10-3
「船長……」その日の夜、船内の全員が集まるダイニングでシャルロッテは意を決して船長に切り出した。遠くの方でバジルが酒を飲みながら呆れたように肩をすくめているのがみえたけれどシャルロッテの意志は固かった。目の前のロウ船長はその呼び方に耳障りの悪い言葉を聞いたとばかりに眉をひそめたが、今日はその程度の脅しで屈するわけにはいかなかった。何しろもっと気分が悪くなるようなことを囁こうとしているのだからこれは準備運動のようなものだ。頼み方は色々考えた挙げ句もっともシンプルなものになった。
「船長、お願いがあります。わたしもこの船で働かせてください」同じテーブルを囲んでいた男たちはすでに
「女が水夫になるなんざ聞いたことねぇ! それも相手はこんなちんちくりんのおぼこ娘だ! 少なくとも女になる痛みくらい経験してから出直してこいよ! そうすりゃ、誰かの愛人枠になれるかもしんねぇ! 言っても器量よしって顔には見えねぇけどな」
「それともそんなフォークしか持ち上げられない体で仕事が勤まるって!? そいつはいいな! よし、そういうことなら俺が相手になってやるよ! 俺は女だって父親の前で殴れるぞ、さぁ立てよ。俺のことをのせるっていうなら認めてやってもいいぜ!」
「おい、待て! モーリス! 俺は絶対に認めねぇぞ! 殴り合いしたいだけなら上で勝手にやれよ!」
男たちは思うがままに発言してもはや収拾がつきそうにない。あちこちで意見の対立が起こって男たちはそれぞれの胸ぐらをつかみあげて今にも殴り合いが始まりそうだった。だが、どれもこれも反対していることに違いはない。
「一回黙れ」ロウ船長は荒れ狂う男たちを一喝してそのままシャルロッテを睨んだ。その瞳はいわずもがな警戒心に満ちあふれている。「シャルロッテ、いったいどういう風の吹き回しだ? さっさと話せ」
「そんなの決まってる!」男たちはシャルロッテのか細い声なんてまるきりかき消してしまうほどの声量で身振り手振りをさらに大きくした。「今更になって倉庫の宝が惜しくなったんだ! そうに違いねぇ! それともまた性懲りもなくあの男にそそのかされたんじゃねぇのか!? 毎日飽きもせずにあいつのところに通い詰めてるのは間違いないんだからな! おい! てめぇ、なんとか言ってみろよ!」
その言葉に男たちの警戒心は自然と高まりを見せ盗人に向けるような、一挙手一投足を監視するような視線がシャルロッテに注がれた。シャルロッテはその不名誉を振り払うみたいに大きな声をあげた。
「違うわ! あんなもの、これぽっちも興味ないわ! あるものですか! それにデリックだって無関係よ! 彼の看病をしているのは知ってるはずでしょう?」
「だったら何だってんだ!? てめぇが最近妙に俺たちのことを嗅ぎ回ってるのだってどうにかして倉庫に潜り込もうっていう算段だろうが!」
「だから違うって言ってるじゃない! 大体そんな義理のないことたとえ思いついたとしたって恥ずべきだわ。わたしはただ――」シャルロッテはわずかに息を吐いた。いったいどうして自分はこれほど躍起になっているのだろう? たしかに役に立ちたい気持ちはあるけれど、それにしたって自分の命までかけるのは少しやりすぎな気がする。たしかにここまで何事もなく運んでもらった恩はあるけれど、その分散々な目にもあってきたではないか。
シャルロッテは少し戸惑ってから控えめな声でつぶやいた。先ほどまで男に負けないように引きつった喉で無理に大声を出したせいで声が喉にひっかかるような気がした。「わたしはただ皆さんの助けになりたいだけです……。それ以外の気持ちなんてこれっぽっちもありません」それは嘘偽りない本音だった。これ以上の言葉は見つかりそうにもない。シャルロッテはただ好きな人たちに喜んで欲しいだけなのだ。その本能のような根源的な欲求の理由を説明するには彼女はまだ幼かったし、船乗りたちは決して信じようとしなかった。
シャルロッテのか細い声は男たちの声でかき消された。はなから男たちは聞く耳を持っていなかった。倉庫に無断で出入りする権利を得られるのも信用ならないが、たとえどれほどシャルロッテが無実を証明し続けようと、この最終盤で頭数が増えて報酬が減るのを何よりも嫌がったのだ。男たちは悪魔のような剣幕でシャルロッテの胸ぐらをつかみあげた。
「そんなわけねぇ! 強欲じゃねぇ女なんて存在しねぇんだからな! ましてやそれが没落貴族っていうならなおさらのことだ!」
「そうだ! あれに手を出したらてめぇも血祭りだ! いや、構わねぇ! 今やっちまえ! 悪事を企んだ時点で同罪だ!」男たちの熱気はますますすさまじいものとなってもはや誰かが死にかけなければ事態の収拾がつかないまでに膨れ上がっていた。
そんなとき不意に船長の場違いな笑い声が響いた。「助けになりたい、か! ずいぶんと傲慢な話だな。それに考え得る限り最悪の言い訳に違いない――まぁいい、座れ」船長は自分の正面の椅子を蹴って示した。その言葉には有無を言わさないものがあって、シャルロッテはおずおずと大柄の男たちの間を抜けて丸椅子に腰を下ろした。その間にも船乗りたちの鋭い視線が全身に突き刺さりなんとも居心地が悪い。「さっきの調子で喋るなら話だけは聞いてやろう」
