第2話 レインボウ・ベーカリーのトモリさん
その店ができたのは、トイデル大通りができたのとほとんど同時でした。
トイデル大通りが今の形になったのは、ずっと前の王様が、活気ある街並みを作ろうと、細かった道を広くしたのが始まりです。
この店は、そのとき見習いパン職人だった、今のご主人のトモリさんのご先祖様が、最初の商店の募集に応募したのが始まりでした。
それからずっと、レインボウ・ベーカリーは、トイデル大通りの同じ場所で店を構えてきました。街の発展とともに成長し、雨の日も雪の日もずっと同じ場所から、この街の栄枯盛衰を見つめてきました。それがまさか、街が崩壊していくさまを見ることになろうとは、トモリさんでも夢にも思わなかったのです。
「ふう」
疲れた体を椅子に沈み込ませて、トモリさんは大きなため息をつきました。テーブルの上には暗い火の灯った一本のロウソクと、丸まった白いパン種が乗っていました。
今、ちょうどパンの仕込みを終えたところなのです。と言っても、売り物じゃあありません。トモリさん一人が食べる分だけの、普通の食パンでした。
(もう店を畳もうかなあ。建物はなんとか無事だけど、材料がほとんど手に入らないしなあ。もしあったとしても、買いに来る人はいないだろうなあ)
戦争が始まると、街の若者たちはみんな兵隊に取られていきました。残った人たち多くは田舎に疎開していき、残った多くの人たちが死にました。もう街の人口は、以前よりもずっと少なくなっていたのです。ここしばらくは、トモリさんは自分が食べる分だけのパンしか焼いていませんでした。
やれやれと、トモリさんは店の中の一画に目をやりました。そこには、王様からもらったトロフィーやら賞状やらが飾ってありました。トモリさんのご先祖様たちが、そのときどきで歴代の王様からもらったものです。一番新しくて一番小さいものは、トモリさんがもらったものでした。
(その王様も、もういなくなってしまったし)
王様のことを考えると、トモリさんは胸が切なくなりました。同時にそこには、言いようもなく苦いものがありました。
トモリさんが目を上にやると、壁に肖像画が並んでいました。これは、ご先祖様たちでした。この店の歴代の主人たちでした。空いている場所には、やがてトモリさんの肖像画がかかる予定でした。
(僕の代で店を畳んだら、ご先祖様たちに申し訳ないかなあ。でも、もうやる気もなくなっちゃったなあ。それに、跡を継ぐ人もいないし)
また、ふうーっと深いため息が出ました。悲しい目で白いパン種を見つめます。一人のためだけに焼く食パンは、悲しい色をしていました。
トモリさんは首にかけたロケットを出して、中の写真を見つめました。涙がポロポロとこぼれてきました。
リンリンと、扉に付いているベルが細い音を立てたのは、そんなときでした。
「ごめんくださいだわ」
「お客さんかい。またにしてくれないか。もう今日は店じまいなんだ」
明日店を開くつもりもなかったのですけど、トモリさんはいつもの癖でそう言いました。慌てて涙をぬぐって、ロケットをシャツの中にしまいました。入り口の方を見ると、小さな人影がそこにありました。
(おや、子どもかな?)
