9章
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海水からあがると散々歩き回った日の夜のような心地よいだるさがあった。全身が床に引きつけられているように重たく、一歩を踏み出すのもおっくうだ。思った以上に全身が冷えていて、風もないのに歯の根も合わないほどの震えが全身を襲った。それに今更ながらシュミーズ一枚で男性の前に立っているのがいたたまれなくなった。水中にいたときはまるで気が回らなかったけれど、薄い布地の宿命でシュミーズは水を山ほど吸い込んでほとんど半透明といっても過言ではなかった。その上、素肌に吸い付いてこれぽっちも離れようとしない。そのせいでシャルロッテの薄い体格は公然にさらされているも同然だった。むしろ体のでっぱりやへこみが強調される分こちらの方がひどい辱めかもしれない。
ロウ船長がシャツを脱いで水を絞っているのを見て、シャルロッテもシュミーズの裾を絞ったが焼け石に水だった。彼の服もシャルロッテと同じように体にピッタリ張り付いている――だけど船長の方がよっぽど見てくれがよかったのは認めざるを得ない。シャルロッテは水に濡れたウサギのようにほっそりとしてみすぼらしかったが、彼はまるでワニみたいだった。鍛え抜かれた体は見られてこれっぽっちも恥ずかしいものではない。
短い海水浴ですっかり忘れていたとはいえ、船の上に戻ると否応なく恐ろしい記憶がよみがえり、シャルロッテは内部につながる階段をじっと見つめながら身震いした。長らく安住の地だったあの部屋はもう安住の地ではなくなってしまった。とてもではないけれどあの部屋に戻る気にはならなかった。それに、もしかするとまだデリックがあの部屋で伸びているかもしれないのだ。
ロウ船長は床に放っておいた上着を拾い上げると短く質問した。
「着替えは?」
「下にあります……でも……」
「一等航海士室に戻るのが嫌なら客室を使え。とにかく濡れた服はさっさと脱ぐことだ。疫病が蔓延したらこの船はいよいよ終わりだ」そのとき不意にやってきたそよ風がシャルロッテの体を震わせた。風は例によってすぐに消えてしまったが、ロウ船長は大気の動きに好機を見出した。「ありがたい。運が良ければ明日には動き出せるぞ。そうでなくともあと数日のうちには確実だ」
それから彼は自分の上着をシャルロッテに渡した「こんなものでもないよりはマシだ。それ以上体を冷やすなよ」
今まで使っていたところが客室ではなかったことに若干驚きながらシャルロッテは首を縦に振った。もう無闇やたらに反発する必要はなかった。ようやくシャルロッテにも他の水夫と同じように船長の指示がどれもこれも的を射ていることがわかったのだ。それに今すぐにでもベッドで横になりたくて仕方がなかったのもある。
本当の客室はデッキに続く階段の下――つまり船長室の隣――にあった。部屋には所狭しと荷物が置かれ、設計図上は船長室の次に広い部屋だがかなり手狭に感じた。その割には手入れが行き届いているようで、部屋に備え付けられた掛け時計の上にもほこりはたまっていなかったし、シャルロッテが濡れた服を脱ぎ捨て、勢いよくベッドに飛び込んでもむせるほどのほこりは飛び散らなかった。
「いったいこの部屋は何の部屋なんだろう……」シャルロッテはベッドの上で眠気に目を細くしながらぐるりと部屋を見回した。客室という割にはベッドも長机も椅子もすべてが端に追いやられている。特に椅子なんてひどいもので、二度とひけないように机とまとめてロープでぐるぐる巻きにされていた。床には船員たちの寝床でみたような古びた個人用の木箱がいくつも置かれている。それから壁には漁師が魚を入れるような麻袋が四つほど吊されている。中にはたくさん物が詰まっているようで見ているだけでずっしりとした重さを感じた。
シャルロッテは眠りに落ちるその瞬間まで、袋の中身に思いを馳せた。
「金銀財宝かしら……それともゾッとする人骨とか? ……海は知らないけど、陸では戦った相手の首を取ったりするし……それともまさか子供にあてたプレゼントかもね……わからないけど……船長って結婚してるのかしら? ……子供がいたってあまり驚きはしないけど……」布団代わりにした船長の上着から香る潮と葉巻の匂いが自然と心を落ち着け、くだらないことを考えているうちにシャルロッテの意識は闇の中に沈んでいった。
