第28話 目覚ましはパンの香り
ミミルが倒れてから、丸一日と半分以上がたちました。
その日ミミルは一日中眠っていました。
とっくの昔に日付けは変わって、外は真っ暗。それどころか、もうじき空が白み始める時間です。
ミミルのそばには、トモリさんだけがついていました。
その日は一日中、みんなは変わるがわるミミルの看病をしていました。その甲斐あってか、昼頃にはミミルの熱は引いていきました。
ですがお日さまが西に傾くにつれ、彼女の顔色はますます青白く、生きている人のものとは思えないまでになりました。
スースの奥さんはいてもたってもいられなくなって、噴水の女神像のところに行きました。
バゲット先生は別の医者を連れてきましたが、医者の答えは同じでした。
夕暮れどきになるころには、みんな疲れ果てていました。疲れて、絶望感と無力感がみんなを覆っていました。
トモリさんも疲れていました。丸一日以上ほとんど寝ていません。心配と疲れで目は充血し、まるでトモリさんが病人みたいでした。
日が完全に落ちる前に、トモリさんはみんなを帰らせました。ミミルと二人きりになりたかったのです。
トモリさんは一晩中ミミルが寝ているベッドの側にいました。
「ああ、ミミル」
とトモリさんはミミルの小さな手をそっと取ります。
かろうじてまだ息はしていますが、その手からは生きる力というものが消えてしまったようでした。
「ああ、ミミル」とトモリさんは祈るように言いました。「ミミル、どうか死なないでおくれ。また僕を一人にしないでおくれ」
トモリさんの目から、大粒の涙がポタポタとこぼれ落ちます。ミミルと出会って一年。エリーゼを亡くして以来、トモリさんにとって久々に充実した一年でした。それがすべて無駄になってしまうような、そんな無力感に襲われました。
でも空が白み始めたとき、ふとトモリさんは、雷に打たれたようにハッとしました。
(そうだ!)
何かを思い出すと、トモリさんは握っていたミミルの手をそっと布団の中に戻しました。そうしてすっくと立ち上がりました。
(そうだ、そうだ、そうなんだ!)
トモリさんの体に活力が湧いてきました。
「ミミル、待っていておくれ」と一声ミミルに声をかけると、慌しく階段を降りていきました。「こうしちゃいられない」
一階の仕事場に着いてエプロンをかけると、パンの仕込みを始めました。
「ミミルは、これからは毎朝焼き立てパンの香りで目を覚ましたいって言ったんだ」
トモリさんは一心不乱にパンを捏ねます。ミミルが一番好きな、この店自慢の食パンです。トモリさんが先祖代々受け継いで大事にしてきた、とっておきの食パンです。代々の王様から勲章を頂いてきた、トモリさんの魂ともいうべき食パンでした。
(待っていておくれ、ミミル。これまでで最高の、一番の食パンを焼いてやるからな)
外が十分に明るくなるころ、トモリさんのパン職人人生で一番最高の食パンが焼き上がりました。
自分でも惚れ惚れするような、この上ない食パンでした。
トモリさんはそれから何度もこんな食パンを焼こうとしましたが、二度と同じものは焼けませんでした。
さあ、丸一日以上この店になかったものが戻ってきました。それはミミルがこの店にやってきてから、一日たりとも欠かさなかったものでした。それが戻ってきたのです。
トモリさんはミルクを温めると、たった今焼き上がったばかりの食パンと一緒に、二階に持っていきました。
二階にはもう、朝の焼き立てパンの香りが隅々まで満ちていました。
「ミミル、おはよう」
トモリさんはベッドの側に朝食を持っていきました。
ミミルは薄目を開けて、トモリさんを見ました。
「トモリさん……」
「ミミル、起きたんだね」
「ありがとう、いい香りね……」
「君の大好きなパンを焼いたよ……」
トモリさんは涙があふれて、うまく言えませんでした。
「トモリさん」とミミルは何かを言おうとしましたが、彼女の目からも涙があふれ出てきました。「私、ママに会っていたのよ。女神様のところにいたの」
「ミミル、無理しないで……」
「トモリさん、私、生きているの?」
「ああ、生きている。ここにいるよ。僕の家だ。君のおまじない屋だ。朝にはいつだって焼き立てパンの香りがする、パン屋の二階だよ」
「トモリさん、生きているって当たり前のことじゃないわ」
うん、うんとトモリさんはミミルの手を取り、何度も頷いて言いました。
「だから大切なんだ。どの一瞬一瞬も」
ミミルはトモリさんに一番言うべき言葉を探しました。それはママからもらったあの言葉しかありませんでした。
「愛してるわ」
「僕だって愛してる」
「私の方が愛してるもの」
「僕の方が愛してる。もっと愛してる」
「もっともっと愛してるわよ」
「もっともっともっと、ずっとずっと、愛してるよ」
それは二人が家族になってから、最も幸せな朝でした。
本物の家族だけに訪れる、幸せな朝でした。
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