12章

12-1

 大陸はたしかに見失いようのない大きさで、徐々にその輪郭が鮮明になるにつれて胸の中に抑えきれない冒険心が渦巻いた。シャルロッテは船が港にたどり着くまでの一時間弱、絶えず甲板から見える大陸の形を目に焼き付けた。実に二ヶ月ぶりに見る陸は色であふれていて目がチカチカした。海岸線には白いギリシャ風の建物がずらりと並び、煉瓦れんがづくりの街道は貴族の馬車が行き交い活気に満ちあふれ、中には桃色や黄色の小さなパラソルに原色のドレスとボンネットを身にまとい、散歩道からこちらを見つめる貴族の姿もみえた。港には赤や青の布を木に貼り付け天井にして日陰をつくる物売りたちの威勢のいい声が響き――きっと世界中どこの港でもそうなのだろう――気だるげな娼婦が樽に座り込んで扇子をパタパタと気ままに仰いでいる。

 シャルロッテは船の上から喜々としてその光景を見つめて、これほどたくさんの人間が生きていることにちょっとした衝撃すら覚えた。船に乗る前まではもちろんそんなこと思いもしなかった。

 ついに船が入港すると男たちは慣れた手つきで船を船着き場に留めて我先にと地上に降り立った。シャルロッテはあの部屋に置いたままにしていた荷物をとるために甲板を下り、それからすぐに異変に気がついた。シャルロッテが使っていた部屋――つまりデリックが長らく寝ていた部屋――のドアは半開きになってすでに彼の姿はなかった。

「デリックは?」シャルロッテは近くにいた船員に問いかけた。マルセルはその名前なんて二度と聞きたくないという風に軽く頭を振った。

「あいつならとっくの昔に逃げてったぜ。あれほど固執してたっていうのに分け前ももらわずにな! まぁ、あの体で大金を持ってたって盗んでくださいと言ってるようなもんだ。それに命があるだけ儲けもんだろ?」

 シャルロッテは不安になって眉を下げた。「あの怪我で大丈夫かしら?」

「海の上じゃないんだ。そう簡単に死んでたまるかよ」

 お別れも言えないのは残念な気がしたけれど、そう言われるとシャルロッテは納得して素直にデリックの旅の行く末を神に祈ることにした。

小さなスーツケースを抱えて、船を下りるとなんだか変な感じだった。波もないのに足元がぐらぐらと揺れ動いているような気がする。それに知らない港に見知らぬ人々、まるで自分がどこか別の世界にやってきたかのようだ。それなのに潮風の香りだけはフランスの港と何一つ変わらない。シャルロッテはその奇妙な感覚に圧倒されてしばらく桟橋から動けなかった。そのとき、ロウ船長が船から下りてきた。

「まともな職にありつきたいならその格好はどうにかするべきだな。この辺の連中も例に漏れず噂好きだ」言われてシャルロッテはハッとした。布地はすっかり包帯や修繕にあててしまってドレスは足首を隠すどころか少し動けば膝の下で止めたソックスの留め具までが露出してしまうほどの短さだったのだ。改めて指摘されるとシャルロッテは顔を真っ赤にして今すぐどこかに逃げ出してしまい気持ちに駆られた。

 船長は喉の奥で楽しそうに笑ってシャルロッテの肩に自分の上着をかけた。厚い布地のしっかりとした上着で、袖や襟には金の豪華な刺繍が施されている。男物な上、船長が大柄なのもあって上着を肩に羽織ると足はすっかり隠され、裾はどうにか地面にすりびかないギリギリだった。

「……ありがとうございます。船長」

 船長は煙草に火をつけて港に集まった人たちを眺めた。風に乗って漂う煙は上着と同じ匂いがした。

 港は船上で確認した以上の人出があった。船が寄港するまでの間に噂が炎のように広まり、人が人を呼ぶ事態になっているのだ。どうやらそのうちのほとんどはロウ船長に用があるらしくて、先に降りた水夫たちには目もくれず波止場の入り口でじっとその人のことを待っていた。若い女たちは船乗りが危険だということはわかっていたけれど、一目くらいみたって罰は当たらないだろうと、わざわざ波止場の近くに移動して世間話をしている体でチラチラと隠しきれない視線を送っている。それから茶色の柔らかな帽子を被った商人たちは何かいい条件で取引できないかとそわそわして、成金たちは着慣れないドレスやシャツに肩肘張りながらとりあえず名前を売っておこうと目をギラギラさせていた。

