9-2

 マルセルがシャルロッテを呼びにきたのはすっかり太陽が沈んだころだった。

「たった一五〇発にずいぶん時間がかかるんですね。もちろん少ない数ではありませんけど……多すぎるってわけでもないわ」

「さては今まで鞭で打たれたことがないんだな。さもなけりゃ、そんな悠長なこと言ってられねぇだろう」

「寄宿学校で二回だけ経験があります。木の枝みたいな鞭で十回くらいのものでしたけど……」それでも肌が真っ赤になって二度とこんなことするものかとひどく反省させられた。シャルロッテの告白にマルセルは階段を上りながら馬鹿にして笑った。

「そんなのは鞭打ちじゃねぇな! ちょっとなでられたくらいのもんだ! 大体、てめぇを鞭打ちしたのは女だろう。そういうところで女と男は決定的に違うんだ。喜んで血を見たがるところがな。今日だって真面目に数えたら千はくだらねぇだろうな!」マルセルははデリックの痴態を思い出して肩を小刻みに揺らして笑った。「知りてぇなら教えてやろうか? なんせ俺は今気分がいいんだ!」

 酔っ払った男の話をまとめる限り、どうやらデリックは相当ひどい目に遭わされたようだった。話を聞くだけでも頭が痛くなって血の気が凍った。

 一五〇という数を数えるのは打ち手でもなければデリックでもなければ、ましてや天でもない。その場にいる観客が適当に数え上げるのだ。そして観客となる船員はとことんまでに意地悪で見ていなかったとか誠意が感じられないとか訳のわからないいちゃもんをつけてなかなか数を進めようとはしない。打ち手は時折交代して疲れ知らず。そのせいでデリックは約束の何倍も鞭打ちされることになった。

「ありゃ久々になかなかにいい見世物だったな。それに体力だけは大したもんだ。大体途中で気絶して海水をぶっかける羽目になるんだが――おかげで俺が三杯もぶっかけて消毒してやったんだ。おい、これからあいつに会いに行くんだろ? 正気じゃねぇな。あのままマストに吊しておいたって誰も文句は言わねぇよ。まぁ、なんだって俺には関係ねぇ。ああ、そうだ。もし指一本でも触れられたら――いや、触れられていなくても、だ! ――すぐに報告しろよ!」男は上機嫌で腹の底から笑いながらシャルロッテの肩を押した。「そしたら今度は半殺しじゃなくて虫の息まで痛めつけてやるよ! 二度と女と目を合わせられなくなるまでな!」シャルロッテは階段を上ってついにデリックと再会を果たした。

 彼はマストに吊されたままぐったりとしてうなだれていた。両腕は自分の重さがすべてのしかかるから紫色にうっ血して縄が体に食い込んでいる。体には千回を超える鞭打ちの痕がしっかりと刻まれていた。背中側もお腹側も全体的に真っ赤に腫れ上がり、いたるところに青あざがみられた。所々には血がにじんで赤と青のコントラストがますます痛ましい。それになぜだかは考えたくもないけれど、腕や手のひらといった場所には小さなやけどの痕があった。最後に消毒と称して頭から海水をかけられたせいでデリックの栗色の髪は濡れて額から首筋にゆっくりと液体が流れていた。

 デリックはシャルロッテが視界に入ると彼女のことを気持ちだけにらみつけてまた深くうなだれた。痛みなく動かせるのは両目だけでそれ以外を動かそうとすると全身に激痛が走るのだ。

 あまりにも痛ましい光景にシャルロッテはしばらく呆然として、それから震えを押し殺しながらゆっくりとデリックに近づいた。このままここに放っておくだなんて冗談じゃない。

「ちょっと待ってて……今外すから」シャルロッテは苦戦しながらデリックを縛り付けている縄に手を伸ばした。男たちの強靱な力で結ばれた縄はまるで鋼でできているみたいにびくともしない。最終的にシャルロッテは強引に爪を滑り込まして力ずくで縄をほどいた。両手の爪は先端が折れ、その上摩擦でガサガサになったけれど、そんなこと気がつきようもなかった。

