10-2

 それからというものシャルロッテは船の業務にも興味をもって果敢に首を突っ込もうとした。日々の帆張りから操舵、それから清掃に至るまで――しかし船の男たちは世間知らずの少女よりもずっと警戒心と縄張り意識が強かった。シャルロッテが自分たちの領分に踏み込もうとすると船乗りたちは全身の毛を逆立てて激しくまくし立てた。

「おい、てめぇ! それに指一本でも触れて見やがれ! その指ごとへし折ってやる! それとも内蔵を引き裂いてやろうか!?」

 シャルロッテは親切心を邪魔されてつまらない顔をしながら手にしたロープを放した。なぜだか今日はいつもならしっかりとぐろを巻いて甲板の縁にかけられているロープが散乱していたのだ。さすがに帆や舵といった見るからに重要そうな部位にまで無断で手を出すつもりはなかったが、この程度なら触っても許されるだろうと思った矢先の出来事だった。

「別に邪魔しようってわけじゃないわ。ただ――」マルセルはれて舌打ちしながらシャルロッテのことを突き飛ばした。「ちょっとくらい話を聞いてくれたっていいじゃない。今朝からずっとこのままだったでしょ。今日はなんだか忙しそうだったから……」

 男は黙れとばかりにシャルロッテをにらみつけると慣れた手つきでロープを直径五〇センチほどの円にぐるぐると巻いて甲板の縁にかけた。

 それを見たことによってシャルロッテはますますふてくされた。

「そのくらいわたしにもできたわ。――きっと」

「あ? てめぇみたいなやつに何ができるってんだ? 縄の結び方も帆の開き方も、畳み方も何も知らねぇやつがよ! これはガキのおもちゃじゃねぇんだぞ」

「何ができるかなんてやってみないとわからないわ」

「いいや、何もできねぇ」マルセルははっきりと切り捨ててシャルロッテの腕をきつくつかんだ。彼がここまで荒々しいのも珍しい。「大体こんな非力な体で何ができる? 体力もなけりゃあ、学があるわけでもねぇ。長生きしたいならいい加減身の丈を知ることだな」

「あとから入った上に盗みまで働いたデリックには仕事を任せられるのにわたしは物を拾うだけでここまでいわれないといけないのね」

「そんなこと誰かに命令されたのか? いいか、これは仕事だ。報酬をもらう以上紙面通りに働く義務がある。てめぇはただ陸を追われた馬鹿なねずみでしかねぇんだ、たまたま同じ船に乗り合わせただけの家畜だ! それから乗組員は全員てめぇの飼い主でもある。いいか、命令されたこと以外やるんじゃねぇ」

「あなたたちの一味に加わったつもりはないし――だとしたって上官は船長……ロウ船長だけだわ」

 シャルロッテはやるせない気持ちを抱えて船橋につながる階段を駆け上がった。捕まれた腕は指の形に赤くなり鈍い痛みが走ったけれど何よりも痛いのは心だ。助けになりたい気持ちは嘘ではないのに、どうしてこうも受け入れてもらえないのか理解できなかった。両目に浮かんだ涙によって視界が滲んだ。舵を握ってのんきに口笛を吹いているバジルにはこんな顔見られたくなくて意図的に顔をそらしたけれど、そんなこと彼には関係なかった。男はシャルロッテの腕をつかみあげるとまるで彼女が何マイルも先にいるみたいな大声を上げた。

「よぉ、シャルロッテ! また泣かされやがったのか? ただでさえひどい顔がさらにひどくなりやがる! その両目がしっかり機能しているところなんざ一日にほんの数秒しかねぇな。まぁ、どちらかというとそっちの方が人気らしい。俺が聞いたところな」

「そんなの――何の慰めにもならないわ。どうやらあなたのお仲間さんはわたしのことをその辺のドブネズミと同じにみえてるらしいもの」

「見たところ尻尾は生えてないみたいだけどな。こりゃつまみ出すのも苦労するぜ!」

 男はシャルロッテの尻を叩いた。軽薄な動作にシャルロッテは少しむっとしたけれど、今更その程度のことで腹をたてても仕方ないと思い直して階段の最上段に腰掛けるとフェンスにもたれかかった。ここから見ると先ほどのいさかいの場所がさらによく見えた。

「わけがわからないわ。わたしってあの程度もできないと思われてるの?」

「許してやれよ。貴族なんて懐が広くてなんぼのもんだ」

「もう貴族じゃないけど」シャルロッテはますますふてくされた。そんなことまるで何世紀も過去の話をされているみたいだ。

ってやつだろ? いい身分じゃねぇか、え? 大体、俺たちにとっちゃ、貴族も没落貴族も大して変わんねぇよ。どっちも鼻についてきなくせぇからな」

「そうかもね」頬杖をつきながら素っ気なく返すとバジルは天を見上げながら大きく笑った。いつもそうなのだが、シャルロッテがへそを曲げたり悔し涙を流したりするのが水夫たちにはたまらなく面白いらしく決まって上機嫌になるのだ。いわく、泣かせがいがあるとのことだ。

「機嫌悪ぃな。ま、酒でも飲んで忘れるこった。それとも俺がありがたい助言でもしてやろうか?」

「助言?」シャルロッテは顔をあげて聞き返した。 

「ああ、そうだ。何しろてめぇにはこれの借りがあるからな。陸に渡ってから全財産でも請求されたらおっかねぇ! できるだけ海上で清算しちまいたい」

 バジルは自分の風変わりなシャツを指し示しながら言った。何かを求めてやった訳ではなかったが男の助言という言葉も気になった。シャルロッテがバジルを見上げて首をかしげると男はとくとくとして話し始めた。

