13章
13-1
エーヴ・パリアンテから送られた長い手紙を読み終えるとシャルロッテは時計に目をやって食事会にはまだしばらく時間があることを確認して庭に向かった。庭は海に面している割にかなりうまくやっている方で庭師の努力があちこちにみてとれる。芝生は緑と黄色の中間色で生き生きというには及ばないが一面を覆い尽くしている。花壇には暖色の大きな花弁をもつ花がまばらに植えられている。昔から畑いじりが好きだったシャルロッテはすぐに庭師の苦悩を察した。本当ならば視界を遮るように防風林を置いて、その内側で花壇にあふれんばかりの花を育てたいだろうに、けれどもそれはこの屋敷の主人の言いつけによって禁止されていた。そこで庭師は苦肉の策として、大ぶりの花をまばらに散らすことにしたのだろう。たしかに花の数は少なかったが一輪一輪が見事なことや背景の海とコントラストが効いていることもあって決して寂しいとは思わせない工夫がされていた。
シャルロッテは庭と海を仕切る白いフェンスの上に両手を重ねた。目の前にはどこまでも続く穏やかな海が広がっている。
エーヴ・パリアンテから久しぶりに届いた手紙は同じことの繰り返しで、その九割が愚痴で埋め尽くされていた。残りの一割はわずかながらの祝福だ。もっともそのわずかながらの祝福も手紙の構成のせいで追伸まで読むころにはすっかり頭からなくなってしまうのだが。
手紙はこう始まっている。
シャルロッテ・ビリーへ
あなたが新天地で家庭教師をしているとお父さまから聞いたときには驚きのあまり声も出ませんでした。わたしもできることなら貴族の責務を放り出してあなたの後に続きたいくらいです――というのも王室の舞踏会に招待されたものだからマナーとかお作法とかをたたき直されてるの。挨拶の手首の角度まで指定されるものだからもううんざりよ。だけどこれも名誉だと思ってじっと耐え忍びます。
それにしてもいったいどういう経緯で雇用されたの? 見ず知らずの後ろ盾もないような娘を雇うくらいだからきっと人道に厚くてほどよくいい加減な方なのだろうと勝手に想像しているけれど……とにかく人並みの扱いを受けていることを願っています。
こうしてお手紙を書く気になったのは、世界を揺るがすような衝撃的な事件が起こってわたしは(それからわたしのお友だちも)それがあなたのせいだと確信しているからです。きっとあなたは否定するでしょうけど、そうじゃなかったらどうしてあの心優しい忠君の紳士であるはずのロウ船長がわたしたちを見捨ててイギリス軍に下るいうの? それも今や敵艦を指揮する立場にあるだなんて信じられないわ! 今まで仲間だった人たちに対して情け容赦もなく攻撃できると思う? 少なくともわたしは信じられなかったわ。でも実際に被害にあったっていう人が山のようにいるのよ。悲しいことにね。
それにそのせいできれいな宝飾品もまるっきり届かなくなったし、港は戦いに敗れたみたいに静まりかえって本当に張り合いがないの。
大切なものはなくなってから気付くってよくいうけれど、本当にその通りよ。ロウ船長がどれほどの人格者だったか今なら深く分かるわ。言ったら悪いけど、ロウ船長以外の船長たちは国民の風上にも置けないようなクズばかりよ。小さな頭には自分の利益のことしかなくて、英国船からは尻尾を巻いて逃げちゃうし、ひどいときだと自国の船同士で略奪してたりするんだから。それに時々商品が手に入ったとしても自分の隠し倉庫にしまって値段を不当につり上げようとするのよ!
