11-2

 その日の夜、シャルロッテは船の揺れで目を覚ました。明かりのない部屋の中は真っ暗で、強風がビュウビュウと容赦なく船体に吹き付け、まるで瓶に詰められてめちゃくちゃに振られているかのような激しい横揺れが続いた。扉の隙間からはおどろおどろしい音が絶えず響いた。船が左右に揺れるたびに壁に吊された麻袋はぼんやりとした黒い影になって壁に打ち付けられ人の足音みたいな鈍い音を発し、袋の中身はかき混ぜられてまるでこの部屋に泊まる人物に警鐘を鳴らしているかのようにやかましい音を発した。

 ベッドから起き上がると揺れはより一層鮮明に感じた。時々なんかは船が四〇度も傾いて進んでいるような気がする。シャルロッテは暗がりに目をこらしながら、壁伝いにどうにかドアを開けた。その瞬間突風が全身に容赦なくぶつかって思わずきつく目をつむった。

 月も星も分厚い雲に覆われ、甲板は閉じきった部屋と同様に漆黒が広がっている。船首の先はさらに黒く、そこだけ世界から切り離されているようにも見えた。その先では時折白い稲妻が空を切り裂くように真横に走り黒雲を照らしあげ、数秒後に雷鳴がとどろく。ピンと張られた帆は強風を受け、一直線に黒雲に身を投げ出そうとしている。波もうねるように高くなり、じきにさらにひどくなることは確実だった。

「船長? ――いや、違うな――おい、シャルロッテ! ちょうどいいところに起き出してきたな! いい船乗りになれるぜ!」操舵手のマルセルは強風に負けないように大声をあげた。「船長を呼んでこい! それから下でいびきをかいてやがる野郎どももだ!」そのとき雷の閃光せんこうがすぐ目の前の海に落ちて間髪入れずに轟音ごうおんが響いた。マルセルは引きつりながらも覚悟を決めたような表情をして、心を落ち着かせるためにラム酒を一気にあおった。自然と舵を握る手にも力がこもった。「じきに嵐がくるぞ」

 強風の中かすかに聞こえたそんな言葉にシャルロッテも息をのみ、緊張して一瞬だけ足が凍りついた。けれどそれだけだった。自分のなすべきことははっきりとしている。ポツポツと降り始めた雨を拭ってシャルロッテは一直線に船長室に駆けた。

「五分もないな」ロウ船長は暗い空を見上げてつぶやいた。心なしか先ほどよりも辺りは暗くなって雨も強くなっているような気がする。それからロウ船長は山羊の角笛で船員たちに号令をかけて、不安そうに辺りを見回すシャルロッテに短く命令した。「船内の窓を全部閉じてこい。それから下にシーアンカー〔横波を受けないように船首から海に投入する布製の船具〕がある。誰でもいいから頼んで持ってこさせろ」

 シャルロッテは首を縦に振ってシュミーズを翻しながら船内に駆け込んだ。ぽつぽつと降り始めた雨はあっという間にしの突く雨に変わり、砲台のために開いている窓から容赦なく雨水が吹き込み、にぶい黒色の砲台の下に水たまりをつくっている。

 シャルロッテは言いつけの通りに船内の窓を閉めてまわった。ちょうどそのとき乗組員たちがどれもこれも不機嫌で眠そうな顔をしながら、それでも危険を察知したねずみのような速度で寝床から這い出した。慌ただしく昇降部を登り、シャルロッテを見つけると男たちは声を張り上げて事情を知りたがった。

「おい、シャルロッテ、こんなところで何してやがる! いったい何があった!?」

「嵐がきたの! それでシーアンカーが必要で――」

「わかった。俺がいく」男は短く答えてすぐさま船の奥深くまで降りていった。砲台にもうけられた窓をすべて閉じきると船内は完全な暗闇で満たされた。暗がりに甲板に打ち付ける雨の音が絶え間なく響き、それから船長の的確な号令とそれに応じる威勢のいい返事や慌ただしい足音が聞こえてきた。

