモリさんは少し含みを持たせたように言いました。「どうだろう?ミミルはあの人とまた会ってもいいと思うかい?」


「もちろんだわ。明日もパンを買いに来るんでしょ?きっと朝一番に来るわよ。あの人、パンと一緒に寝ちゃうぐらいパンが好きなんだから」


「う、うん。きっと毎朝来ると思う。バゲットを買いに。でも僕が言いたいのはそういうことじゃなくて、君はこれからあの人と、一日のうちにしばらく一緒に過ごしてもいいかってことなんだ。その、毎日じゃないんだけど、週に何日か、一日に二時間くらい、あの人と一緒に本を読んだり勉強したりというのは」

「どういうこと?」


「つまりそのね、今日寄合でパンセさんに会ったんだけど。本屋さんのご主人。バゲットの人のお父さん。その人に君の家庭教師のことを話したら、それならウチの息子はどうだって言われてね。あの人、今まで外国の大学で学んでいたそうで、店番の役には立たないけど、学問みたいな難しいことならお手のものだからって言うんだ」


 それはミミルにとって喜ばしい知らせでした。

「本当?」と思わず飛び上がりました。「バゲットさんだったら大歓迎だわ。私、先生がフィーナさんじゃなくなってどうしようと思っていたところだったのよ。新しい先生も、フィーナさんみたいな人だったらいいなと思っていたの。あの人だったら、きっとフィーナさんのときと同じようにできるわ」


「そ、そうかい?」トモリさんには、バゲットさんがフィーナみたいだとはとても思えませんでしたが、ミミルが喜んでいるのならいいのだろうと思いました。「じゃあ、あの人にお願いしようと思うけど、いいかな?」


「もちろんだわ」とミミルは喜んで言いました。「明日また会えるとは思っていたけど、思った以上になったわ」


 それからしばらく、トモリさんに新しいおまじないのことを説明するミミルでした。良く考えたあげく、おまじないノートにはこう書いておくことにしました。

「また会いましょう」

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