次の日、シャルロッテは甲板の賑わいで目を覚ました。「どうして船長が昨日あんなタイミングで外に出てきたのかわかったわ。なんだか音が響くのね」
側面に取り付けられた小窓から太陽の明るい光がさんさんと降り注いでいる。思ったよりも寝過ぎてしまったらしい。
「水夫たちが起き出すより前に部屋に戻ってドレスを着たかったんだけど……」寝る前に脱いだシュミーズはすっかり乾いていたけれど普段の着心地はすっかり失われてゴワゴワしていた。
甲板に出るより前に、シャルロッテは思い出して寝る前に想像した麻袋の中身に手を伸ばした。中身はまるで子供のおもちゃ箱のようだった。きれいな貝殻やどこのものかわからない古びた銀貨、それから干からびた花やボロボロの布きれ。布きれはどうやらハンカチの一部らしく、A・Gという身に覚えのないイニシャルが刻まれていた。はたからみたらガラクタにしか品々にシャルロッテはますます首をかしげ、他には何かないだろうかと袋の底を漁り、麻袋の一番下に肖像画を見つけた。
古びた紙は日焼けして茶色に変色している。それに液体が飛び散った形跡があって所々に黒っぽいシミがあった。描かれているのは見知らぬ立派な船と十五人ほどの男性。真ん中に描かれているのがロウ船長であることはすぐにわかった。それからポツポツと見覚えのある顔が描かれている。肖像画の裏側にはかすれた文字で「一七四九年八月二十一日、
果たして十三年前自分は何をしていただろう、と考え始めたあたりで外からデリックの怒声が聞こえてシャルロッテは大きく肩をふるわせた。彼が何か言葉を発するたびに甲板にいる男はそれを覆い隠すみたいにさらに大きなドラ声を響かしてヤジを飛ばした。その熱気はすさまじいものがあり幼いころに父に連れて行かれた断頭台の光景を思い出した。
シャルロッテは甲板に向かおうとして扉に手をかけて――それから自分のいでたちを思い出し、せめてのも抵抗にシーツで体を覆って部屋を出た。シーツの薄さは言うまでもなく、心もとないことに変わりはないが仕方ないだろう。
甲板にはこの船に乗船しているすべての乗組員が集まっていた。その理由は鼻持ちならぬデリックの処罰を特等席で眺めるためだ。彼らは思い思いの場所に腰を下ろし、酒と食事を片手にすでに得体の知れない声をあげていた。ただでさえ娯楽の少ない船内で処罰はかなり刺激的な娯楽となるのだった。特に今日のような風のない日は尚更に。昨夜のそよ風はなんだのか、今日も風はないままだ。今日も船長ですら自然に対してなす術がないのは意外といえば意外だった。それとも船員のガス抜きをするために、わざと順風の予定を遅らせたのだろうか? それとも自分が楽しむためだろうか? 遠巻きに群衆を眺める船長は年季が入った鞭をもてあそびながら愉快そうな表情を浮かべていた。その鞭は〝九尾の猫〟と呼ばれる代物だった。九本に分かれたそれぞれの尻尾はところどころで固く結ばれて三つのこぶがある。それはイギリス海軍でも使われるような代物で、殺傷能力は低いが的確に痛みを与えられる優れものだった。
その手前で水夫たちは目と口に残虐な光を浮かべ、甲板の中央で縄に縛られ膝をついているデリックを取り囲み、軽口と罵倒を山のように与えてからかっている。それはまるで子供が芋虫を木の枝で突いて遊ぶみたいな構図だった。その穏やかなイメージのせいで、シャルロッテは彼らの中に眠る怒りの炎に気がつかなかった。
デリックはシャルロッテのことを見つけるなり彼女を目の敵にしたように大声で叫んだ。
「あいつだ! 全部あいつがやったことだ! 俺は何も知らねぇよ!」その瞬間、男たちはシャルロッテに詰め寄った。その瞳は怒りにまみれていてこちらの言葉なんて到底通じる気がしない。
「てめぇ、どこに隠しやがった! それとも罰を恐れて全部海に捨てたか!? 黙ってねぇでさっさと白状したらどうだ! てめぇらが裏でつながってることはわかりきってんだからな!」アンドレは苛立ちのままにシャルロッテの肩を押し飛ばした。
「一体……一体、何のことですか?」