「これで全部?」そのときシャルロッテはあの部屋にも小さな窓があったのを思い出し、慌ててデリックのもとに向かった。ノックも忘れて部屋に飛び込むと、デリックはベッドの上でどうにか窓を閉めようとして芋虫のように身をよじり、窓の方にすっかり筋肉の落ちた腕を伸ばしていた。しかしどうやら今の彼には遠近感がまるで感じられないらしくて、伸ばした腕は窓から一メートルもある場所でぴたりと止まり、到底窓に届きそうもない。その間にも窓から雨粒が大量に降り注ぎベッドを水浸しにしている。

「デリック! 気がついたの!? だめ、動かないで! わたしがやるわ」

 自分の細い腕も今のデリックのものに比べればいくらかマシな気がした。しかしその蝶番ちょうつがいは他のものと違ってすっかりさびていて窓はどれほど力を込めてもびくともしない。頑固な窓と格闘しているうちに全身はびしょ濡れになり、あっという間に体温が奪われて両手がかじかんで震えた。そのせいでますます腕に力が入らなくなった。船のとてつもない揺れもバランスを崩す原因だった。

 ついに頑固なさびが音をあげたそのとき、一瞬だけ目の前が真っ白に光って一秒もしないうちに落雷の轟音ごうおんが辺りにとどろいた。全身を揺さぶるかのような爆音にシャルロッテは反射的に耳をふさいで目をつむりその場にうずくまった。音の大きさからすぐそばに落雷したのは疑いようもない。落雷の音は耳の中で何度も反響して、心臓が緊張して途端に速いテンポを刻み始めた。窓を閉めきると部屋はすっかり真っ暗になったが、網膜には先ほどの光が刻み込まれて目をつむっていても目の前に光線のようなものがちらついていた。

 ひとたび恐怖が全身を覆い尽くすと、両足にはまるで力が入らなくなってもしかすればこのまま一生立ち上がれないのではないかとすら思った。なんと言い訳しようがシャルロッテは怖くてたまらなかったのだ。船は今もこの世の終わりみたいに上下に、左右に、激しく揺れている。そのたびに高波が甲板に容赦なく降り注ぎ、こうして力なく床に座っていると船の揺れはますます巨大でなすすべなく感じた。大体、これほど巨大なものがどうやって浮いているのかすら見当がつかないのに、どうしてこれほど激しく揺れて転覆しないと信じられるだろう。時々なんて船は六〇度も傾いているような気がするのに! それに鳴り止まない雷もどうしようもない恐怖だった。船はすっかり嵐の中に突入していて、どこかで落雷があったかと思えばそのすぐ三秒後にはまた激しい光線が空を駆け巡った。それはまるで終わりない神の怒りのようだ。

 シャルロッテはいつだか実家のモミの木に雷が落ちたときのことを思い出した。子供が何人枝に座ってもびくともしなかった老樹はたった一度の落雷で真っ二つに割れて焦げつき、すぐに枯れてしまった。もしもアレが人間に降り注ぎでもしたならばどれほど凄惨せいさんな結果が待っているかなんて言うまでもない。

 それに何より海は荒れに荒れて、もしもの事があったらと思うと否応なしにトラウマが刺激された。あの日の夜とはまるで違う。こんな海に放り出されたら訳もわからないまま海底に引きずり込まれるに決まっている。

 すっかりすくんで縫い付けられてしまった両足が再び動き出す気力を取り戻したのは窓のちょっとした隙間から船長の力強い号令が聞こえてきたからだった。

 背筋がピリッとしてシャルロッテは顔をあげた。

「いかなくちゃ」彼女はどうにか体をしっかりとさせて、壁に手をつきながら立ち上がった。今この瞬間にだって〝仲間たち〟が危険を顧みずに働いているというのにどうして自分だけがこんなところでうずくまっていられるだろう。

「どこへ?」船の動きに翻弄されてよろめきながら立ち上がったシャルロッテを見て、デリックはとうとう声を発した。喉はかなりがさついていてたった一言のためだけに肺から空気を絞り出すみたいに激しい咳にむせ込んだ。しかしやがて痰と共に血も吐き出すとかなり楽にしゃべれるようになった。

「デリック! 無理にしゃべらないで」

「まさか甲板に上がるつもりか? そんな状態で?」かすれた言葉には馬鹿げているという響きが含まれていた。シャルロッテは小刻みに震える両手をじっと見つめて唇をつぐんだ。「馬鹿げた使命感だな。ここにいればいい。そうすりゃ海に放りだされて見捨てられる心配も高波にさらわれる心配もないだろ。俺ならいくら金を積まれようが絶対に船内から顔なんてだすものか」