 船乗りたちは堂々と肩で風を切って群衆の中を進んだ。

「おい、シャルロッテ! 早く来ねぇと置いていくぞ! それともてめぇもあのいけ好かねぇイギリス野郎みたいにさっさと逃げ出すか?」

 シャルロッテは身をかがめながら男たちを追いかけた。こんな船から女が下りてきたとあらば、間違いなくスキャンダルになると思ったのだ。しかし、ありがたいことに群衆は港のスターに夢中で小娘なんか見向きもしなかった。

「船長はどうするの?」群衆を抜けて、シャルロッテは後ろを振り返りながら問いかけた。こうして離れて賑わい観察すると、ミスター・パリアンテに連れられロウ船長を遠巻きに見ていたあの日を思い出した。あの日に劣らず船長の周りには人が集まり、当の本人は一見して極めて丁寧な顔をして対応している。だがしばらく一緒に過ごしたおかげでその表情の皮一枚下に隠された退屈とあざけりの色にすぐ気がついた。

 じっと船長を見つめているとマルセルが茶化した。「少し前まではデリックの尻を追いかけ回してたのに、いなくなった瞬間、今度は船長か?」

「デリックとはそういう関係じゃないわ」シャルロッテはむっとして唇をとがらせた。男たちはその反応がお気に召したみたいで喉の奥で笑った。

「そう心配しなくたって船長はそのうち合流するぜ。船長が成金の馬鹿どもをあしらっている間に俺たちはたんと酒を飲んでうまい飯を食って馬鹿騒ぎするってわけだ! もちろん船長の金でな! 見たところ、今日は相当時間がかかりそうだ。泣くなら胸でも貸してやろうか?」

「失礼ね。寂しくて泣いたりしないわ」

 大勢の人が船長に視線を向ける中、ただ一人、初老の男だけがシャルロッテに目を向けていた。男はしっかりと手入れされた毛並みのいい馬にまたがり、下品なほど羽振りの良さそうな服を身につけ、ジッとシャルロッテをじっと見つめた。その瞳には貪欲な向上心とある種の賢さが混在している。

 しばらく彼女を見つめて男は独りごちた。「決めたぞ! あの女だ!」


 船乗りたちは港の大通りをまっすぐと南下した。通りには歴史のありそうな古びた酒場や食事処が建ち並び、店のかすれた看板の下には華美な格好をした女たちが座り込んでいる。彼女たちは道を行き交う馬車や人に手首だけでゆっくり手を振って客を探しているようだった。遠くにいてもきつい香水の臭いが鼻につく。

 それからいくつかの店を通り過ぎ、男たちは赤い外装の前で立ち止まった。といっても最後にペンキを塗り直したのは半世紀も前のことで、至るところでペンキが木の筋に沿ってはげて元の茶色がボーダー模様を描き出していた。同じく赤色で染められた看板には黒い文字で店名が書いてあったようだが、すでにかすれて文字の交点しか色が残っていなかった。先に船を降りた男たちはすでに酒盛りを始めているらしく、扉の中から見知った男たちの騒がしい声が聞こえてくる。

 それからシャルロッテと乗組員は存分に宴を満喫した。船長が合流する前からとんでもない賑わいだったのに、船長が一座に加わると宴はますます盛大になった。机の上に乗り切らないほどの豪勢な料理を並べ飲めや歌えやの大騒ぎだ。

 テーブルの上には鶏の丸焼きやポタージュが置かれ、何よりもシャルロッテが感動したのはそのどれもが調理したてで真っ白な湯気が立ち上り、柔らかくてどれだけ噛んでも顎が痛くならないというところだ。山のように盛られたパンだって船の上で食べていたような水分のないカチカチの代物ではなかったし、二ヶ月ぶりに飲むアルコール分のない液体は体の隅々まで染み渡った。どれだけ飲んでも喉が焼かれることはないし、頭が割れるように痛くなることもない。なんて素晴らしいことだろう! 船乗りたちはこぞってラム酒を飲んでいたけれど、シャルロッテからすれば信じられない話だった。たしかに何か物足りない気もするけれど、わざわざ忙しくテーブルと厨房を駆け回る店主を大声で呼びつけてまで欲しいものでもない。