 デリックは支えを失ったその瞬間膝から崩れ落ちてその場に倒れ込み、甲板に傷があたって地を這うようなうめき声をあげた。

「下で手当てするわ。えっと……」シャルロッテはデリックのことを上から下までじっと見つめた。見れば見るほどひどい。「その、動ける?」

 傷だらけのデリックに手を伸ばすと彼はその手を払いのけ、軋むような体を強引に動かしながらよろよろと立ち上がった。態度とは裏腹に顔はすっかり憔悴しきっている。

 デリックは一歩歩くたびに地獄の苦痛を味わっているようだった。部屋に向かうために通りがかったダイニングでは男たちがふらふらと歩くデリックを指さして蛮族のような笑い声をあげた。

「おい、シャルロッテ! そいつの手当が終わったらこっちに混じれよ! 何しろ今日一番の立役者はお前なんだからな!」

 シャルロッテはデリックのことを自分の部屋に案内してベッドに座らせた。さすがに今のデリックに何か企みをする気力はなさそうだが、昨日の今日ということもあって扉は開けたままだ。外からは男たちのやかましい声が響いている。そんな賑わいとは正反対に二人の間には一つの会話も存在しなかった。シャルロッテがようやく縫い上げた包帯を体に巻くかすかな音だけが響く。時折予期せずに傷口に指が触れるとデリックは小さく舌打ちをして痛みに顔をしかめた。

 処置が終わるとデリックは傷をかばうようにしながら深い眠りについた。きっと目を覚ましたときにご飯があった方がいいだろうと思って、シャルロッテはそれを見届けてからダイニングに向かった。いつもの通りできるだけすぐに撤退しようと思ったシャルロッテのもくろみはすぐに失敗した。彼女が一歩足を踏み入れたその瞬間、普段は見向きもしない男たちが一斉に顔をあげた。

「よぉ、シャルロッテ! まぁ座れよ。逃げようだなんて思うんじゃねぇぞ! なんたって今日に限っちゃ脅かそうってわけじゃねぇんだからな」

 そのまま肩に手を置かれて強引に座らせられるとシャルロッテはうろたえて思わず表情が凍った。見るからに上機嫌ではあるけれど果たしていつ機嫌が変わるかもわからない。多少は慣れたとはいったって海の天候ほどに変わりやすい彼らの情緒にはまだ戸惑いがある。

「でも……わたし……」

「まぁそういうなよ。俺は今気分がいいんだ。今日ばかりはうまく体を使えば分け前を総取りできるかも知れねぇな! どこぞの誰かさんがそうしたかったみたいによぉ!」アンドレは酒を豪快にあおった。「いい加減このくらいの冗談は受け流せよ。いや、つまりな、今朝は悪かったな。あの野郎、途中でとうとう盗んだ品物の隠し場所を吐きやがったんだ! さっさと吐けば終わるとでも思ったんだろうな――ま、そんなに甘ちゃんばっかりじゃねぇ!」どうやら男もさんざん鞭を振るったみたいで右の手のひらの皮がわずかにむけていた。

「それで見つかったの?」

「それに関しちゃあ、この通り!」アンドレは机の上に銀でできたロケットを叩きつけた。「あとは薄い財布も帰ってきたが――まぁ、そっちははした金だ。これさえ戻ってくるならあの程度譲ってやってもいいくらいだ」

 銀のロケットは表面にくすんだ膜が張り鈍い輝きを返した。彼は柄にもあわず、そんな輝きすら愛しいとばかりに指先で周囲をもてあそんだ。はたから見ても彼がこのロケットを構成する銀以上の価値を見いだしていることは明白だった。アンドレはその中に収められた妻と三歳になったばかりの子供を眺めて愛しげに笑った。その表情はただの父親の顔で、シャルロッテは突然ドキリとさせられた。

「船乗りっていうのは恐ろしい悪魔みたいな生物だとばかり思ってたけれど――陸には別の生活があるし待ってる人がいるのね」それは斬新な発見だった。この船に乗る男たちが得体の知れないならず者の大悪党から自分となんら変わらないちっぽけな人間に見えてくるくらいには。アンドレはシャルロッテの心境の変化に気がついて急に普段の不機嫌な顔つきに戻った。