ミミルはしばらく扉のところに立って、中の様子を伺っていました。
外が暗いので、トモリさんからミミルの顔は見えませんでした。
「お尋ねするけど、ここ、パン屋さんかしら」
少女の声で、意外に大人びた物言いでした。
「あ、ああ、そうだけど。でも今日はおしまいだよ」
「ここ、パン屋さんなのね」
ミミルの声には少し弾んだ響きがありました。
「う、うん。パン屋だけど?」
「やった」
ミミルは、物怖じせずに店の中まで入っていきました。また、リンリンと細い音を立てて扉が閉まりました。それでトモリさんにも、ミミルの様子がよく見えるようになりました。
(見すぼらしい子どもだな。この子一人かな?誰か大人の人が一緒じゃないんだろうか)
トモリさんはしばらくドアのところを見ていましたが、誰かが入ってくる様子はありませんでした。
ミミルはテーブルまでやって来ると、トモリさんが今しがた仕込んだばかりの白いパン種をじっと見つめました。
「これ、パンを焼くのね」
「お嬢さん、これは売り物じゃないんだ」
と、トモリさんは言いましたが、もしこの少女が欲しいと言ったら焼いてあげてもいいかなと思いました。
お金を持っているようには見えませんでしたけど、いかにも見すぼらしいミミルの様子は、トモリさんに憐れみの心を呼び覚ましました。
それに、まるで何か、以前に失われてしまった大事なものがまた戻ってきたような、そんな奇妙な気にもなっていたのです。
(きっとこの子はお腹が空いているんだ。パンを焼いてあげよう。待てよ、ビスケットだったらあったかな)
「ねえ、君、お腹空いてるんだろう。ビスケット食べないか?もちろんお金はいらないよ」
でも、ミミルの口から出たのは、トモリさんには思いもかけない言葉でした。
「ねえ、私、ここに住んでもいいかしら?」
トモリさんはすぐにはミミルの言ったことが分かりませんでした。
「君、今何て言ったんだい?」
「ここに住んでもいいかしらって言ったのよ」
「ここに住んでもいいか、だって?」
「そうよ。お二階はいっぱいかしら?私が思うに、ここは一階がパン屋さんで、二階が住むところなのよね。そういうお店って、見たことあるもの」
ミミルの言う通り、一階が店舗で二階が住居でした。
「それは、要するにここに下宿するということ?」
「要するにそうよ。もういっぱいかしら?」
トモリさんはかつて二階に住んでいた人たちのことを思い出しました。でも、その人たちのことを考えるより、今は他にやることがありました。
「その前にビスケットを食べようね」
その申し出に異論のある人はいませんでした。トモリさんはミミルをテーブルに座らせると、ビスケットを出して与えました。
「お茶もどうぞ」
「ありがとうだわ」
ミミルはもう凄い勢いでビスケットを食べ始めていました。この子はよっぽどお腹が空いていたんだ、とトモリさんは思いました。
「ビスケットを喉に詰まらせないようにね」
ミミルはお茶を口に滑り込ませて、カラカラの口の中を溶かしました。
「どういたしましてだわ」
「良かったら、パンも焼こうか」
「本当?いいの?」
「いいよ。明日の分の予定だったけど、それはまた捏ねればいい」
トモリさんは竈に火を入れて、パン種をオーブンに入れました。それで少し部屋の中が暖かくなりました。
「私、パンが焼ける匂いって大好き」
「僕もだよ」
ミミルが大人に対しても物怖じせずに喋れる子どものようで、トモリさんは安心していました。
(おそらく、戦争孤児なんだ)
とトモリさんは思いました。
「君は泊まる場所がないんだね」
とトモリさんは訊きました。
「そうよ」
とミミルは答えました。
「明日も明後日も」
「明日も明後日もそうよ」
「家がない、要するに」
「そうよ、要するに」
ミミルはトモリさんの言い方を真似ました。
「家はどうしたの?」
「焼けちゃったの」
「戦争で焼けたんだ」
「そう」
一つ深呼吸して、トモリさんは訊きました。
「家の人たちは?ママかパパはどうしたの?」
するとミミルは目を丸くして固まってしまいました。トモリさんは慌てて言いました。
「ごめん、言いたくなければ言わなくてもいいんだ。僕としてはここに君を泊めるのは構わないよ。でもそうなるとすると、一応訊いておかなきゃ。君、もっとお茶飲むかい?」
