希望の街のおまじない屋

いもタルト

第1話 ミミルはパンが好き

 だいじょうぶ

 だいじょうぶ


 そう口の中で何度も呟きながら、一人の少女が今日眠るところを探して、壊れた街を歩いていました。


 歳の頃は10歳くらい、でも、もっと小さくも見えます。

 身なりはボロボロ。とても幸せそうとは言えません。ところどころかぎさきのできた赤いワンピースは、薄汚れて灰色に近くなっています。肩からかけたポーチは、細い紐が切れそう。こんなになるまで着なくても、とっくに新しいものをママかパパにねだったって、バチは当たらないのにね。


 少女は短い両足を交互に出して、重い体を引きずるようにしてヨタヨタと進んでいきます。

 どうやら一人ぼっちのようです。まわりに面倒を見てやっているような大人の姿はありません。


 お日さまはもう西の空から落ちていくところ。もうじき真っ暗になってしまうでしょう。

 最後まで地上に残っていたわずかな赤い光も、暗い灰色の街の片隅に隠れるようにして消えていきました。どこかで鳴いているカラスの声が、カアカアと物悲しく響きます。


 この少女の他にも、通りには何人かの人たちが表に出ていました。でもみんな一様に暗い表情。肩を落として、体を重そうに引きずってどこかへ急いでいます。

 誰も少女のことを気にかけてやる余裕のある人はいなさそうです。みんな暗く、汚れています。


 穴の空いたボロをまとい、中には、片手を失った人や、片足を失って松葉杖をついている人、頭に大きな包帯を巻いた人もいました。どの人の顔にも生気がなく、皆一様に疲れ切っているようでした。


 その目に宿しているのは深い悲しみの色。いったいどれだけの悲しみを見つめれば、こんな色になるのでしょう?でも少しだけ、ほっとしているようにも見えます。


 だいじょうぶ

 だいじょうぶ


 その少女ーーーーミミルは、もう何度繰り返したかわからない言葉を、まるで呪文のように口の中で唱えていました。


 実はこれは、ママにもらった、おまじないなのです。ミミルのママは、この街で少しは知られた、まじない師でした。不思議な力があって、普通の人には見えないものが見え、感じられないものを感じることができました。


 その力を利用して、この街で、まじない屋をやっていました。占いをしたり、ハーブを調合したりして、生計を立てていました。ときには魔法のようなことをして、人々の願い事を叶えるお手伝いをする、なんていうことも。


 ミミルの家系は先祖代々の、まじない師。この家に生まれた女の人にだけ、不思議な力が宿ります。

 だからミミルが生まれたとき、ママは女の子だということで、大いに喜んだものでした。


 でも、ミミルが少しばかりの言葉を覚えて、ママの真似事を始めるようになったとき、ママはがっかりしてしまったのです。どういうわけか、先祖代々受け継がれてきた不思議な力が、ミミルにはこれっぽっちもないのでした。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 ミミルはまた、おまじないの呪文を繰り返しました。ぐう〜っと、お腹が心細い鳴き声を上げます。


 ミミルはこれまでママと二人で暮らしていましたが、つい最近まで続いていた戦争で家を焼け出され、ママも戦闘に巻き込まれて死んでしまったのです。今日は朝からロクに食べるものも口に入れず、安心できる場所を求めてさまよっていたのでした。


 でも、この焼け跡と壊れた建物ばかりの街には、小さな女の子にとってそんな場所はなかなか見つかりませんでした。


 ミミルはいつしか、トイデル大通りと呼ばれる通りに入っていました。

 ここは、その昔は王様の通りと言われたほどの、栄えた街並みを誇る立派な通りでした。


 王様もこの街を訪れたときには滞在する、大きなホテルがあって、外国からもいろんな人たちが観光にやってきてはいたものでした。

 道の両側には、カラフルなショーウインドウのお店が立ち並び、いつも大勢の人たちで賑わっていました。


 通りの真ん中は緑あふれる都市公園になっています。そこを港の方へと歩いていくと、やがて噴水のある広場に出ます。


 噴水の中心には、女神像が立っていました。海からやってきたカモメが、よく女神像の上で羽を休めていましたっけ。観光客たちはそれを眺めながら、屋台で買ったアイスクリームを食べたりしたものです。