「話は終わりだ。とっとと失せやがれ。どうせ今日も部屋から出てくるつもりはないんだろ? さすが深窓の令嬢っつったところだ!」

 言葉はいつも通り乱暴だったがなぜだか今まで感じていたみたいな恐怖はなかった。そもそも今まで何を恐れていたのだろう? 育った環境も、生まれた場所も、言葉遣いも身分も何もかもが違うけれど、大切なものがあって大切な人がいて怒ったり笑ったりする根本的なところはまるで変わらないのに。

「わたし、この人たちのことをすべて知ったような気でいたけれど……本当は何も分かっていなかったのね」シャルロッテは男たちの顔を見回して意を決した。結局、必要なのは命綱から手を離すようなちょっとした勇気だけだ。「今日はここにいます。少し……知りたいことができましたから」

 男たちは思わぬ言葉にしばらく硬直して互いの顔を見比べておどけてみせた。

「そりゃ殊勝なこった! まぁ、好きにしやがれ。ところで、その奇妙な心境の変化はあの部屋の呪いが関係してんのか?」

「呪い? どういうこと?」

「どうもこうもあるか、あの部屋は俺たちの墓場だ! この船で死んだ奴らは体だけ海に捨てて遺品はあの部屋に詰め込んでおくのさ」シャルロッテは今朝あの部屋でみた品々を思い出した。「未練なく死んでる奴なんていないんだ。あいつらが化けて出たっておかしくねぇだろ」

 屈強な男たちが大真面目にそんな話をするものだからシャルロッテはおかしくなって小さく笑った。父もそうだったが船乗りというのは迷信深いらしい。「あの部屋で熟睡したいなら枕元にラム酒でも置いておいた方がよさそうね」

「馬鹿言え! 俺たちは海の紳士だぞ!? 寝込みを襲うようなマネするかよ。どこぞのこそ泥じゃねぇんだ。ああ、そうだ。アレはまるで反省してないな。間違いねぇ! 性根っつうのはそう簡単に変わるもんじゃねぇんだ――まぁ、少なくともこの船ではもう悪さはできないだろうがな。次、何かしでかしたらそれこそピストルと一緒に島流しだ。俺ぁむしろそっちの方がスキッとするけどな」

「その通り! あの小悪党のことを思うなら悪さする指は一本残さず切り落としちまった方がいいに決まってる」

「切り落とすなら指だけじゃなくてあっちの方だろ。なぁに、どうせ粗末なもんだ。なくなったって気づきやしねぇよ」

 シャルロッテは男の言葉は聞こえなかったふりをしてラムをすすった。

「違いねぇな。そうなったら結婚詐欺の方も廃業だ。嬢ちゃん、あんたもいい勉強になったな! 男に必要なのは胆力と――ところで陸じゃ――どうなってんだ? その辺は。どういう奴に女が群がるんだ? まだあの気色悪い流行りは続いてんのか?」

 昨日の出来事について感想でも求められたらどうしようかとヒヤヒヤしていたシャルロッテは話題がわずかに変わったことに感謝して頭をひねった。

「気色悪い……何のことだかわかりませんけど……一番の人気はもちろん由緒正しい貴族さまです。けど、あの人たちは生まれたと同時に従兄弟いとことか又従兄弟またいとことかと婚約してるから望むだけ無駄ですね。あとは将校さんと――それから、音楽家とか芸術家とか?」

「それだ! それが気にくわねぇ! 陸じゃあ、あの頭でっかちのインテリ共が幅を利かせてんだろうけどなぁ。俺から言わせたら陸の女どもは脳足りんばっかりだ! 度胸がなくて何が男だってんだ! ああ、思い出したぞ。この間あの馬鹿げた野郎をのしてやったときは爽快だったな」

「陸の女が嫌いなら海の女を選ぶしかねぇな。ハーピー〔女性の頭を持った鳥の化け物。老婆のような顔、禿鷲の羽根、鷲の爪を持つ〕から人魚〔上半身が女性、下半身が魚の魔物。航海者を美しい歌声で惹きつけ難破させる〕まで選び放題だ!」

