8章
8-1
ここまで順調だった航海にもかげりが見え始めた。もっとも、船員たちの話を盗み聞く限りこれほど順調なことの方が珍しいらしい。
ここ数日というもの風は一切吹かなくて、船は一マイルも動かない日々が続いていた。すると船員たちは昼から仕事を放り出して酒に浸り、決まって馬鹿騒ぎを繰り広げる。しかしその騒ぎ方も船の運航がスムーズな時の方がよほど穏やかで落ち着いていた。
誰も彼もがどうしようもなく鬱憤をためているようで、酒が入ると素面では決して表には出てこないような些細な不満が爆発して十分に一回はどこかから怒鳴り声が響き、テーブルを蹴り上げる大きな音が聞こえる。
船はちょうど大陸と大陸の中間点にさしかかっていた。大陸から最も離れたこの区域は特に風が弱くて『無風地帯』と呼ばれ船乗りから恐れられている場所だった。当然彼らの獲物である各国の商船もこのありさまでは足止めを食らっていることだろう。船長は今日もそうそうに操舵手も甲板員も何もかもを引っ込め、早めの宴会を繰り広げていた。船員たちの士気を保つために普段よりいくらか豪華な食事が提供されたがシャルロッテにはほとんど関係ない話だった。
少し食事の量が多くなったところで、まだ日も明るいうちから晩酌が始まってしまえば行き場を追われたねずみみたいに部屋でじっとしているしかなかった。そうでもしないと少しでも部屋の外に出ようものなら酔っ払った船員たちが肩に腕を回して酒臭い息をさんざ顔に吹きかけながら大声で絡んでくるのだ。そんなわけでシャルロッテがダイニングに顔を出すのは宴も終わった夜遅くで、机に突っ伏して大いびきをかく男たちを起こさないようにそっと間をぬって残っている食事を口に運ぶ。
狭いダイニングのあちこちに椅子が散乱して、男たちがひしめきあっているせいでどれほど気をつけてもスカートのフリルやレースが男たちの体に当たるようで、シャルロッテが動くたびに男たちは大きく身じろぎをして思い出したみたいに顔をボリボリとかいたりする。そのたびにシャルロッテは寿命が縮む思いだった。何しろ大抵寝起きの凶悪さは普段の二割増しだから――とにかくそっとしておくにこしたことはない。
シャルロッテは今日もダイニングの賑わいが小さくなった頃合いを見計らってそっと部屋を抜け出した。数時間前から騒いでいた男たちはすっかり疲れ果ててほとんど全員が真っ赤な顔をしながら机に突っ伏して大いびきをかいていた。どうやら今日は全員して飲み比べしたらしく、机の上やら床には空になったコップが山のように散乱していた。シャルロッテはダイニングの入り口から中をのぞき込んで、一人で酒を飲み続けるロウ船長と目が合って心臓が飛び跳ねる気がした。てっきり全員酔いつぶれていると思ったのだ。どうやら飲み比べの勝者は船長らしい。
「デリックは今日もいないのね」シャルロッテは慌てて視線をそらしてあえて別のことを考えた。船長が自分の事なんて眼中にないのは分かっているが、いつだって彼の前に姿をさらすのは緊張する。この間の出来事があったからといって、染みついた恐怖がまったくなくなるわけではなかった。ただ、心臓が今までとは違う脈拍をすることにも気がついていた。
シャルロッテは目を伏せながら、ロウ船長の動向をうかがった。きっと船長には背中にも目がついているのだ。そして彼の黒い瞳は船の内部で起こるすべてのことが手に取るようにわかるに違いない。シャルロッテはここのところどこへ抜け出しても必ず最終的にはロウ船長と顔をつきあわせる羽目になった。それは偶然というにはあまりにも露骨だった。まるでつけ回され、一挙手一投足を監視されているみたいであまり気分のいいものではない。
デリックはここのところ毎日繰り広げられるお祭り騒ぎには顔を出していなかった。それどころか、少し前まではしつこいほどにシャルロッテにつきまとってどうにか彼女に気に入られようと画策していたにもかかわらずこのところは彼女の前にもめっきり姿を見せていなかった。