トモリさんはお茶を沸かしに立ち上がりました。
「ありがとうだわ。できたらミルクをもらえるかしら?できたら温めてほしいのよ」
「お気に召すまま」
トモリさんはミルクを沸かしながら、ミミルの方をチラチラ見ていました。ミミルは落ち着いているようでした。
「私、さっきね」
突然ミミルが話しかけてきました。
「うん、何だい?」
「歩いてたのよ、そこの通りを。女神様におまじないしながら」
「うん」
トモリさんは余計なことを言わずに聴いてやることにしました。
「手のない人とか、足のない人とかいっぱい。怪我した人ばかりいたわ」
「うん」
「みんな失くしちゃったのね」
「戦争って、いろいろ失くすんだ」
自分は何を失くしたのだろう、とトモリさんは思いました。トモリさんは一人ぼっちでした。家族は戦争が始まる前にいなくなってしまっていました。
「ママと二人で暮らしていたの。女神様から北に行ったところ」
ミミルが言っているのは噴水の女神像のことだとトモリさんは理解しました。そこから北に行ったところというのは、最後に大きな戦闘があった地域でした。
「小さな教会から裏通りに入ったところ。水晶玉のある家」
「ああ、あの、まじないの女の人」
と、ついトモリさんはそう口走ってしまいました。以前に、ミミルのママに頼み事をしたことがあったのです。
「君はあそこの娘さんか。君のママはどうしたの?」
言ってしまって後悔しました。そこで慌ててこう言いました。
「じきにミルクが温まるよ」
「ママは死んじゃったわ。戦闘に巻き込まれたの」とミミルはセリフを棒読みするように言いました。
「聞いて悪かった」
「ビスケットおいしかったわ」
「そりゃどうも。ミルクお待ちどうさま」
トモリさんは大きなカップに温かいミルクを注いでやりました。ミミルはひとしきりフーフーやって、ちびちびと飲み始めました。
「君のパパはどうしたの」
ミミルが落ち着いた頃を見計らって、トモリさんは訊いてみました。
「パパは見たことないわ。ずっとママと二人。ママしか知らないの。家族はママだけ」
「おじいちゃんとかおばあちゃんは?他に親戚の人とか」
「ママだけよ」
「そうなんだ」
このときトモリさんの腹は決まっていました。
(他人の子だって関係あるもんか。この子は生きようとしているんだ)
「君は一人ぼっちなんだね。僕と一緒だ」
「そうなの?じゃあ、お二階は空いているのかしら」
「ああ、使ってくれても構わない」
「やったあ!」
ミミルの顔に笑みが浮かびました。
「でも君に聞いておきたいことがある」とトモリさんは言いました。
するとミミルは何かを思い出したように慌てて言いました。
「私、ミミルよ」
「ミミルか、そうか。そういや自己紹介がまだだった。僕はトモリ。レインボウ・ベーカリーのトモリだよ」
「素敵ね、それ」
「え、何が?」
「そのレインボウ・ベーカリーのトモリっていうの。自分が何か分かっている感じがするわ」
「大したことじゃないよ」
「ううん、大事なことよ。ママが言っていたわ。自分の役が分からなければ、舞台には上がれないって」
「君もそう名乗ればいい。ここにいる間は」
ミミルは、それは素敵だと思いましたが、何だかむずがゆいようにも感じました。
「レインボウ・ベーカリーのミミル」
口に出して言ってみましたが、むずがゆさは消えませんでした。
「もう一つ、君に訊いておかなきゃ。どうしてウチの二階に住みたいと思ったの?」
「だって私、さっきそこの前を通り掛かったときに思ったの。とってもいい香りがしてきたから。これからは、毎朝焼き立てのパンの香りで目を覚ますことにしようって。きっと女神様のお導きだわ」
「ふむ、それは素敵な考えだ」と、トモリさんは言いました。「僕だって、それは素敵だと思う」
トモリさんは、昔どこかで同じことを聞いたっけなと思いました。
(女神様かどうかは分からないけど、導きかもしれないな)
そのうちにパンが焼けて、いい香りがしてきました。
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