 デリックは吐き捨てるように早口でまくし立ててそれから発作みたいな咳をした。それから力を使い果たしてベッドに体を投げ出した。うつろな目はぼんやりと天井を見上げている。

 デリックの言うことももっともだった。今だって信じられないほど恐ろしいし、甲板に戻ったところで何ができるとも思えない。それなのにここに留まるという選択だけはどうしてもできそうになかった。心臓の脈拍は愛する人のためになりたいと叫び続けている。

「本当に馬鹿げてるわよ」シャルロッテは場違いだと思いながらも小さく笑った。「だけどやっぱりわたしだけ逃げるってわけにもいかないの。特別扱いなんてされたくない――もちろん、できることがあるのかは分からないけど――とりあえず様子だけ見てくる」デリックは何も言わずにベッドの上で天井を見つめたままピクリとも動かなかった。シャルロッテは床に転がって中身がすべてどこかへ消えてしまった空のコップを見つめた。「落ち着いたらまたラム酒を持ってくるわ。だから楽にしてて」

 小さな足音が遠ざかり階段を駆け上がる音を耳のどこかで聞きながらデリックは頭の中で毒づいた。「とんでもないお人好しだとは思っていたが――ここまでくると気が違ってるな。わざわざ危険に飛び込むほど馬鹿げた話もない。ましてや二ヶ月しか一緒にいない男のために命まで張ろうっていうんだから――とてつもなく馬鹿な女だ。しかも見返りも何もないっていうんだからなおさらあり得ない」それからデリックは思い出したみたいにうまく動かない両手を動かして胸の前で十字を切った。「何にせよ……この任務にあたらなくていいのは幸運だった。やっぱりあの馬鹿女は女神なのか?」

 ついでとばかりに女神の無事も祈りながらデリックはゆっくりと目を閉じた。もっとも本当に女神であるならばそんな祈りも無用だと思いながら。


 甲板につながる昇降部には高波が船内に入らないようにするために最下層の倉庫で見たような重たいふたがしてあった。力ずくで押し開けると甲板にたまっていた水が船内にどっと流れ込み、それから全身に滝のように激しい雨が打ち付けて肌にかすかな痛みを感じた。

「シャルロッテ!? てめぇ、何しにきた! 中にいた方がいいのは馬鹿だってわかるだろう!」

「手伝いにきたのよ! わたしだけ何もしないなんて嫌! わたしだってこの船の一員なんだから!」

 バジルは呆れて言葉もでなかった。しかし、状況はかなり切迫していてシャルロッテを中に押し込める時間すら惜しい。バジルは雨の中でも聞こえるほど大きく舌打ちして「甲板にいたいなら好きにしやがれ! だがてめぇが溺れ死んだって知ったこっちゃねぇからな!」と吐き捨て、すぐに仕事に戻った。

 船は船首を天高くに向けたり波の中に突き刺したりして波を乗り越えながらどうにか今も浮いていた。波を乗り越えるたびに船は急な角度になってまるで床が壁のように立ちはだかり、逆に波を下るときには体がちょっとした浮遊感に見舞われ、少しでも体から力を抜いたら船首の壁に激突してそのまま海に放り出されてしまう気がした。高波は何度も甲板を超えて、大量の水が甲板に流れ込み、そのたびに足をとられそうになる。強風にあおられて帆はバタバタと大きく揺れている。

「急がないと船檣が折れるぞ!」船長は見晴らしのいい船橋で舵を握りながら四方八方に的確な指示を飛ばしていた。それから甲板に張られたロープをぎゅっと握って立ち尽くすシャルロッテを呼びつけた。「シャルロッテ! 来い! こっちだ!」

 シャルロッテは欄干の細い柵を必死につかんでデッキにつながる階段をのぼった。力を込めすぎて両手が震える。まるで川のように階段の上部から絶えず水が流れてくるせいで床の摩擦力はほとんどなくなって一歩足を踏み出すたびに靴が滑って何度も体勢を崩した。

 ようやく階段を登りきって一段高い部分から船全体を見渡すとより一層の恐怖がシャルロッテの体を襲った。甲板を走り回って帆を固定するロープをほどいてまわっている男たちは何度も高波を頭から被っていつかはそのまま波にさらわれてしまいそうだ。シャルロッテのそんな恐怖が伝わったようでロウ船長はこの場には場違いなほどに高らかに笑った。