そうとも知らないシャルロッテはたしかにこの下品な会に彼みたいな人は似合わない、と強引に自分を納得させたが、果たしてこの長い夜を彼がどうやって過ごしているのかは甚だ疑問だった。甲板にもその姿はなかったし、船員たちの話を聞く限り寝室にも姿がみえないらしい。
デリックは狙いをシャルロッテから船尾倉庫に変えたのだ。すべての船員が集まって宴会を繰り広げる今が事に及ぶ絶好のチャンスだった。しかし船長も甘くなく、昼夜を問わず倉庫には見張りがつけられ、デリックは歯がゆい時間を悶々と過ごしていた。
ロウ船長の無言の圧に怯え、シャルロッテが食事を両腕に抱え込めるだけ抱え込んで、部屋に逃げ帰ろうとするとふと視界の端の廊下にデリックの姿が映った。
「デリック?」思わず呼びかけても彼は反応しなかった。シャルロッテの声なんてまるで耳にも入っていないようで、歩みを止めることなくえらく大股で廊下を足早に進んでいく。久しぶりにみる彼の姿は何やら様子がおかしかった。腹に据えかねる出来事でも起きたかのように妙にいらだっているが遠くからみてもわかった。わざわざ足音を船内に響かせるようにどしどしと音を立てて歩き、目に映るすべてのものに当たり散らすようなありさまだ。彼のそういう危うい態度はシャルロッテを存分に不安にさせた。
「もしかして何かあったの?」
そう思うといてもたってもいられなくなってシャルロッテは慌てて席を立ってデリックのことを追いかけた。けれど追いかけたときにはすでにデリックの姿はなかった。その代わりに廊下にはえらく不機嫌な船乗りが三人立っていた。
「デリックは?」
その名前を聞くなりアンドレは顔を見合わせて嫌な顔をして
「あのくそ野郎め! あの野郎、ついに取りつくろう気もなくなりやがった! ありゃ、あと数日もしないうちにやらかすぞ! だとしてもこれっぽっちもかばってなんかやるものか! あんな下衆野郎、悪魔に食われてしまえ!」シャルロッテはその
「あいつがお前を放って何してたか教えてやろうか? 俺たちの所有物をあさってやがるんだよ! すでに五人以上が盗まれてやがる! しかもあの野郎、どこに隠したのかおくびにもだしやしねぇ!」
「そ、そんなわけないわ! 変なこといわないで。デリックはそんなことする人じゃないわ。一体どんな証拠があって……」
「黙れ!」アンドレは船を揺るがすほどに叫ぶとシャルロッテの近くの壁を力任せに殴りつけて大きな音を鳴らした。シャルロッテの言葉は的確だった。誰も明確な証拠を握っているわけではないのだ。「それともてめぇはまだあの男の肩を持つって? あの澄ましたまぬけ面にだまされやがって! 大体、てめぇのそれだってあいつに盗まれたんだろうが! そのくせ犯人をかばおうってんだからばかげた話だ! デリックの野郎もさぞ喜ぶだろうよ!」ガサガサした太い指は力任せにシャルロッテの首元に伸びてひびの入ったネックレスをつかみあげた。ネックレスの紐ごと吊し上げられるとシャルロッテの首は罪人みたいに締め上げられてヒュッと喉が鳴った。これ以上首が絞まらないようにシャルロッテは必死につま先立ちになって苦しげに男をにらみつける。
「こんなおもちゃの何がいいんだか!」男はガラス玉をしげしげと見つめて憎たらしげに唾を吐き捨てた。ガラス玉を狙ったはずの攻撃は狙いを外してシャルロッテの胸元に着弾し、それからシャルロッテのことを床に投げつけた。小さな体はなすすべもなく弾き飛ばされてシャルロッテは大きく尻もちをつき、固い木の床に勢いよくぶつかったせいで尻の骨がズキズキと痛む。シャルロッテが胸元についた不快な液を拭い取り、痛む体に顔をしかめると突然背後に気配を感じた。背後にはロウ船長が立っていた。男はシャルロッテの後ろに立つロウ船長をにらみつけてさらにまくしたてた。
