10章
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それから何日かしてようやく風が戻ると船はますます生き生きと活気づき、船員たちは気張って帆を張り、声を張り上げて日々の業務にいそしんだ。シャルロッテの仕事はデリックの傷の様子を確認して海水で傷口を清潔にして包帯を巻き直すことだった。
あの激しい宴会の翌日、デリックは四十度というひどい高熱を出してほとんど一日中目を開けなかった。鞭打ちの傷に病原菌が入り込んだ上、ほぼ半日、上裸で厳しい太陽に身を焼かれたせいで日射病にかかったのだ。時々うなされているのか傷が痛むのか低いうなり声をあげるが傷のせいで満足に寝返りも打てなかった。食事はまったく喉を通らず、あと数日でもこんな様子が続くのならそのまま死んでしまうのではないかとシャルロッテは恐怖に震えた。自分だって二日酔いで頭が割れてしまうほど痛かったし、延々と吐き気が襲いかかったが、その日は丸一日つきっきりで様子を見守った。船がとまっているのが幸いだった。もしここに船酔いまで襲いかかったらきっと看病どころではなかっただろう。
シャルロッテの祈りが通じたのかそれとも彼の日頃の行いがよかったのか、幸いにも熱はすぐによくなった。とはいえ傷の方はまだまだ不安が残る。最初の数日よりかは赤みが引いてマシになったとはいえ、肌が裂けた部分はじゅくじゅくとして常に臭くて透明な液体が分泌され、体の至る所で傷が膿みはじめていた。それにシャルロッテは誰にも報告しなかったけれど容体は日に日に悪くなっていくような気がするのだ。
それでも船長は容赦なく、風が吹き始めるなり他の船員たちと同じように仕事に参加させた。デリックは痛む体を引きずるせいでただ船を行ったり来たりするだけで男たちから遅れをとった。ましてや荷物を運んだり帆を張ったり畳んだりなんて作業はやらせるだけで苦悶の表情を浮かべた。筋肉を動かすたびに内部から傷口をいじくられるみたいな激痛が走るのだ。ましてや薄い包帯と洋服越しに麻縄が傷口をえぐりだすともうどうしようもない。
船員たちはそんなデリックを見かけるなりケラケラと小馬鹿にして笑い、その扱いは彼のプライドをかなり傷つけた。それに内心で見下しているシャルロッテに一日中付き添われて看病されるのも耐えがたい屈辱だった。彼女はここのところ毎日デリックの後ろをついてまわった。彼がいつか海に落ちるのではないかと思って気が気でなかったのだ。だが、それについてデリックは口をつぐんで何も言わなかった。
「まったく馬鹿がつくほどのお人好しで甘っちょろい女だ。だがこの女がそういう性質で本当に助かった。さもなければ本当にあっさり死んでいてもおかしくなかったからな……この女のせいで地獄をみたがやはり女神には変わりなかったってことだ」心根はまるで変わらなかったにしろわずかながら感謝の念はあった。「とにかくこの女から何かを盗み出そうとするのはやめだな。まったく今思い返してみれば――俺としたことが――分の悪い賭けもいいところだ」
船が順調に進み続けるある日のこと、シャルロッテがいつもの看病のためにデリックの部屋を訪れると彼はまだベッドの中だった。ぐっすりと眠っている彼を起こしてまで包帯を取り替えるのもしのびなくて、シャルロッテは海水の入った
「軟こうみたいな塗り薬でもあればいいんだけど。それか薬草でもあれば……せめてうなされずにぐっすり眠れていることを祈るばかりね。回復に睡眠が必要なのは間違いないもの」
窓の外を眺めると東の空がかすかに白んでいた。船長や船員が起き出すのは真っ赤な太陽が顔をだしてからだからあと三十分は寝られるだろう――と、シャルロッテは軽くあたりをつけて、机の上に置かれた茶色の服に目を向けた。
洋服はすり切れてボロボロになり、ところどころにぽっかりと穴が空いて糸がだらりと垂れ下がっている。シャルロッテはそれを膝に置いてまじまじと見つめた。こんなものほとんど洋服として機能していない。よく見てみれば何度かつぎはぎを当てた跡があって部分によって色が異なっている。
シャルロッテはそれを見て退屈な待ち時間をこの服の補修にあてようと決めた。 客室に置いてきた刺繍道具を取りに行くために部屋を出るとちょうど当直のバジルが帰ってくるところだった。夜通しラムを飲んだせいで顎の両側がひどくむくんでいた。
「今日も早ぇな、嬢ちゃん。勤勉で素晴らしいこった!」眠たそうに伸びをして大きくあくびするその服にはやはりぽっかりとした穴があった。「水桶は一人で引けるようになったのか? え? ああ、それと昨日はずいぶん運がよかったみたいだがな、あんなのたまたまだ! あんな豪運が毎日続いてたまるかってんだ。貴族よりも賭博師の方がよっぽど向いてやがるぜ。向こうではそれで食っていった方が良いんじゃねぇか?」
「女の賭博師なんて聞いたことないわね。そんなのお断り」
「なぁに、男装でもすりゃあばれやしねぇよ」