リアーヌお姉さまは一日中部屋に閉じこもって亡霊みたいにメソメソと泣くばかりでわたしまで気がおかしくなりそう――絶対に秘密にしてほしいんだけど、いくら悲しいからってご飯のときまで持ち出すのはやめてほしいものよね。妹の勤めだと思ってなぐさめはするけれど、おかげで毎食冷め切ったご飯を食べる羽目になるんだから。それからお父さまも最近は機嫌が悪いのよ。もちろんロウ船長にもカンカンだし、それを聞いてまたリアーヌが泣くの。でもお父さまはリアーヌが泣くのを許そうとしないし、あまりに娘が心を痛めてるからってお母さままでもが病みはじめて――とにかく港だけじゃなくて家の中まで険悪な雰囲気です。
話し相手もいないからわたしはずっと考えていたのだけれど、本当にどうしてこんなことになったんでしょうね?
きっとわたしはアメリカ行きの船上で互いによくない影響を与えた結果だと予想しています。他の人の予想はもっと直接的であなたがロウ船長をかどわかしただとかアメリカで魔女に魂を売って彼を操っているだとか――これはアナベル夫人の見解です。わたしはそこまでは思っていないわ。本当よ。だからたとえ真実だとしても呪わないでね――とにかくわたしは真実が知りたいのよ。もし機会があればロウ船長にどうか戻ってきてくださいとお伝えください。港がロウ船長のことを切望しているってことも。中には怒り狂って捕らえ次第処刑しろだなんて言う人もいるけれど、海の上だって陸の上だってロウ船長を捕らえられる人なんていると思う?
手紙はこの調子で延々と続き、最終的には便せん四枚にも及んだ。その枚数の割に内容は薄く、要約してしまえばロウ船長が去ってしまってわたしが不利益を被っているのは巡り巡って全部あなたのせい。という文面だった。旧友からの手厳しい手紙を読んだところでありがたいと思えどこれっぽっちも辛い気持ちにはならなかった。きっとエーヴがこのことを知ったならさぞ落胆することだろう。
船長が英国軍に入ったというのは本人の口から聞いていた。それも三ヶ月前に。手紙が届くまでの日数を考えてもフランスの港より自分の方がその事実を早く知っていたことにシャルロッテは機嫌を良くした。それにシャルロッテはエーヴが知らないような裏事情も知っていた。
ロウ船長からその事実を聞かされたときには驚きのあまり声もでなかった。
「どのみちじきに戦争も終わりだ。そろそろ戦勝国についた方がいい頃合いだろう。それに向こうの美しい女王陛下は寛大にも恩赦までだすと言ったんだ」
「そ、それじゃあ今は船には乗ってないんですか?」
「いいや」船長の話によれば、当初用意されたポストは船の下働きだったらしい。イギリス政府もロウ船長の実力は高く買っていたが、裏切りの可能性も考えてのことだった。それに今まで散々自分たちを困らせてきた男を顎で使ってやろうという魂胆もあったのだろう。
船長が下働きだなんて想像もつかなくてシャルロッテは目を丸くした。これほど命令されるのを嫌いそうな人も他にいないというのに。軍艦の船長に〝サー〟とか〝キャプテン〟とか言っているのはなおさら想像ができなかった。
しかし彼らの企みはうまくいかなかったのだ。ロウ船長の噂はもちろん英国にも広まっていて知らない者なんて誰もいなかった。そうなると水夫たちは上官の命令よりもロウ船長の判断をしきりに聞きたがり、上官が何か指示をだす度にロウ船長に伺いをたて、彼が苦言でも呈そうものなら誰もが業務を放棄して水夫たちはほとんど使い物にならなくなった。
そこで扱いに困った将校たちは〝名誉船長〟とかいうよく分からない肩書きを授け、船長補佐という立ち位置に彼を置いた。だが今や船の指揮権はほとんどロウ船長が握っているのと同じらしい。
つまり船長は今でも船長というわけだ。その事実にシャルロッテは無性にホッとした。