「楽しんでるか? お嬢さん」これほど上機嫌な船長は見たことがない。目には生き生きとした生気が宿り口元に挑みかかるような笑みを浮かべている。「震えるほど怖いなら中にいればいいだろう」

「いいえ――この船と一緒に沈む覚悟はできてます。わたしだってこの船の一員です」

「いい度胸だ」船長は笑った。「窓は全部閉めたか? よし――なら次の仕事だ。ロープはほどけるな? ――いいだろう。それならさっさとそれをほどいて下に投げ渡せ」

 ロウ船長はデッキの後方につながれたロープを顎で指し示した。そのロープはこの船で一番大きな帆の左下につながっていた。シャルロッテはすぐに首を縦に振って作業に取りかかった。

 ロープは特殊で頑丈な結び方をされていたが、結ぶのとは違ってほどくだけなら何の知識も必要としなかった。むしろほどくだけなら刺繍用の糸の方がよっぽど難しいくらいだ。きつく結ばれた箇所には細い指をねじ込んで力ずくで縄をほどき、そのせいでヤスリのようにガサガサした麻縄が爪に引っかかりわずかに痛みを感じた。作業中にも何度も高波が全身に押し寄せ、そのたびに濡れた髪が顔に張り付いてうっとうしい。

 ついに複雑に絡み合った縄をほどき終えるとシャルロッテは重たい縄を胸の前で乱雑に抱えて上甲板につながる階段まで駆けた。

「おまえ――」階段の下にいたアンドレは、シャルロッテが縄を持っていることに気がついた瞬間、階段を隔てても分かるくらい不満げな顔をした。その瞬間、シャルロッテの脳内で彼の手厳しい言葉の数々が山のように再生された。いつだってアンドレはシャルロッテが――というより女が――嫌いで憎くてたまらず、船の業務に手を出そうものならカンカンになる。船長に仲間になりたいと切り出したあの日も、よかれと思ってロープをたぐったのを思い出した。それからどれほど厳しい言葉を浴びせられたのかも。全身が緊張でピリッと固くなり、たじろいでシャルロッテは目をそらした。

 しかし今ばかりは彼もほんの少しだけシャルロッテに心を許していた。

「いいからさっさと寄越よこせ! こんなに忙しいってのに細かいこと言ったって仕方がねぇだろ! なんつったって助かることには変わりねぇんだ」その言葉は半分は自分に言い聞かせているかのようだった。それにどうやらその暗示が効いたようで、シャルロッテが慌てて縄を投げ渡すと次の瞬間には今までの不満なんて頭の中から消え失せていた。アンドレはロープの束を受け取り叫んだ。「もう一本の方も頼む!」

 ようやく二本目の縄をほどき終え、それを甲板の男たちに投げ渡したその瞬間、突如として視界が白く点滅し、間髪をおかずに稲妻が船檣に降り注いだ。その衝撃はまるで自分が貫かれたかのようだった。次の瞬間には鼓膜を突き破るような爆発音が鳴り響き、シャルロッテはその音を船長の腕の中で聞いた。いつの間にかシャルロッテはロウ船長に抱き寄せられていた。彼はこの正気を失うような落雷の後でも船員たちの安否を――とりわけシャルロッテを――気にかけていた。ここに呼びつけたのだって自分の手が届く範囲なら絶対に死なせない確信があったからだ。だけど、シャルロッテ本人はそんなこと気がつきようもなかった。

 あまりにも巨大な音はか弱い小娘から思考力を奪うには十分過ぎた。シャルロッテは命綱となるロープも手すりも手放して反射的に両耳をふさぎながら呆然として硬直した。それはこの嵐の中では命を投げ出すに等しい行為だ。もし船長のたくましい腕が届かなければ次の瞬間にはバランスを崩して海に放り出されたっておかしくなかった。しかし当面の間はそんなこと考える余裕もなくて、シャルロッテはいつの間にかそこにあった船長の左胸に頬を押しつけながら小動物のように小さく震えた。胸のぬくもりにどれほど安心したかは計り知れない。