「いいか? 一番簡単な方法はな、今から俺の腰に刺さったナイフで指を傷つけてあの紙に――わかるだろ? あの掟が書いてある紙だよ。船長室の前に張り出してあんだろう? あれはあんな感じで張り出されてる割に機密書類なんだぜ。いや、本当だ――仕事がしたいってならあの紙に今すぐ血でもインクでも名前を書けばいいんだ。なんたってあれは契約書なんだからな。まぁ、正確にいうなら船長の許可が必要だが……」

 シャルロッテはその言葉を聞いてハッと息を飲みにわかに立ち上がった。たしかにあれが仲間の証だというのなら男のいうとおり今すぐにでもあの古びた紙に名前を書き連ねればいいだけだ。そうすれば少なくとものけ者にされることはなくなるだろう。

 今すぐにでも船長室に向かおうとするシャルロッテをみて男は「だがな……」と、ゆっくりと続きを口にした。「俺はこれっぽっちもおすすめしないな」

「どうして?」

「もしもあのキザったらしい英国海軍にでも捕まったら俺たちは間違いなく処刑されて晒し首だ! わかるか? 晒し首だぞ、わざわざ首を切り落としたあとで槍をに突き刺して船着き場に飾るんだ。頭が腐りきって蛆も湧かなくなるまでな」男はシャルロッテの首の根元を指ではじいて示した。「とはいえ俺は船着き場の飾りになるのは構いやしねぇんだ。そのくらいの覚悟はある。大体、死んだあとに肉体がどうなろうが、とにかく毎朝の祈りは欠かしたことがないからな。魂の方は救われるに決まってる。たとえ三人を殺していようと、だ。ただ唯一気にくわねぇのは同業とそれから馬鹿な貴族どもが俺の首を指さして笑うってとこだ。そこにてめぇの頭も飾られるって想像してみろよ。並の神経じゃ耐えられないってもんじゃねぇか?」

 それを想像すると首の後ろが電流でもながされたみたいにうずき始めた。

「この船に乗ってるとな、夢見がちなガキがさんざ頼み込んでくる。だから俺は毎回この話をしてやるんだ。持ち上げられるのなんてほんの一瞬で最後は誰よりも惨めっつぅのが船乗りの宿命だ。墓も用意されねぇで惨めに腐る覚悟がないならさっさと失せろってな。――で、俺が見る限りてめぇには向いてねぇよ。何も悪意でいってるわけじゃない」

 彼の言葉には一定の説得力があった。それにたしかにそこまでの覚悟があるとはすぐには断言できないのだ。

「で、でも……この船に乗ってる以上それは同じなんじゃないの? わたしだっておとがめなしってわけにはいかないんじゃない?」だったら本当に仲間に加わろうが何も変わらないではないか、という意味で口にしたのだがバジルは違う受け取り方をしていた。

「ここまできてこの船に乗ったことを後悔したか? てめぇも道連れだと言ってやりたいところだがまずそうはならねぇいだろう。まぁそうだな、むしろ悲劇のヒロインとしてもてはやされたっておかしくねぇな――いいや、冗談じゃないぜ。俺らが海軍に捕まりそうになったらまず何をすると思う? まずあの紙を燃やすか引き裂いて海に沈めるか――とにかく何が書いてあったか読めねぇ状態にするな。そうすりゃ、運がよければ晒し首だけは回避できるかもしれねぇ。俺が自主的に協力してるか強制されてるのかなんてあれさえなけりゃわかんねぇだろ? もちろんにっちもさっちもいかないようならさっさと逃げちまうがな」

「仲間を裏切るの? 船長を売るっていうの?」

「水夫の絆なんてそんなもんだ。俺は女房とガキのためにも長生きしないといけねぇし、何より船長は乗組員を安全に目的地まで運ぶのが仕事みてぇなもんだからな。海軍に捕まってる時点で勤務怠慢ってやつだ。まぁ、だとしてももしまた生きて仲間と会えたらからっとした顔で同じ船に乗るだろうし、首を見つけたら頭に酒でもかけてやるよ。なんだかんだ長い仲だしこの船の連中は気に入ってんでね」バジルは酒をあおって続けた。

「シャルロッテ、要はてめぇは人肌恋しいんだ。だがどれほどの聖女さまだろうが陸に帰って数週間もまともな生活をしてみろ。こんな悪夢みたいな時間すぐに忘れるだろ。それに時期も悪いぞ。長旅もそろそろ終盤だ。このまま風さえ吹き続けりゃ、俺たちは少なく見積もっても一週間後には新大陸ってわけだ。これは船長から直接聞いたから間違いない。そんな中でわざわざそんなリスクをとるのも馬鹿らしいっつうもんだろ。万が一海軍に捕まろうが、今の状況ならおまえだけは間違いなくだ」

 シャルロッテはわずかに緊張しながら男の顔をのぞいた。果たしてこれほど太い首をどうやったらきれいに切り落とせるのだろう。断頭台の凶暴さをもってしたってそんなこと到底不可能に思える。

 シャルロッテは改めて二ヶ月以上の時間を共にした人たちが頭だけになって人目につく場所に晒される場面を想像してみた――自分だけは何事もなかったみたいに生き延びてその光景を群衆にまじって観察する場面を。だとしたらなんて恩知らずな女だろうか? それはなんだか自分が晒し首になるよりもよっぽど恐ろしく感じた。

「怖くないの?」

「怖くはねぇな。ただ不愉快なだけだ」

 シャルロッテは自分の両手を強く握りしめた。

「わたしだって怖くないわ。それに望むなら船着き場に彩りを添えてあげる。知らないだろうけど、わたしって案外頑固なのよ」

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