 男たちは明日のことなんてすっかり忘れて勢いに任せて酒をあおった。まさか船でたびたび目撃した姿がまだ自制が効いていた方だなんて思いもしなかった。陸に降り立ち自らを縛り付ける掟がなくなると酒が入った男たちはすぐに熱くなってあちこちで取っ組み合いの喧嘩が起こった。しかし大抵はどちらも千鳥足で殴りつけた拳も空を切るだけだ。それを肴に観戦者はゲラゲラと笑って男たちをあおった。

「おい! バジル! もっとよく狙え! もっと右だ! 俺はおまえにかけてるんだからな!」

「シャルロッテ! おまえも賭けろよ。まだリベンジが済んでねぇからな」

「そりゃ一生かかったって無理な話だ!」どこかからそんな声が上がったのを皮切りにまた新たな幕が切って落とされようとしていた。

「どっちがどっち?」シャルロッテは机の上をのぞき込んで質問した。机の上には二つに分かれた金貨の山があった。金貨の枚数を見る限り人気はかなり拮抗しているみたいだ。「セリオに賭けるわ」

 普段なら野蛮な殴り合いを好かないシャルロッテも今日だけは特別だった。何しろ二人ともこれほどフラフラなのだから、拳が当たったところで血が流れるはずもない。きっとどちらかが床に大の字になって大いびきをかきはじめて決着がつくに決まってる。だとすればなんて安全な決闘だろう! シャルロッテはしばらくそのテーブルに留まり結末を見届けた。二人はほとんど同じタイミングで床に横になったがコンマの差でセリオの勝利だった。

 それからシャルロッテはさも酒場に活気がありすぎて声が聞き取れないからという体でマルセルの正面に腰を下ろした。マルセルは声を張り上げ、上機嫌で誇張した武勇伝を語っていた。だけどそんなことはどうでもよかった。申し訳ないけれど話にはまったく興味がなかったし、シャルロッテはマルセルの正面に座りたかったわけではなくて、ただ船長の隣に座りたかっただけなのだ。自分的にはかなりさりげなくできたと思ったけれど、はたから見たらあまりにもあからさまだった。

 シャルロッテはマルセルの話に聞き入るふりをしながら横目で船長の様子をうかがった。別れる前にどうしても聞いておきたいことがあった。つまり――あの落雷のあと何を囁いたのか、それから口づけの真意も――シャルロッテは思い出して頬を赤く染めた。意識しなくても唇が小刻みに震えて背筋がぞくりとする。でもいったい何をどうやって質問すればいいのだろうか。口にしようとすればするほど、唇は貝のように閉じてどうしようもなかった。それにわたしはどんな言葉を望んでいるのだろう?

 ロウ船長はシャルロッテの視線に気がついて黒い瞳を向けた。それからわずかに目を細め、彼女の口元に葉巻を持っていった。シャルロッテは少しためらったけれど船長の勧めを断るなんてできるわけがなかった。彼女はたどたどしく両手の指先で葉巻を支え、恐る恐る口にして煙を吸い込んだ途端に激しくむせこんだ。船長はそれを見ながら楽しそうに笑った。

「ゆっくり吸い込むんだ」

 何度かそうしているとクラクラしてきて、シャルロッテは船長の肩に体を預けた。葉巻のおかげで喉がボロボロになって疲れ果て、何を聞こうと思ったのかすら忘れてしまった。だけどそれでいいような気がした。体を支えてくれる肩はたくましく心地よい匂いがした。潮と煙と男の匂いだ。見上げる横顔は彫りが深くて彫刻よりも美しく整っていて、耳に届く低音が胸の中で波紋のように広がる。黒い瞳は自分ではないどこか遠くに向けられている。でも、そんなことどうでもよかった。シャルロッテはこの心地よい時間が永遠に続くように願った。

 そのとき店主が船長に話しかけた。恐る恐るという言葉がこれほど似合う喋り方もなかった。両手を体の左右で固く握りしめ聞き取れないほど言葉尻が小さい。

「お楽しみのところ申し訳ございません……。外にぜひとも話がしたいという方がいらしていまして……」

「誰だ?」

「それがおそらく……お連れさまに……」

「わたしに?」

 店の外には港でシャルロッテを凝視していた初老の男が立っていた。

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