「うちの船長もずいぶん甘くなったもんだ! 見え見えの挑発にも黙って見過ごすってか!? いつから俺たちはそれほど高潔な野郎になったんだ? あ? これ以上俺が不利になるようなことがあれば俺は何のためらいなくあいつを撃ち殺すぞ! これは脅しじゃねぇ」
船長は答えるより前にシャルロッテにたくましい腕を伸ばした。なんだかそんな風に気遣ってくれるのが信じられなくて、シャルロッテはしばらく目を見開いて硬直した。三秒もそうしていると船長は
「ハッ、お優しいことで。大体もとをただせばその女が悪いっつぅのによ!」
シャルロッテは男の憎しみすらこもった視線に怯えて肩を大きく震わせた。
「あいつのことは放っておけ」
「放っとけだと!? 今日だって見張り番があいつのことを見たっていうんだ。狙いは明らかだろう! なのに船長は放っておけって!?」
「それは分かってる――まぁ聞け。デリックは確実に風のない今を狙ってくるだろう。逃走の手はずもなしに反抗に及ぶような馬鹿じゃない。風がない以上、小舟にでも乗られたらこの船じゃ追いかけられないからな」
「だったらなおさら四肢でももぎ取ってどっかの部屋に監禁しとけばいいだろ!」
「そんなのひどすぎるわ! そんなの、何かの勘違いかもしれないじゃない!」シャルロッテは男の言葉にぞっとして思わず声をあげた。
その瞬間男たちの鋭い視線が全身を突き刺し、もしもその視線が質量を持っていれば刺し殺されてしまいそうだった。船長もそうだが水夫は水夫で小娘が口出しするのを嫌うのだ。険悪な雰囲気が流れそうになる中、船長は一人でからからと楽しそうに笑った。シャルロッテは愕然とした。この人はなんて豪胆なのだろう。自分の獲物が狙われているかもしれないのにこれっぽっちも慌てふためかないなんて。
「そう急かすな。罰せる機会があるんだったらそうした方がいい。心配しなくたって逃がすようなヘマはしねぇよ」
船長の冷静な言葉に感化されて男たちもわずかに冷静になった。「何か作戦でもあるって言うんですか?」
「明日は倉庫の見張りをなくそうと思っている」
男たちは思い思いに声を上げて船長にかみついた。船長はそれを左手で軽くいなしながら続けた。「俺の見立てだとあと数日は風が出ないだろうが、ろくに海も知らないあいつは罠だとわかってようが十中八九やらずにはいられないだろう。向こうからすればいつこの好機が終わるとも知れんからな。あいつが動かなくても俺に損はない。その時は既存の罪だけで裁く。それでいいだろう」
アンドレは不服と納得の入り混じった複雑な表情をした後思い出したみたいに呆然とことの成り行きを見守るシャルロッテを睨みつけた。
「その女は?」急な指名にどきりとしてわずかに肩をあげた。「その女が今の話をあいつに伝える可能性は? それで奴が逃げ出しでもしたなら……」
船長は今度こそ部下を馬鹿にするように肩を揺らした。返ってきた言葉はもっともなものだった。「不安ならこんなところで喋ってないでボートでも見張りにいくことだな」
男たちは今度こそ冷静になって少女を脅すように睨みつけ、ボートの前で寝ずの番を果たすため甲板に向かった。
この話し合いをそばで聞いていたシャルロッテだけはデリックをいまだに信じていた。「まるでデリックは悪人だと決めつけてるみたいだけど、果たして本当にそうかしら? たしかに最近一人で何をしているのかはわからないし、それにネックレスの件もあるけれど……」
根本的なところでお人好しなシャルロッテはデリックが出会った当初に見せた優しさがまるきり嘘だとはやはり信じたくなかったのだ。
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