8-2
そのころデリックはいつ吹き始めるとも知れない風に怯えながらやきもきして船内をあてもなくさまよっていた。
デリックはビリー家の財力に見切りをつけ、いくらかの金になりそうな船尾倉庫に目をつけた。何度かの下見はすでに終わっていて、金になりそうなものはすべてリストアップされて彼のずる賢い頭の中に記憶されていた。しかしデリックにとっての風向きはかなり悪い。船長から目をつけられているのはもちろんのこと、船員たちの金目の私物を盗みだし(ちなみにこれはシャルロッテの部屋に隠してある)、倉庫の下見する姿を確認されたせいで凡庸な船員たちからもいぶかしみの目で見られている。だからといって目の前の宝をみすみす逃せるほどデリックはできた人間ではない。
「いつ風が吹くかもわからないっていうのに、クソったれ! まさかこんなところで足止めを食らうことになるとは!」すべては自然の思し召しだ。その点に限ってできることといえば神に祈るくらいだろう。デリックはいらだって壁を殴りつけた。それにしても大胆に動きすぎた。盗みの犯人は割れていないが、ただでさえ風がなくていらだっている連中相手にやるべきじゃない。今や水夫たちは互いに目を光らせ、少しでも妙な動きがあれば報告して罰してしまおうと息巻き、まさに一触即発の様相を呈していた。水の一滴でもあればすぐにでも爆発しそうなこの場にいつまでも留まる気なんて毛頭なかった。そうでもなければ先の見えない盗みなんてしない。
風が止み始めてからというもの船尾倉庫には見張りがつけられた。デリックからするとそれはかなり厄介だった。「あとはあの見張りさえどうにかできればボートを奪ってこの船からはおさらばだ」
次の日、デリックはいつも通り食堂で男たちが酔いつぶれているのを確認してから音を立てないように慎重に船尾倉庫につながる階段を下った。窓も何もない最下層は真っ暗で、上の階の光が天井の隙間からわずかに漏れ出るだけだ。デリックは猫のように目を細くして、天井に頭をぶつけないように腰を落とし、倉庫の入り口をのぞき込むとにわかに口角をあげた。
ここのところ毎日のように扉の前に門番よろしく座り込んで酒を飲む男の姿が今日はなかったのだ。デリックはマッチに火をつけてそれを周囲にかかげた。通路の奥をのぞき込んでも人の姿はまるでみえない。しめたぞ、あいつらとうとう疲れ果てて仕事をさぼりやがった!
デリックは火をかかげたまま何のためらいもなく倉庫の扉を開いた。倉庫の中には数々の商船から奪い取った略奪品やフランスからはるばる運んできた商品が山積みにされ木箱の中で山のように眠っている。デリックはそれを目にするといよいよ抑えが効かなくなって、マッチを床に投げ捨て足で火を消しながら汗ばんだ両手をこすり合わせた。乱雑に積み上げられた木箱の中からいくつかを山賊のような荒々しさで開けてその中から光り輝く宝石や金の鎖をつかみ取る。貴金属のずっしりとした重さを噛みしめてデリックはにやりと笑った。これをすべて売り払えば二〇〇ポンドはくだらない。
デリックは自分の腕に巻かれた包帯をほどき、貴金属をくるんでまとめた。倉庫にある貴金属を集めてまわると最終的に包帯はかなりの重さになった。それを腕に抱えてさっさとこの部屋を抜け出そうと
「しかし待てよ。本当にあの飲んだくれ共はただ仕事を忘れただけなのか?」信奉者の忠誠と揶揄したくなるほど船長の指示に従う船員たちがそんなことするだろうか? そう思うとなんだか途端にこの暗がりが獲物を捕らえるためのきな臭い罠に感じ始めた。
