11章
11-1
それからというものシャルロッテの日常はほんの少しだけ形を変えた。それは些細な変化ではあったけれど心地よい変化だった。毎朝、井戸の要領で海から重い塩水をくみ上げるのは変わらない。それからデリックの容体を確認して何も手が施せないことに唇を噛むのもいつものことだ。
デリックはあの日からずっと高熱にうなされている。それも初日の熱よりもずっと具合が悪そうに見える。いつ見ても額には大粒の汗がにじんで、包帯も汗でわずかに湿っていた。その上、喉がすっかり腫れ上がって満足に食事すらとれなかった。そのせいでただでさえ細身の体からますます筋肉が落ち、こうなってくると未だに塞がらず蛆がたかっている傷口がますます痛々しく見える。その姿は晩年の母の姿を彷彿とさせた。目の周りが落ちくぼんで頬は痩せこけている。
「ラムは飲んでるんだな?」
「昨日は一日かけてコップ一杯ほどです。最近はほとんど気絶してるみたいで、何をしてもまるで反応がなくて……」
船長はシャルロッテの話を聞きながらベッドの上で浅く速い呼吸を繰り返すデリックのことをじっと見つめ、それから腹の辺りに残る赤い傷口に爪を立ててぐりぐりと刺激した。それでもデリックは死にかけの魚みたいに口で呼吸するだけでびくともしない。
「らしいな」引き抜いた指には血や膿なんてものが一緒くたにくっついていた。「感染するようなものじゃないだろう。ラムは飲ませ続けろ。コップ一杯も飲まないようなら無理にでも飲ませていい」
「それから少し前まではパンもひとかけら与えていたんですけれど……無理にでも食べさせるべきですか? もうかれこれ三日も何も食べてないんです」
「餓死するほどじゃないな。放っておいていい。むしろ内臓に負担がかかるだろう」
「船長……デリックは本当に大丈夫ですよね?」
すがりつくようなシャルロッテの視線に船長は少しの間を置いてから答えた。「海の上ではよくあることだ。死ぬほど苦しいが滅多なことで死にはしない」たとえ経験上一週間も持たないと分かっていても事実を口にしない分別は持ち合わせていた。意味もなくシャルロッテを脅す必要もない。
シャルロッテは船長の言葉でわずかに安心して息を吐いた。
船はおおむね順調に進んでいた。時折灰色の空に強風が吹き荒れ、真横から風を受けた船が大きく揺れることもあったが水夫たちはむしろ到着が早くなると逆境を喜び合い、実際強い風を帆に受けて船は素晴らしい速度で前進した。
シャルロッテは高熱にうなされるデリックの看病をしながら部屋で黙々と針を動かし続けた。あれからというもの彼女の元には山のような衣服が届き、それは一週間ではとてもではないけれど終わらないほどの量だった。どれもこれもどうしてこんなになるまで放っておいたのかと言いたくなるようなボロボロ具合で、実にやりがいに満ちあふれる仕事だ。
「本当によかったわ。暇をしてたら一日中デリックのことを考えて何も手につかなかったはずだもの」預かったものはシャツや靴下はもちろんのこと中にはつま先の部分がとれかかっている靴なんてものもあった。
だからといって誰もがシャルロッテに心を許したというわけではない。中には実は心に一物を抱えているのではと疑う男もいた。もちろんシャルロッテだってひょっと出の自分がすぐに受け入れられるだなんて到底思っていなかった。もちろん狙ってもいない倉庫の品々がどうとか言われるのは心外だし、すれ違うたびに気を張るのはどうにも徒労だと思ったけれど。
それでも船が順調に進むと自然と船乗りたちの間にも笑顔が増え、陸についたら何をしたいだの何を食べだのそういう会話が船中にあふれるようになった。今まででは信じられないほど穏やかな時間だった。
「俺は今回こそ金を残してみせるぞ! ラムだって毎日飲むもんか。それから貴族の真似事だってしないし女だって買わねぇよ。ああ、今回こそだ! いいか、俺はおまえらとはここが違うんだ。道ばたでくたばるのはごめんだな! それから貴族どものケツを追いかけ回して一ドゥニエのお恵みをもらおうと
「たしかてめぇは前回もそんなことを言ってやがったぜ。で、その結果どうなったかも俺はしっかり覚えてんだ! たった一日のうちに全財産をすっからかんにしてやがったじゃねぇか?」
「大体おまえに万年金がねぇのはそういう貧乏くさい考え方が悪いんだ! たんまり稼いでパーッと使えばいいじゃねぇか! 妻帯者ならまだしもな、俺たちみたいな男は今死んだって悔いが残らないように生きるのが一番だ。それによく考えてみやがれ、うちの船長は欲しいものはなんだって逃がさない性質だが知っての通りたんまりと金を持ってるじゃねぇか。こういうのは身近な成功例にならうのが一番だろ?」
「そりゃ、てめぇの脳みそもクルミ程度の大きさじゃなかったらうまくいくだろうな! そのお粗末な頭じゃ百年かけたって厳しいもんがあるぜ」