机越しに向かい合ってみてもロウ船長の心はどちらに傾いているのかまるで見当がつかなかった。少なくとも話を聞いてくれるということは面白く思ってくれているのだろうか? 黒い瞳は楽しげに、だが一定の威圧感を持って細められ、それが好奇からきているのか残虐からきているのかはっきりとは分からなかった。
「それで自分には何ができると思い込んでるんだ?」
「それは……」シャルロッテは言いよどんだ。「力仕事はできないかもしれないけど、料理番とか清掃とかならきっとわたしにでもできます。少し教えていただければ……きっと……」
「あいにくその役割は足りているな」ロウ船長が言い終わるなり水夫の激しい声が響いた。
「それにもっと似合いの仕事があるぜ! 愛人に娼婦だ! 男を喜ばせたいってならこれ以上の手はないだろ。それに向こうで客をとる練習にもなるじゃねぇか? その上、没落貴族ときたらかなり人気がでるだろうよ!」
シャルロッテは男の言葉を無視して奥歯を噛みしめた。おそらく船長はこちらが一歩でも逃げる素ぶりを見せたら二度と話なんて聞いてくれないだろう。少なくともその黒い瞳が注がれている間は、彼の質問に答える義務がある。
「それじゃあ……ピアノ……いや、歌は?」
「貴族どもの間延びした歌なんて聴きたくねぇな!」
「だったら、聖書の朗読は? いくらかは暗唱できます」男たちはわずかに心を動かされたようだったが、この小娘に朗読ついでに説教されると思うと途端にいらいらしてすぐに却下した。しかし根気強く食い下がった成果がすぐそこまで現れていた。
男たちはシャルロッテがただ健気に何の悪意もなく自分たちに尽くしたいと思っているのではないかと感じ始めていた。しかし彼らからすればその理由が謎だった。
そのとき、男たちが揉めるテーブルの背後でバジルの声が響いた。
「そこまでいうならいいじゃねぇか。俺は一票入れてやるぜ。その代わり説教はごめんだ。俺の半分しか生きてないような小娘に講釈を垂れられるのは耐えられねぇ。司祭だろうが耐えられねぇがな」
「だったら何をさせるって? ただ飯食らいに報酬なんて払ってたまるかよ」
「それを考えるのは俺じゃねぇだろ」
例の奇抜な衣装は多少色落ちしたとはいえどこにいても目立った。彼に目線をくれると図らずともシャルロッテの脳裏に一筋の光明が差した。
「分け前はいりません。わたしは無事に送り届けてもらうだけで十分です。その代わり皆さんの洋服を繕わせていただけませんか? もちろん他の物も必要があれば繕います。わたしもこの船に命を委ねたいの。わたしだけ助かるなんて絶対にいやよ」
ロウ船長は煙草を喫しながら喉の奥で低く笑った。「まるでプロポーズだな」
シャルロッテは茶化されて頬を赤く染めた。船長がいかめしい顔を緩めたのを見る限り、ひとまず彼はシャルロッテの頼みを受け入れるつもりになったようだった。それから船員たちもいつの間にか硬い表情をやわらげていた。男たちからしてもシャルロッテの申し出はありがたかったのだ。それに彼女の真剣な態度にも心を打たれた。中にはアンドレのように絶対に認めようとしない男もいたが、過半数以上が同意しているのは明白だった。船長は男たちの顔をざっと見回して、合意がとれたことを確認すると腰に差したナイフを机に突き立てた。
「ペンなんて高尚なものは持っていないからな」
それからロウ船長はナイフで机に文字を刻んだ。机の上に大きな字で〝シャルロッテ・ビリーには船に尽くすことを命じる。その対価として無事に送り届けると保証する〟と、書き加えると船員たちは寄せ書きのように思い思いの位置に自分の名前を署名した。最後にシャルロッテが船長から受け取ったナイフでたどたどしく名前を刻むと意味もなく歓声が沸き上がった。茶色の机にはびっしりと船乗りたちの名前が刻まれ、まさしく圧巻の光景だった。ナイフを突き立てながら書いたものだから、どれもこれもひどくガタガタした筆跡だったが水夫たちの文字は一様に力強かった。シャルロッテはその中の自分が刻んだ薄く細い文字をなぞって口元に柔らかい笑みを浮かべた。これで水夫たちと同じ立場になれたと思うとうれしくてたまらなかったのだ。
「おい、シャルロッテ! これからはゆっくりと眠れると思うなよ! 直さねぇといけないもんは山のようにあるんだからな」
「望むところだわ」
その後シャルロッテはデリックの元へ向かった。もし起きているのならこの喜ばしい出来事を報告しようと思ったのだ。しかし何度部屋をノックしても反応はない。きっと寝ているのだろう、それなら食器だけでも回収しようと思いそっと扉を開けてシャルロッテは悲鳴にも似た引きつった声をあげた。心臓が飛び跳ねて頭からサッと血の気が引いた。
「船長、デリックが――!」
デリックは床でうつ伏せになって倒れていた。
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