しかし宝石の輝きを目の前にするとその思考すらもどこかに霧散して、得体の知れない自信が全身に湧き上がった。もしこれが罠だったとしても、だ。これをこのまま置いていく選択はない。
デリックは包帯に包まれた宝物を握りしめて倉庫を後にした。重い荷物を抱え、階段を登りきると、まるで示し合わせたみたいに三人の男たちが一つの薄暗いランタンを囲んで床に座り込んでいた。床には四つのコップが置かれて、そのうちの一つはラム酒がなみなみと注がれている。他の三つはすでに手がつけられた痕跡があった。
「よぉ、デリック。こんな夜中に倉庫で一体何の用だ? 何にせよあまり穏やかじゃねぇな。まぁ座れよ。最近はあの女のケツを追いかけるよりも船尾倉庫にご執心らしいな。んで、何を
「やっぱりか」デリックは肩をすくめて空いているコップの前に腰を下ろした。包帯に包んだ宝飾品を床に下ろすといくつかの品物が床に広がった。決定的な場面であるにも関わらず、デリックはこれっぽっちも悪びれた態度ではなく、それどころか顔に不敵な笑みを浮かべている。
「このこざかしい作戦は船長の差し金か? それともてめぇらが勝手にやったのか? まぁなんだっていいが――そう
「てめぇと組むだって!? 目に見える泥船に乗る馬鹿はこの船に一人も乗ってねぇ! 俺を馬鹿にするのも大概にしろよ。せいぜい丸め込めるのは世間知らずの女くらいのもんだ! 今からでもご機嫌とりに躍起になった方が良いんじゃねぇか? てめぇは女の爪あかをなめてるのがお似合いだ」陸で鍛え抜かれた詐欺師の甘言も船乗りの前では無力だった。男はデリックの勧誘をぴしゃりと払いのけて見下すみたいに鼻を鳴らした。「答えろ。俺たちから盗んだ物はどこに隠した?」
「知らねぇな。大体あんな安物ばかりどうなったって構いやしねぇだろ。どこに隠したか知りたきゃ、ここで俺を見つけたことは黙っとくんだな。さもなくば二度と手に入らないようにしてやる。わかったらこの話は忘れてさっさと寝床に戻ることだ」
「この野郎――!」デリックの言葉に船乗りの切れやすい血管はすでに何本か切れていた。男は腰にひっさげたピストルを抜き出して心のままにデリックに向けた。撃鉄をあげると白い火花が暗闇に散った。
「さっさと答えろ。それとも俺とやんのか?」
ピリッとした緊張が辺りに漂い、その場の全員の視線がデリックと男に向いた。
「馬鹿言え!」デリックは首筋に軽く冷や汗を流しながらほえた。「俺の本職は詐欺師だぞ。わかった、降参だ。陸に戻れば馬鹿な女どもをだまくらかしてもっと楽に大金が手に入るんだ。こんなちゃちな盗みに命を張れるかよ。てめぇらの荷物はあの女の部屋にあるぜ。ちとわかりづらいところに隠したが――」
「明日が楽しみだな。俺は女でも男でも生意気な奴が落ちぶれるのを見るのが好きなもんでな。てめぇが鞭打ちされたらさぞ胸が空くだろう。せいぜい震えて眠ることだ! 明日からは眠りたくても眠れない夜がくる」
男たちはデリックに唾を吐き捨て高笑いしながら去って行った。デリックは顔をゆがませながらその後ろ姿を目で追って、ついにその姿が見えなくなると怒りのままに空になったコップを床にたたきつけた。