「まだシラを切ろうってか!? そこのクソ男があの部屋に俺の荷物を隠したって言ってんだ! 黙ってねぇでさっさと答えやがれ!」
そんなこと初耳だったが反論するより先に、アンドレの大声が割って入ったのでついにシャルロッテは追い詰められて客室の壁に背中をぴたりとつけた。
「何のことだかわかりません……けど、わたしは何もしてません。それにデリックと裏でつながってるなんて……本当にひどい冗談」シャルロッテは冷たく言い放ってデリックをにらみつけた。幸いなことにももうこれっぽっちの情も感じなかった。裏切られた胸の痛みはいまだに体に響き、この場で彼をかばう気にも到底ならない。しかし男はシャルロッテを犯人だと決めつけているようで一歩も引こうとしなかった。
「んなわけねぇ! だったら何だ。無機物に足が生えたとでもいうってのか!? てめぇの部屋にあったはずの物が見つからないんだぞ!」
すごまれるとシャルロッテは瞳に涙を浮かべた――が、それはすぐに乾いて代わりに口から反論が飛び出した。昨日わたしはあれほど恐ろしい海に――恐ろしかった海に身を投げたというのに、この程度の脅しの何が怖いっていうのだろう。少なくとも船長はわたしの勇気を褒めてくれたわ。あのとき心に灯った勇気の炎は一晩たったくらい消えはしなかったのだ。
「大体――わたしはそんなものが隠されていたことすら知らなかったっていうのに、どうやって場所を変えるっていうの? それよりもデリックが場所を移して、わたしに罪をなすりつけようとしている方がよっぽど自然だわ」
そして事実もその通りなのだった。デリックは逃げたシャルロッテを追う代わりに盗んだ私物を隠し直したのだ。
一度、口を開けば心の中の炎はますます燃えさかり自尊心を守る防壁となった。そうよ、誰に遠慮する必要があるの? なんだって構いはしないわ。だって、わたしがそうなりたいんだもの――お父さまや世間がなんと言ったってわたしはわたしよ。そして何よりも尊い。
そう思うと今まで何年も何年も体につきまとい、しまいには慣れてしまった重荷から解放されるのをたしかに感じた。世界は色を取り戻し、目の前が
シャルロッテの思わぬ反論に、アンドレは一理あるとは思いつつも今更引くに引けなくなって大声で彼女を脅し続けた。「だったら証明してみろってんだ! そうでもねぇなら……」その声でシャルロッテは正気を取り戻したが、自然と目線は背後の海に向かった。その動きを悟ってアンドレは激しく舌打ちした。「――てめぇ!」
船長は海に魅入るシャルロッテの瞳を見ていた。不意に二人の視線が絡み合うと、彼は静かに目を細め、それが合図だったとばかりに鞭でデリックの肌を打った。デリックは予期せぬ痛みに悶絶しているようだったけれど、そんなことこの船の最高権力者には関係なかった。
「そう暴れるな、アンドレ。その件に関して言うなら俺が証人だ。第一、いくらそれが温室育ちだからといって、自分を襲った男の肩なんて持つわけがないだろう」
船長の言葉を聞いたその瞬間、黙って話を聞いていた男たちは突然湧き上がって思い思いに声をあげた。まさか盗みだけでは飽き足らず、この船のつまらない小娘にまで手をだしたとは露も思わなかったのだ。
「おいおい、マジかよ。まさか本当にやりやがるとはな!」
「俺はお前を尊敬するぜ。やろうとしたって体が反応しねぇってもんだ!」
「それで告発されてるんだからわけねぇな! それとも本望か? 何とか言えよ」
野次馬はデリックの腹を蹴り上げてゲラゲラと馬鹿にして笑った。ひどいことをされたとはいえ、あまり見ていて気持ちのいい場面ではなかった。
「おい、シャルロッテ! 変な優しさで許すなんて口にするんじゃねぇぞ! こういうヤツは一回死にかけねぇとわからねぇんだ!」
「てめぇだって何度もそんな目に遭うのは避けてぇだろ! それとも存外悪くなかったってか? それなら話は別だがな!」
「ひどい冗談だわ」シャルロッテははっきりと言った。「煮るなり焼くなり好きになさってください。許しはしないし、かばう気もありませんから」
「こいつは手厳しいな!」シャルロッテの言葉を面白がって男たちはますます大きな声で笑い始めたが、本人はあまり愉快な気分ではなかった。許すつもりがないのは事実だが、少しばかり言い過ぎたと心の内で反省した。望むのは適切な罰であって、いたずらに傷つけることではないのだ。正義を盾にするようなことはしたくなかった。それは陸で散々自分がやられたのと同じ事だ。