 花が咲き誇り、人々の笑いが絶えない。そんな花と平和の街も、すっかり様子が変わってしまいました。あの悪魔のような戦争が、街を破壊し、人々から全てを奪っていったのです。


 通りは、今や穴ぼこだらけ。歩くのにも苦労します。

 噴水の女神像も、戦闘で壊されて、その胸から上を失ってしまいました。


 辺りはいつの間にか、すっかり夜の闇に包まれていました。街明かりなんか一つもありません。


 早く泊まるところを見つけなくては。ホテルはかろうじて形を留めていましたが、ミミルは泊まるお金を持っていませんでした。


 小さなポーチの中に入っているのは、ちびた鉛筆と小さなノートだけ。ミミルがママからもらった、たった一つの形見でした。


「だいじょうぶ、だいじょうぶ。女神様の思し召し。きっと私は今夜のごはんにあり付けるわ。ちゃんとした寝床で寝られるわよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。だってママが言っていたもの。女神様の食卓には、いつだって私の席が用意されているって。ほら、ホカホカに茹でたジャガイモに、玉ねぎのスープ。たっぷりとソースのかかった七面鳥。ううん、そんなのでなくたって、焼き立てのパンがあれば十分よ。ううん、焼き立てでなくたっていいわ、パンさえあれば」


 ミミルはパンが好きでした。七面鳥なんかなくても、パンさえあれば幸せでした。ふと、焼き立てのパンの香りに包まれて生きていけたら、なんて素敵だろうと思いました。


 ヨタヨタと歩きながら、こんな空想を始めました。ミミルは空想が好き。よく、目の前に人がいたって、その人のことを放っておいて、空想の世界に入り込んでしまうこともしばしばです。


(くんくんくん。いい香りがするわ。ここはお空の上、女神様の食卓よ。ふわっふわの雲の上、白いテーブルに白い椅子。白いお皿に女神様がおいしそうなパンを乗せて運んでくれるのよ。あったかくて香ばしくて、焼き立ての、皮がパリパリしているような本物のパンなんだから)


 ミミルは自分が食卓に着いて、大きなパンにかぶりついているところを想像しました。女神様も優しそうな微笑みを浮かべてミミルを見守っています。何も怖れるものはありません。


 そのうちに、本当にパンを食べているような、かぐわしいにおいを嗅いでいるような、そんな気になってきました。


(くんくん、くんくん。あれ、おかしいわね。なんだか本当にいいにおいがしてきたみたい。これは空想じゃないわよね)

 ほんの微かですが、本当にパンを焼いたときのようなにおいがします。


 ミミルはふと立ち止まりました。そうして自分が今立っているところを注意深く調べてみると、ある建物の前でした。おいしそうな香りは、どうやらこの中から漂ってきているというより、この建物に染み付いているようでした。二階建ての建物でした。


 ふと、ミミルは、ここはパン屋さんなのではないかしら、と思いました。一階が店舗で二階が住居になっているような、そういうお店なのではないかしら。


 星明かりにじっと目を凝らします。でも暗くて看板に書いてある文字は読めませんでした。


 そのとき唐突に、ミミルの頭をある素敵な思い付きが訪れたのです。それは突拍子もないものでしたが、すぐにミミルの気に入りました。そう思うといても立ってもいられなくなって、ミミルは扉に手をかけていました。


(そうだわ。これからは私、焼き立てパンの香りで目を覚ますことにしよう)

 ちなみに看板には、こう書いてあったのです。

『レインボウ・ベーカリー』

 虹のパン屋さん。

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