「くそったれ! あの忠犬どもが! すっかり去勢されて女を追いかける気力もなくなってやがる!」床に置かれたランプを蹴り飛ばすとランプは大きな音を立てて壁にぶつかり辺りが途端に暗くなった。デリックは足音を響かせながらさらに階段をのぼり、暗い廊下にただ一つだけ光が漏れ出る部屋を――シャルロッテの部屋を見つけてにわかに笑った。「だが俺はあの馬鹿な連中とは違うぞ」
デリックはそのまま迷いなくまっすぐドアの前まで進み出てノックもなしに山賊のような荒々しさでドアを蹴り開けた。
部屋の中にはシャルロッテがいた。日中に着ていたドレスはすっかり脱いで肌の色が透けるような薄いシュミーズ一枚を身につけ、ベッドの上でまんじりとしていた彼女は突然の来訪者に顔を真っ赤にして薄い毛布を胸元でたぐり寄せ目を見開いた。
久しぶりのデリックは普段とはまるで違っていて、シャルロッテのことをてっぺんからなめ回すように見て、それから何かに突き動かされるみたいに距離を詰めた。
「い、いったいノックもなしに何のご用なの? ちょ、ちょっと待って! いったんドレスを着るから……話ならそれから……」シャルロッテは机の上に置かれたドレスに手を伸ばした。とにかくどうしたらいいのかわからなくて両手は小刻みに震えていた。デリックは彼女の細い腕をつかみ見下すように笑ってベッドに
「その必要はねぇな。むしろ都合が良いじゃねぇか」もはや取り繕うつもりなんてこれっぽっちもなかった。デリックがベッドに膝をつくとスプリングがギシッと音を立てた。
薄い一枚の毛布越しに足をまさぐられて背筋が凍り、嫌な汗が全身から噴き出す。その瞬間シャルロッテの脳裏でアナベル夫人のあざけりを含んだ言葉がよみがえった。デリックの手が体をなぞるとそこだけ血の気が引いたように肌が真っ白になった。まるで全身の血液が凍り付いてしまったみたいにシャルロッテはしばらく硬直した。何か目の前で恐ろしいことが起こっているような気がするのに頭が理解するのを拒んでいる。デリックが口の中で何かをつぶやいていたけれど、それすらも耳鳴りが邪魔をして聞き取れなかった。
「や、やめて……」
自分の小さな体がすっかりデリックの体の影に入ったころにはもう遅かった。逃げだそうとしても組み敷かれた体はまるで動かなくて、粗暴な手が手首をつかんでベッドに押しつけるものだから身動きがとれなかった。シャルロッテは恐怖で声も出せずに小刻みに震えた。まるで目の前の人間は見知らぬ人間だった。
デリックはそんなシャルロッテを見下ろして愉悦の笑みを浮かべた。
「そんなに怯えなくたって、すぐによくしてやるよ」
シャルロッテはこのときになって初めて男性の心の奥底に潜む獣のような本性を目の当たりにした。それは想像の数倍も恐ろしいものだった。
デリックのがさついた手はシャルロッテの汚れも知らない柔らかな肩をまさぐるようになで回し、シャルロッテが悲鳴も出せずに顔を背けて唇を噛みしめるばかりなのをいいことに彼はますます大胆になってハイライトの利いた鎖骨をなぞり、ついにはその柔らかな膨らみに手を伸ばした。
「やめて!」その瞬間シャルロッテは我を取り戻して叫び、半狂乱になって四肢をばたつかせて抵抗した。両足を暴れさせると古ぼけたベッドは白い埃を何度も激しく吐き出した。
「暴れんじゃねぇ!」ベッドの上では激しい攻防が続き、シャルロッテは悲鳴のような声を上げながら体を思いっきり動かして体を左右に大きくよじり、ついには二人してベッドから転げ落ちた。右腕を激しく床に打ち付けて重い痛みが走る。けれど痛がっている余裕なんてなかった。慌てて立ち上がろうとした両足はデリックによってつかまれて、シャルロッテは床に