アンドレが相変わらず不満げに床を棒の足で叩きつけ、マストの目の前という特等席に腰を下ろしたのを見計らってロウ船長は再び愉快そうに笑った。
「話はまとまったな? 掟に基づきこいつに罰を下す。おい、お前ら。とりあえず固定してやれ」
「イェス・サー!」ロウ船長の言葉一つでデリックは両脇をがたいのいい男二人に支えられて無理矢理持ち上げられた。その間にもデリックの口からは絶えずおぞましい言葉が吐き捨てられていたが、両腕を十字架みたいな形でマストに固定されると繰り返した罵声も勢いを弱め、わずかに緊張した面持ちを浮かべた。その様子に野次馬たちはますます興奮の色を伺わせた。
「全部で何発だ?」
「一五〇発です」デリックとシャルロッテはその言葉を聞いてわずかにホッと息をついた――いくら船員たちの目が血走っているからといってその程度ならば命に関わることにはならないだろう。もしかすれば傷だってそこまでひどくはならないかもしれない――しかしその数に安心したのはその二人だけだった。事情を知るすべての船員は含み笑いを浮かべて互いの脇腹を肘で小突きあっている。
「よかったな。今日中にはけりがつくぞ」シャルロッテはロウ船長のその言葉に何か不穏なものを感じ取った。
「たったそれだけなのに夜まで時間がかかるの?」日が沈むまでにはまだ七時間はあるだろう。とてもではないがそれほど時間がかかるとも思えなかった。
「そりゃそうだ! 何しろ船長は何発打ったか数えねぇからな」その答えの意味は分からなかったが含みを持たせた言葉は全身の肌を栗だたせるに十分過ぎた。詳しく聞こうとして口を開きかけたそのとき船長の声が響いた。
「シャルロッテ」船長は目でシャルロッテを呼びつけた。突然の指名にシャルロッテはかなり驚いたが、体はすっかり従順に仕上がっていたので彼女は小走りで船長の隣に駆けた。
「お前は今日一日は船尾倉庫から出てくるな。わかったらさっさと行くんだ」
「待ってください、船長――」と、呼びかけてシャルロッテは慌てて〝ロウ船長〟と訂正した。本人のいかめしい黒い眉が拒むようにぴくりと動くのを見たからだ。思えば今までただ〝船長〟と呼んだことはなかった。それから少しだけ気兼ねなく船長と呼べる船乗りたちがうらやましくなった。どれほどこの船に馴染もうとも、ただ船に同乗しているわたしと実際に身を粉にして働く船員たちとは明確な違いがあるのだ。その事実に少し悲しくなりながらもシャルロッテは続けた。
「……その……終わったら教えていただけませんか?」船長はまた奇妙なことを言い始めたとばかりにいぶかしげに首をかしげた。その顔に先ほどの拒絶はなかった。「だって、きっとまた包帯が必要になると思うから……誰だって死んでほしくないわ。たとえ悪人だって」
「さっさと行け」
断らないということはきっと了承してくれたのだ。
シャルロッテはマストに吊されるデリックを哀れみの目で見つめてから言いつけ通り階段を下った。無理に反対する必要はない。船長がそういうのなら間違いなくわたしはあの場にいない方がいいのだ。
なぜ船長があの部屋ではなく甲板から一番離れた船尾倉庫を指示したのかはすぐにわかった。いざ刑が始まるとあの恐ろしい鞭がデリックの体を叩く音とデリックのくぐもったうめき声が船内に響き渡った。
シャルロッテはなるべくその音を考えないようにして、ドレスを着替え、縫いかけの包帯を持って船尾倉庫に降りた。倉庫はデリックによって荒らされて、あちこちの蓋が開けられ荷物が飛び出していた。
シャルロッテは木箱の一つを椅子代わりに腰掛け、隣に愛用の裁縫道具を置いて銀色の針を手にした。糸を犬歯で噛み切って、それから布の切れ端を太ももに乗せ、歌を口ずさみながら両手を絶えず動かすと自然と心が落ち着いた。
やっぱり船長の見立てはいつも正しいわ。船尾倉庫は奥まった場所にあるから鞭の音もうめき声も何も聞こえてこなかった。聞こえるのは波が船に打ち付ける音と自分の歌声だけだ。
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