「それにわたしきっとお針子とかの方が向いてると思うの。ちょうど今からデリックの服も直すところだったのよ」それからシャルロッテは腕に抱えた彼の服を示した。「もしよければなんだけど、バジルさんの服も一緒に直してもいいかしら。そのくらいならすぐに直せるわ」
「俺の一張羅で練習とはなかなかいい度胸だな! いいぜ、貸してやる。その代わりひどい出来だったら覚悟しやがれ! そのときはこの間のデリックとおそろいの目に遭わせてやる」
そんなわけでシャルロッテは二人分のシャツを預かると自分のドレスの切れ端をあててぽっかりと空いた穴をきれいに縫い上げた。我ながら縫い目はかなり均等で布もしっかりと固定され、少し引っ張ったくらいではびくともしない。きっとこれなら海上での過酷な使用にも耐えられるだろう――けれど布の色にまで気が回らなかったのは大失敗だった。
預かったシャツはどちらも土色だというのに使った切れ端が群青色だったせいで仕上がったシャツはかなりコントラストが効いた形に仕上がって、シャルロッテはそれを見つめて顔を引きつらせた。まるでシャツはそこだけ次元が違うみたいだった。
二人にこの完成品を手渡すときの緊張ときたら計り知れないものがあった。デリックは起き上がるなり奇妙な色味に様変わりした自分のシャツをまじまじと眺めて彼女を横目で見た。実際はそこに非難の色はなかったが、シャルロッテは罪悪感から睨まれたような気がして「勝手に触ってごめんなさい……気に入らなかったらはぎ取っても構わないから……」と、慌てて言い訳した。
もしデリックがいつもの悪夢と傷の痛みで寝不足だったなら言葉の通りに――もしかするともっと彼女に傷を植え付けるような形で――シャルロッテの努力を引き裂いて悦に浸ったかもしれない。
しかし今日は夜中に目を覚ますこともなく朝までぐっすりだった。寝起きにわざわざ意味のない嫌がらせをするつもりにもならず、その上、袖を通してしまえば穴のないシャツというのはかなり快適で、今更自らの手で穴を開ける気にもならないというものだ。
シャルロッテはデリックがシャツを着て外に出て行くのを見届けてからようやく安心して肩の荷を下ろした。これで半分だと思うと気が滅入る。もう一着をバジルに返却するときにだって、シャルロッテは意中の人にプレゼントを渡す乙女くらい長い口上を使って――どんな過激な反応が返ってくるかと嫌になりながら――おずおずとシャツを差し出した。もちろん言い訳も添えながら。
「本当はもっと似た色の布があればよかったんだけど……包帯には手を出したくないし、今はわたしのドレスを使うしかなくて――」
けれど返ってきた言葉は意外なものだった。
「いうほど悪くねぇ。血色の悪い牛か――あの、あれだ――パナマにうようよと湧いてた毒ガエルみたいな色じゃねぇか! いや気に入ったぜ、俺はな! あんときはあの毒ガエルがそこかしこを飛び回ってやがったんだ。そんであの馬鹿、俺のラムに飛び込みやがってな。すっかり酔っ払って泳ぎ方も忘れやがった! 俺はそのラムをすっかり飲み干して――まぁ、毒があるのは知ってたんだ。そんな強くないってこともな。そう聞けば度胸試しがしたくなるってもんだろ? この通り死にやしなかったが、あまりおすすめはしねぇな。何しろきつい幻覚がみえるんだ。まぁなんだ、とにかくなかなかやるじゃねぇか。いい針子になれるぜ!」
男の態度からそれをかなり気に入ってくれたことは明白だった。いつになく上機嫌に語る男を見ながら、なんだかシャルロッテは安心の他に胸のあたりが自然と暖かくなるのを感じた。
「喜んでくれてうれしいわ」シャルロッテは照れ笑いを浮かべながら答えた。
「ああ、きっとじきに大忙しになるんじゃねぇか? 誰だって好んでおんぼろのシャツを着てるわけじゃねぇしな。俺らに足りないのは先見性ってやつだ。どれだけ稼ごうが陸に戻れば一ヶ月もしないうちに一文なしだからな――ま、賢いやつもいるにはいるが……」
何か言いかけたところで甲板の方からバジルを呼ぶ声が響いて話は尻切れになった。シャルロッテはその風変わりな色味の後ろ姿を目で追いかけた。「なんだか変なの。まさかこの船の上で人に褒められたり……ましてや必要とされたりだなんて思いもしなかった。それにこれほど気分が上向きになって……できることならもっと助けになりたいだなんて。少し前からなら想像もできなかったわ」
それは奇妙な心境の変化だったけれど不思議と心地よくて、シャルロッテはすぐにその変化を受け入れることにした。本人は気がついていないけれど、彼女はもうすっかりこの船と荒々しい海の男たちのことを愛してしまっていたのだ。見た目こそ恐ろしくて言動も目を覆いたくなるほどひどいし、海賊行為だってとても許せたものではないけれどだからといって悪魔ではない。話してみれば案外面白いところもあるし、同じようなことで笑ったり怒ったりするのだ。それに何より今だけはこの広い海を渡る無二の仲間だ。そんな彼らの力になりたいと思うのは考えてみれば至極当然のことだった。
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