「離して! あなたがそんな人だったなんて思わなかったわ! 離して!」
デリックの手はシャルロッテの足をなぞり、次第にその手が上に登っていくにつれてシャルロッテはますます激しく抵抗して、ついにその足がデリックを蹴り飛ばすことに成功するとシャルロッテは今度こそ立ち上がって慌てて部屋から抜け出した。どうやらデリックは当たり所が悪かったみたいで恨みがましい目線を向けながら
シャルロッテは固定されていないバストが激しく揺れるのもいとわず甲板へつながる階段を二段飛ばしで駆け上がった。心の中には失意と絶望と混乱と嫌悪感が渦巻いていていて今にでもおかしくなってしまいそうだった。デリックに触られた場所は
甲板には夜の静寂が広がっていた。普段なら一人で歌を歌いながら舵をとっているセリオも今日ばかりはすっかり役目がないのでもう床についていた。シャルロッテは誰もいない甲板を駆け抜けて船の縁によじ登ると帆につながった麻縄を命綱代わりにつかんで黒い絵の具をばらまいたみたいな海を見下ろした。海はすべてを飲み込むほどに黒い。
心臓はいまだに先ほどの出来事を処理しきれていないようで激しく脈打っている。
「いったいなんなの!? どうしてわたしがこんな目に遭わないといけないの!? 信じていたのに……!」体の奥底からどうしようもない嫌悪感が湧き上がり心を丸ごと黒く染めあげていく。裏切りの衝撃はすさまじいものがあった。混乱した頭は頼んでもいないのに遠い昔に父が口を酸っぱくした言葉をよみがえらせた。
「結婚もしていないような生娘が――」幸いにも長い文章をすべて思い出すことはなかった。何しろその言葉を思い出した瞬間にこの体が途端に汚らわしいものに感じて仕方がなくなって瞳に涙が浮かび始めたからだ。もしも父の厳しい言葉を完璧に思い出していたならほんの一瞬のためらいもなく神に許しを乞うて命を投げ捨てていたことだろう。とはいえ今だってほんの数秒の猶予が生まれただけだ。シャルロッテの頭はすぐに一つの事柄に支配された。
「――死んでやる。もうこんな生活耐えられない」目の前に広がる海は一歩でも足を踏み込んだなら魂までも飲み込んでくれるような気がした。両目から涙がこぼれて、激しい耳鳴りに続いて頭が割れるように痛くなった。「たとえ神のもとに還れなくたって、葬式が執り行われなくたって気にするものですか! どうせ悲しんでくれる人なんてもうこの世界に残ってないわ。それに……」シャルロッテの瞳からは大粒の涙がこぼれた。心臓がどうしようもなくズキズキと痛んでしょうがない。「それに、それに……お父さまだってどうせもう――。それならわたし一人がこの地獄に留まる必要なんて――あるわけがない!」
一刻も早く飛び降りようと思ったそのとき、突然背後で物音がしてシャルロッテは慌てて振り返った。部屋に放っておいたデリックが追いかけてきたと思ったのだ。人影はデッキの影となり黒いシルエットしか見えなかったが、その瞬間に先ほどの恐怖が巻き上がってシャルロッテは悲鳴のように叫び散らした。
「こないで! それ以上近づいたら飛び降りるから!」その人物はこの声なんて聞こえなかったみたいに一定の速度でシャルロッテに近づいてくる。「わ、わたしは本気よ! 近づかないで!」
「ずいぶん激情的で、勘違いされそうな場面だな」