「馬鹿言え! 俺はここらの連中の中で一番に出世する自信があるぜ。貯金なんてしなくとも、だ! 間違いねぇ。もしかすれば帰りの船が出航するときには一人だけ土地持ちになってるかもな。リスクをとらずに成功がつかめるかってんだ! それにたとえとんでもない貧乏だとしても馬鹿の一つ覚えみたいに道に落ちてる小銭を探さなければ案外さっさと脱出できるもんなんだぜ?」
「そうかね?」
「そうだとも! それは今からこいつが証明するってわけだ」
シャルロッテは突然自分に話が飛んできたものだから慌てて顔を上げた。「わたしが?」
「俺の直感からいけばこいつはてめぇらなんかよりもよっぽど駆け足で成り上がるぜ。まぁ、ただの勘でしかないがな。だが困ったことに俺の勘はしょっちゅう当たるんだ。生まれついての幸運なやつでね」
「それは認めてやってもいいが――そればかりはありえねぇな。頑張ったって娼館のトップスターが関の山だ――ま、そこまで成り上がったら上手くいった方だ! なにせ客が取れるとも思わねぇ――すがりついて頼み込むっていうなら一ドゥニエくらいは恵んでやってもいいぜ」
「今の話を聞いている限り頼み込むのはジャックの方なんじゃないの? それに、そうやって泣きつくよりもカードで勝負をしかけた方が儲かりそうなものね」
「こいつときたらずいぶんな大口叩きやがる! 大体てめぇはどうするってんだ?」
シャルロッテは笑顔で答えた。「まずはお父さまのことを探すわ。もしかしたら誰か知っているかもしれないし。それから仕事も探して住まわせてくれるところも見つけないとね。でも不思議だけど、どうにかなる気がするのよ。どれほど大変でも海の上に比べたらいくらかマシでしょ?」
少し前までだったら暗い想像をしてベッドの中で頭をもたげさせることしかできなかったのにいつの間にか変に未来を悲嘆せずに進むだけの勇気が育っていた。逃げるようにしてやってきたこの船で過ごした濃密な時間がシャルロッテを少しだけ大人にしたのだ。
「そりゃそうだ! ここの飯に比べりゃ、どんな油のない肉だってごちそうに違いねぇ! 俺はとにかく船を降りたらうまい飯が食いたいな。虫が乗ったからっからのパンだって悪くはねぇが――そうだな――とにかく肉だな。海で食うようなジャーキーじゃなくて、いい感じに焼き目がついてジュージューいってる鴨肉だ!」船乗りの言葉をじっくりと想像すると
船員たちが上機嫌だったこともあってシャルロッテはデリックの病状を心配する傍ら、未知の土地に対する子供らしい無邪気な好奇心で心を染め上げた。シャルロッテは毎日欠かさずに甲板に上り、目をこらせば水平線の白い霧の中に大陸が見えるのではないかと船から身を乗り出した。
そんなシャルロッテを見て男たちは何度もゲラゲラと笑った。
「まだ陸にはちと早いな。そんなにかじりつくように見ようが船は早く進まねぇぞ。祈るなら天に、だ! 多少の嵐なら何倍も早く船が進むんだからな。そんでいよいよ視界に入った日には一時間もあれば陸の上だ」
そう言われてもシャルロッテは舳先〔船の先端部分のこと〕が指し示す先から目を離せなかった。
「本当に気がつくかしら? 通り過ぎたりしないの?」目指す大陸の大きさが想像できないシャルロッテはそんな質問を繰り返した。
「だとしたらその乗組員はよっぽどな大間抜けだな。あんなもん視界に入れない方がよっぽど難しいってもんだ。その上、緯度も経度も何もかも正確にわかってるっていうのによ」
「それに疑うわけじゃないけれど、まるで実感がないの。だって目に映る景色は出航したときと何も変わらないでしょ?」
目の前に広がるのはどこまでも続くとしか思えない広大な海原だ。この果てしない水平線の先に陸があるだなんて何度説明されてもまるで信じられなかった。それどころか長くて濃密な船旅はこれまで自分が本当に陸の上で過ごしていたのかさえ曖昧にした。実はこの世界に陸なんて存在していないと白状されてもそれほど驚かないだろう。
「まぁそりゃそうだな。海なんてどこだって大して変わらねぇ。何の道標もない海の上で船がどこにいるのか正確にわかるのは船長だけだ。だがいよいよ近いのは間違いないぜ。俺はさっき海鳥が飛んでるのをみたからな」
海の真ん中というのはひどく栄養がなくて人間どころか魚もそれを食べて生きている鳥すらも存在しない。だからこそ海鳥が飛んでいるというのはそれだけで陸が近い証拠だった。
「わたしはかれこれ一時間はここでこうしていると思うけど……鳥なんて見かけなかったわ」
「だとすりゃ、てめぇの目も節穴だ! 俺は海猫が鳴くやかましい声もたしかにこの耳で聞いたぞ」
「馬鹿みたいに一時間も何もない海に見入ってるこいつがそんなわかりやすいものを見逃すわけがねぇだろ。それこそ大陸を見逃すくらい難しい話だ! つまりてめぇは真昼間だっつうのに亡霊に化かされてんだ。もしくは頭がぶっ壊れたとかな」
「この様子じゃあ、ハーピーを見つけるのも時間の問題だな! 一躍有名人になれるぜ。もちろん希代の狂人としてな!」
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