 ようやく両足に力が入るようになっても眼球を少し動かすたびに稲妻の残影がついてまわった。それに爆音を間近で聞いた耳はおかしくなってしまったみたいで、船乗りたちの怒声も荒れ狂う波の音も甲板に全身に絶えず打ち付ける雨の音も何もかもが静寂の中にある。耳の奥では高い耳鳴りが絶え間なく響き、鋭い痛みすら感じるような気がする。

 船長は片手でシャルロッテのことを抱きながらも船乗りたちに声を張り上げ、そのたびに胸の辺りが鈍く振動した。船員だってシャルロッテと同じように自分の声すらも聞こえていないはずだが、大きな声をあげて己をそして仲間を鼓舞して、その熱気はシャルロッテにもたしかに伝わり、シャルロッテは自然と船長を見上げた。

 彼はこれっぽっちもおじけづくことなく――むしろ挑発的な瞳で船首の先を臨んでいた。先ほどの落雷で主檣は根元から半分に割れて断面がすっかり焼けて焦げ付いているというのに、彼の態度にはそんなことこれっぽっちも感じさせない豪胆さがあった。きっとこの様子ならどんな泥船を操作していたって様になるに違いない。

 ロウ船長はシャルロッテが見つめていることに気がつくと視線を下げ、それから明確にシャルロッテを見つめながら何か短い文章を三つほど発した。彼のたくましい胸は口の動きとリンクして優しく振動する。

「なに? 聞こえないわ」彼の言葉が聞こえないように自分の言葉だって届くわけがないとわかりきっていたけれど言わずにはいられなかった。いったいそんな穏やかな、それでいて危険な表情で誰に向けて何をささやいたのかどうしても知りたくてたまらなかったから――もしもシャルロッテの男性経験が豊富だったなら、その表情や仕草から口説かれているとわかったのかもしれない。けれども本能で何かを感じ取って心臓が急に飛び跳ねた。

 船長はシャルロッテの胸中なんてまるで知ったことではなく、相づちもなしにそのままいくつかの文章を身勝手にささやいた。もしかすればその文章の中に何か重要な問いかけがあったのかもしれない。それかもしかすれば事故のような気まぐれかもしれない。真意はいつまでたっても分からないままだ。だがなんであれシャルロッテはそのたった三秒ほどの出来事を生涯忘れることはないだろう。

 船長はシャルロッテの顔に張り付く濡れた髪をかきあげ、さらけ出された唇にキスを落とした。


 気がつけば雨も雷も鳴り止み、漆黒の雲もどこかに消えていた。空には雲一つなく、東の空は徐々に明らみ始めてまた新たな一日が始まろうとしている。嵐は去ったのだ。波だけはまだ多少荒れていたがじきにいつもの姿を取り戻すことだろう。甲板にはまだ水がわずかに残っていてそれが船の揺れに合わせてゆっくりと揺れていた。船員たちはすべての力を出し切ったとばかりに甲板に座り込んだり力なく寝転んでいたりする。

 次第に太陽が海から顔をだすと、シャルロッテはその輝きにすっかり魅入られて疲れ切った両足のこともすっかり忘れて船の端に手をかけた。太陽の暖かい光は目に染みるようで、海から見る日の出は神々しいほどに美しかった。赤い光は海の上にキラキラと反射して、暖かい光が行く先を照らしている。空は見事なオレンジ色に染まり、そこから紫色のグラデーションになってまるで見事な絵画を眺めているようだ。

「きれい……」気がつけば隣には船長が立っていた。朝日に照らされて赤みを帯びる横顔を見つめるとシャルロッテはなんだか妙に意識してしまって頬をわずかに赤く染めた。ありがたいことに船長はじっと海の先を見つめるだけでシャルロッテのことなんて歯牙にもかけていないらしい。

 それからシャルロッテはふと船長のこういう姿を見るのはこれが初めてではないような気がして長い旅路の記憶をゆっくりとさかのぼった。たしかこの船に初めて乗り込んだときのことだった。イポリート副船長に引っ張られて足をもつれさせながら甲板を歩いていたときも、たしか船長はここに立って東の空を見つめていたはずだ。あの日もこの日の出を見ていたのだろうか?

 問いかけようとしたそのとき、船首の方から船員の疲れをしらない大声が聞こえてきた。

「おい、おまえら見ろよ! 陸だ!」

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