ついにその人物が船の影から抜け出して、月光にその姿が暴かれるとシャルロッテは思わぬ人物に目を見開いた。そこに立っていたのはロウ船長その人だった。だけどシャルロッテのパニックはますます加速していくばかりだ。思考は恐怖で塗り尽くされてもはや自分ではどうすることもできなかった。
「い、いったい何の用なの? いや、やめて! こないで! わたしがどうなろうとあなたの知ったことじゃないでしょう!? わたしのことをつけ回すのはいい加減よしたらどうなの!?」
声を荒らげるシャルロッテに対して船長は冷静そのものだった。歩くペースもまったく変わらず、慌てることもなくゆっくりと距離を詰めていく。なんだかシャルロッテはその態度に自分が追い詰められているような錯覚を覚えた。
「俺がここにいるのは、まさにこうなることを予見していたからだ」
「こうなることが分かっていたのに何も言わなかったっていうの!?」
ロウ船長は堪えきれずに海に吠えるように笑った。「さっき自分で説明しただろう。俺の知ったことか。わざわざ言ってやるほど優しくないし興味もない」
「だったら今度も放っておいて! 近づかないで! 止めないでよ。わたしはもううんざりなの! ええ、すべてがうんざりよ! わたしのことなんてなんとも思ってないくせに――」容赦なく近づく船長にシャルロッテはたじろいでわずかに後ずさった。片足が船の縁からはみ出して、思わずバランスを崩しかけた。見下ろす海は黒く口を開けてシャルロッテのことを待っている。「落ちるって言ってるのに!」
「落ちればいいだろう。はなから止める気なんてあるものか」
その瞬間シャルロッテの脳裏はパニックも忘れて怒りで真っ赤に染まった。この人はわたしがそんなことできるはずがないと高をくくっているんだ。意気地なしのわたしにそんなことできるはずがないと! 忘れかけていた勇気が心の中をたしかに灯し、黒いばかりの海に身を投げるようにせき立てた。そうよ、わたしだってできるわ。怖くなんてない。今や船長はシャルロッテの足元で腕を組み、動向を見守っている。不意に全身の震えがピタリと止まった。理性も本能もついに決意を固めたのだ。
世界に見せつけてやるのよ。わたしが務めすら果たせない女だと思わないで。そのとき、シャルロッテが見ていたのは船長の彫りが深い顔ではなかった。シャルロッテは彼を通して陸の大嫌いな人たちを見ていた。今まで散々馬鹿にしてくれた連中を、それから意気地なしの自分自身を――シャルロッテは最後に勝ち誇った笑みを浮かべた。
握りしめたロープを放し、背後に重心をかけると体は浮遊感に襲われ小さな体は真っ逆さまに海に落ち、次の瞬間には盛大な水しぶきがシャルロッテを飲み込んだ。体の周りには細かな白い泡がつきまとい、それも時間と共に闇に溶けて消えていく。すると途端に周りは漆黒に包まれた。海は船上からのぞくよりもさらに黒く、真っ暗な空も相まってどちらが空につながるのかもわからない。わかることは、洋服と靴が水を吸い込み信じられないほど重くなって体を海底に引きずり込もうとしていることだけだ。
さっきまでは死んでもいいと思っていたはずなのに、もうそんなこと考えている余裕はなかった。本能的に体が酸素を求めて、がむしゃらに腕を動かしたが体は浮かび上がるどころかどんどん沈んでいく気がする。この感覚は覚えがある。実家の川で溺れたときとまるで一緒だ! それなのに今は誰も助けてくれる人がいない!