「大体、そんな関係の行く末なんてわかりきってるぞ。つまりパトロンというか愛人だな。ぶくぶく太って夫に相手してもらえなくなったババアたちが必死こいてんだ」

「んなこといったらうちの船長だってそうだろ。なぁ! 船長!」男は突然ロウ船長にやじを飛ばした。ロウ船長は部屋の中央で船員たちとテーブルを囲んでカードで遊んでいて、瞳だけをこちらに向けた。「王室から合計でいくらむしり取ったんだ? そりゃあ、物腰も丁寧になるってもんよ。ああ、だからシャルロッテ、てめぇも大金積めば存分に優しくしてもらえんじゃねぇか? まぁ心配しなくたってベッドの上で退屈するこたぁないだろうけどな」

 シャルロッテはじっとロウ船長を見つめたまま硬直して、男の話なんてこれっぽっちも耳に入らなかった。船長の整った顔立ちはランタンの真っ赤な炎で照らされ、ゆらゆらと光が動く様子は昨日の夜を思い出させた。なぜこれほどまでに魅力的なのだろう。

 その隠しようのない視線に気がついたみたいでロウ船長は自分の隣の空白の席を蹴って示した。「シャルロッテ、来い」張り上げていないのに低い声は喧噪に負けずにはっきりと聞こえた。シャルロッテは促されておずおずと隣に座った。「もっとだ」

 船長はシャルロッテの腰に腕を回して、強引にその体を抱き寄せた。

「楽しんでるか?」

「ええ、まぁ……それなりに」

「そいつはいいな。だが、俺は退屈してるんだ」

ロウ船長は自分の手札をシャルロッテの目の前に伏せて置いた。机の上にはチップとしてスペイン金貨がいくつか積まれている。

「ポーカーのルールはわかるな?」

 その夜は今までの窮屈で退屈な航海がまるで嘘のようだった。

 船長の隣に座らされ、挙げ句海の男たちに囲まれて最初は緊張していたシャルロッテも、気まずさと男たちの口からあふれる淫猥いんわいな質問から逃げるように酒をすすっているとだんだんとすべてがどうでもよくなってきて、口から飾り気のない本音がこぼれ落ちるようになった。そうすると男たちはシャルロッテの毒だか薬だかわからない言葉にすっかりおかしくなって何度も場が湧いた。だが本人たちも何がおかしいのかはこれっぽっちもわかっていなかった。誰も彼もアルコールにおぼれて、会話も成り立たず、支離滅裂で飛び飛びの思考を何度も反芻はんすうする。そこに学びや論理性なんてものはこれっぽっちもない。海賊らしい傲慢な時間の使い方だが、そういう時間ほどどうしようもなく楽しいのは言うまでもないだろう。海馬にはこれっぽっちもとどめておかないで、明日にはすべて忘れてしまうような瞬間的な楽しみだ。

 それからその後のポーカーもホイストも、シャルロッテはビギナーズラックですさまじい快進撃を見せた。途中で船長が一枚の価値を教えてくれたが、気がつけば目の前には計算もできないほどの金貨が積まれていた。いつの間にか野次馬すら集まって、次は誰が勝つかと互いに賭けあい、テーブルの周りはすごい賑わいだった。

 その後にはちょっとしたダンス――付け加えるならシャルロッテは元々あまりダンスが好きではなかったけれど今日だけはいろいろな意味で別格だった。

 社交界では決められた音しか奏でない音楽も今日は男たちのほんの気まぐれですぐに拍子が変わった。男たちは心の赴くままに床を激しく踏みつけたり、腕やコップを机に叩きつけたりしてビートを刻み、それから時には頭に思いついたフレーズをそのまま口笛に乗せた。男たちの奏でる力強い音は衝撃波みたいに船全体に広がって心臓もそれに連動して拍動し、次第にテンポが速くなって息が切れて踊り疲れてそのまま死んでしまいそうだった。

 シャルロッテは机と机の、椅子と椅子の、人と人の間を何度も行き来して、机に飛び乗り名前もおぼろげな男たちの腕を何度もくぐり抜けた。酒のせいでふらふらして何度も足がもつれて何もしなくても目が回るみたいだ。

 宴会は日が昇るまで続き、客室でシャルロッテが疲れ果てて眠りについたころには空は鮮やかな青色をしていた。

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