第3話 女神様のおまじない
「ほら、君の好きなものができたよ」
「嬉しいわ」
焼き立てパンの香りをすーっと胸いっぱいに吸い込むと、ミミルは気持ちが晴れたようになりました。もうこんなに晴々としたのは、いつ振りかわからないくらいでした。
「私、パンが大好物なのよ」
温かいパンにかぶりつきました。
「やっひゃり、しょお通りになっひゃわ。めやみしゃあの、おほしめし」
「口を空にしてから喋ろうね」
トモリさんはミミルにミルクを勧めました。
「おまじないしたのよ」
ミミルは遠くの方を見つめて話し出しました。トモリさんは、ミミルがすごく大人びて見えたり、年相応に子どもじみて見えたりしました。今は子どもの方でした。
「おまじない、女神様の。知ってるでしょ」
「えっと、噴水の女神像は、希望の女神ナディア」
「ママが教えてくれたのよ。欲しいものがあるときは、女神様におまじないしなさいって。思し召しがあるからって。幸運がもたらされるのよって」
「そう言えば、噴水にコインを投げ込んで、女神像にお願い事をする人もいるね」
と、トモリさんは言いました。その光景を思い浮かべると、お願い事をしているのは、トモリさんでした。
「ううん、そういうのじゃないわ」
「そういうのじゃないの?」
とトモリさんが訊くと、ミミルはくたびれたポーチから、小さなノートを取り出してトモリさんに見せました。
「これ、ママがくれたノートよ。ママに教えてもらったおまじないを書いておくの」
小さいけれど、大事にされているようなノートでした。最初のページを開いてみると、子どもの文字でそこには「だいじょうぶ」と書かれてありました。
「だいじょうぶ?それがおまじないかい?」
「困ったときには、こう唱えなさいって。ママが教えてくれたの。だから、だいじょうぶ、だいじょうぶって。ここに来る間ずっと、唱えてきたのよ」
小さな女の子にそう言われると、トモリさんは否定することができませんでした。
「君のママの形見かい」
「うん、そうよ」
ミミルはまたパンを一口食べました。
「これはしまっておこう。大事なものなんだろ」
ミミルはノートをポーチにしまいました。
「そうね、お行儀が悪かったわ」
ミミルはときどきおしゃまでした。
それからパンを食べ終わるまで、ミミルは一言も喋りませんでした。全部食べると、ゴクゴクゴクとミルクも飲み干しました。久しぶりに満ち足りた気分になりました。
「お腹があったかいわ。とっても素敵」
「明日はもっと素敵になるよ」
「本当?」
「君が言ったじゃないか。焼き立てパンの香りで目を覚ましたいって」
いたずらっぽく笑って、トモリさんはウインクをしました。
「二階を案内するよ。娘が使っていたベッドがある。きっと君にぴったりだと思うよ。娘と君は背格好が良く似ているし」
そう言うと、トモリさんはミミルが瞬きもせずにこちらをじっと見つめているのに気が付きました。
「いや、君を娘の代わりだと思っているとか、そういうことではないよ。そんな風に思ってくれなくてもいい。ただ、みんな戦争で苦しんでいるんだ。こういうときにはお互い助け合わなきゃ。幸い僕は家が残ってる。もし君がいたければずっといてくれてもいいし、いたくなければ、出て行ってもいいんだよ。強制はしない」
「トモリさんには娘さんがいたの?」
そう訊かれて、トモリさんは自分が喋り過ぎたことに気付きました。そう言えばミミルはまだそのことを知らなかったのです。
「うん。君と同じくらいだ。えっと、君はいくつかな」
「いくつ?」とミミルは首を傾げました。
「そう。歳はいくつだい?」
「えっと、私、いくつだったかしら?」
「誕生日は?」
「うーんと……」
「覚えてないの?」
「うーんと、そうね。思い浮かばないわ。思い浮かばないってことは、そうなんじゃないかしら」
「忘れちゃったのかい、自分の歳を?」
とトモリさんは驚いて訊き返しましたが、ミミルがまたさっきみたいに固まってしまいましたので、あんまり深く掘り下げてはいけないかなと思ってこう言いました。
「まあ、いいんだ。忘れることだってある。人生には歳を数えるより大事なことがたくさんあるんだから」
今この街には、いろんなところをいろんな形で傷ついている人たちばかりなのです。
「僕の娘はね、11の歳に病気で死んだんだよ。元々病弱な子だったんだ。いろいろ手を尽くしたけど、駄目だった。戦争が始まる前のことだ」
とトモリさんは話し始めました。
ミミルはトモリさんの話に聴き入っているようでした。
「見てごらん」
トモリさんは首にかけたロケットをシャツの中から出すと、蓋を開いて、中の写真をミミルに見せました。そこにはミミルくらいの歳の、綺麗な女の子が一人と、その子に良く似た、綺麗だけれどどこか儚げな大人の女の人が一人、頬を寄せ合って写っていました。
「エリーゼと言うんだ」
「こっちはママね」
とミミルは大人の人の方を指さして訊きました。
トモリさんは頷きました。
「ママはどうしたの?」
ミミルは、訊いてはいけないことだろうかとも思いました。
「別れたんだ。娘が死んだあとで実家に帰ったよ」
「どうして別れちゃったの?」
「娘を亡くしたことがショックで、彼女は心を病んでしまったんだ」
「きれいな人ね」
「うん。とてもきれいな人だった。彼女は上流階級の出身でね、そもそもパン屋のおかみさんには向いてなかったんだろうな。元々精神的に波があった人だったけど、僕を愛してくれた。彼女が心に負った傷をうまく癒してあげられなかった。彼女が出て行ったのは、僕のせいだよ」
「トモリさんのせいじゃないわよ」
「でも、僕らは夫婦だったんだ」
「夫婦でもよ」
「ありがとう、慰めてくれて」
トモリさんは悲しい微笑みを浮かべてミミルを見ました。まだあどけない顔がそこにありました。
(僕は何を言っているんだろう、こんな小さな子相手に。それもまだ会ったばかりだというのに)
でも、トモリさんは知らないことでしたが、ミミルと話すとみんなこうなのです。どういうわけか素直になって、普段は人には言わないようなこと、心の部屋に鍵をかけてしまってあるようなことも、みんな喋ってしまうのでした。
「もう、戦争は終わったのよ」と、ミミルは言って、椅子からピョコンと立ち上がりました。「どんな戦争も終わったのよ」
独り言のように、トモリさんに聞かせるように言いました。
「そうだね。ちょっと喋り過ぎたな。さあ、二階を案内しよう」
トモリさんも椅子から立ち上がりました。
「だいじょうぶよ」
と、ミミルは言いました。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
と繰り返しました。
それを聞いてトモリさんも、なんとなくだいじょうぶなような気がしてきました。
「いい言葉だね」
「おまじない」
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