そのときもう一つの人影が海に飛び降りて水面に水しぶきをつくった。シャルロッテは両腕と両足を訳もわからず動かしながら、水中でその人物がつくる泡をちらりとみた。姿は闇に飲まれてみえないが、どこかそう遠くないところに人の気配を感じる。だけど長いこと注意を払う余裕なんてなかった。そんなことすらすぐに忘れて、肺が、全身の細胞が酸素を渇望するままに暴れ回ることしかできない。
不意に彼の腕がシャルロッテの腰に回されると、今度こそ彼女は逃れようのないパニックに陥った。その腕は自分を水中に引きずり込もうとしているようにしか捉えられなかった。無力な両手でその腕を押しのけようとしても、彼の腕は強固で外れようとしない。彼は片手でシャルロッテの腰を抱いて、もう一方の腕を器用に使ってまっすぐと水をかき分けていく。
ようやく二人が空気に頭をさらすとシャルロッテは慌てて空気を吸い込み、あまりに慌てたものだから一緒に海水も飲み込んで大きくむせ込んだ。それからしばらくすればシャルロッテは船長の首に手をまわしたまま、くたりと身を任せて動かなくなった。
目はゴミが入った時みたいにじくじくと痛いし、鼻の奥は少し空気を吸おうとするだけで信じられないほどの激痛が走る。とてもじゃないけれど暴れる元気なんてなかったし、それに何より少しでも暴れてこの短気で気まぐれな船長に手を離されたのなら今度こそ間違いなく海の藻屑になると確信していた。
「死ぬんじゃなかったのか?」船長はカラカラと笑いながら腕の力をわずかに抜いた。
「や、やだ!」シャルロッテは子供みたいに首を左右に大きくふるった。さっきまでは勢いづいていてまるで気がつかなかったことだが、飛び込んだ海は想像以上に広くて巨大だった。何もない海にこうして二人でぷかぷかと浮かんでいると自分がどれほどちっぽけな人間なのかを痛感させられる。きっとこの冷たい海は無力な女を飲み込むことなんてなんとも思わないだろう。実際、さっきそうしかけたように。
シャルロッテは極めて人間らしいことに、死を目前にした途端忌むべき死が恐ろしくなった。
「やめて――お願いですから――わたし、泳げないの……」
「ならそうやって必死にしがみついておくことだ」
船長は髪をかき上げて愉快そうに笑うとシャルロッテの顔にかかった髪を耳にかけて満足気な表情を浮かべ、シャルロッテは素直に両腕に力を込めた。
それは場面さえ違えば恋人に対してやるような熱い抱擁だった。なんだかそれを意識すると自然と心臓が早く脈打って一瞬だけは先ほどの恐ろしい出来事も忘れてしまった。憎たらしくてありがたくてどうしようもないことに船長はまるでいつも通りだった。密着している心臓も一分間に六十二回のビートをまるで崩そうとはしない。かたやわたしは息つく間もなく心臓が動きっぱなしでクラクラしているというのに。
船上からは平らに見えた海も実際に泳いでみると水は生物のように絶えず形を変えながら動き続けていた。下半身は水の流れによってふらふらとしてまるで安定感がない。それから上半身だって船長につかまっているとはいえ、真っ白の型がぎりぎり水面から顔を出す程度。それも船にぶつかった水が押し寄せて小さな波のようになるとすっかり覆われてしまう。少しでもうつむこうものなら鼻の先まで水につかってしまうことだろう。
シャルロッテは気がつけば不安定な両足を船長の足に絡めて、押し寄せる波から逃れようとして顎を高く上げてどうしようもなくすがりつくような表情を浮かべた。それはちょうど恋人にキスをせがんでいるような様相だった。
ロウ船長はシャルロッテのことをじっと見据えた。涙でうるうるとした瞳は月の光を反射していつかみたガラス玉のようにキラキラと輝いている。白い肩は透明な水に揺れて、その下には柔らかな胸の膨らみがみえる。薄い下着はすっかり体に張り付いて肌の色が透けている。小ぶりで柔らかい胸は押しつけられて形を変えて、甘えるようにすがりつく唇はつややかにみえて、船長は思わずその小さな体を抱き寄せたけれどすんでのところで掟を思い出してつまらなそうに笑った。
その間にもシャルロッテは水を嫌がる子猫のように体を懸命によじって、押し寄せる波をどうにかしてよけようとしている。
「いじらしいもんだな。しばらく男に囲まれるだけでこれほどの変化が生まれるんだから酒場の女どもが魅力的なのはいうまでもないことだ」何か言われたような気がしたけれどシャルロッテの耳には届かなかった。シャルロッテは船長の首にすがりつきながら、たくましいばかりの肉体と温かいぬくもりに酩酊していた。
「何にせよ」ロウ船長は敬服の意を込めて笑った。「その無鉄砲な勇気は称賛に値するな」
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