一方のシャルロッテはこの地で住み込みの家庭教師として日々を過ごしていた。雇い主は初めて港にやってきたあの日、船長を待ち構えていた新進気鋭の新貴族だ。貿易商を営んでいてかなりやり手であることは間違いなかった。人と商品を見る目に長け、ますます成り上がってやろうという意気込みがある。その姿はほんの少しだけ父に似ていた。
あの日はちょうど貴族の娘につけるような家庭教師を探していたところだった。シャルロッテを高く買っているのは主人だけで、家柄のいい妻とその使用人は年老いたベテランの家庭教師を推したが最終的には娘の意見が尊重された。
「わたし、この方がいいわ」
そのときはどうしてわたしが? という気持ちでいっぱいだったシャルロッテもあとから本心を聞けば納得せざるを得なかった。
「ああ、本当によかった! わたし、あのおばさんだけは絶対に嫌だったのよね。だってあの人ったら時代錯誤もいいところ! この間お話したときだって膝の上に愛用の鞭を置いてね――信じられる? あんな凶器がご愛用なんですって――それにビシバシ指導するとかね。あれは比喩とかじゃなくて文字通りビシバシってことよ。一日に百発はお見舞いしないと満足できないって感じのお顔だったもの。それに比べてロッティは優しいしわたしの目に狂いはなかったってわけ」父親に似て目利きの鋭い娘だった。それにシャルロッテから見てもチャーミングで愛らしい教え子だ。
あれからというもの、船長は半年から一年に一度のペースでシャルロッテの元を訪れている――と、いうと上出来な気がするが用があったのはこの家の主人でシャルロッテはそのおまけにすぎない。船を降りてなお繋がりが残っていて嬉しいと思う反面、いずれ存在すらも忘れて思い出だけの存在になってしまうことはなんとなく分かっていた。彼はどこまでも海の人で、わたしは陸を選んだのだ。それでも未練がましく港町で船長が忘れずにいてくれることを願っている。
前回の訪問で船長は父の遺品を届けてくれた。本人は「そのうち誰かが見つけただろう」と言っていたけれど、彼が気にかけて探し回ってくれたのは間違いなかった。金目の物はすべて奪われたあとで、手元に戻ってきたのはちょっとした服の切れ端と父が愛用していた手帳だけ。それがどれほど残酷で慰めになったかはあえて記す必要もないだろう。シャルロッテは一日中泣き続け、その間船長はずっとそばにいてくれた。だがこの屋敷の主のように「実の娘だと思っている」とか「家族同然だ」とかそういう暖かい言葉をかけてくれる訳でもなければ、気弱な妻のように一緒になって泣いてくれるわけではなかった。船長はたった一度、崩れ落ちて粉々になりそうなシャルロッテの体を力強く抱きしめ、それから彼女が泣き疲れて眠りにつくまでまんじりともせず、部屋の片隅で煙草をくゆらせながら窓際の椅子に座りじっと海を臨んでいた。そのおかげで、シャルロッテが眠りに落ちた頃には部屋は潮の香りと煙草の香りと大好きな人の香りでいっぱいになった。船長が帰った後でもその残り香は決して消えやしなかった。
「だけどさぞうんざりしたでしょうね――このお屋敷が嫌になってなければいいんだけど」シャルロッテは目の前に広がる広い海を見つめた。この庭は海に面した切り落としの崖のようになっていて、フェンスのところまでくると視界には一面の海しか映らなくなる。ここに立つといつだってシャルロッテはあの短い二ヶ月を鮮明に思い出すのだ。海はいつも同じ色をして水平線までひたすらに同じ光景が広がっている。
まだほんの少女だったシャルロッテにとって、あの日々は忘れがたい思い出だったし、海の上で植え付けられた強烈な感情はどうしたって取り除けそうにない。
「けれどきっと影響を受けたのはわたしだけね」この手紙のように自分の存在が彼にとって力を持てたのならどれほどいいだろう。そんなことができるのなら魔女とだって契約したい。それかほんの少しでも勇気が湧いてこの気持ちを吐露できるのなら。もしくは別れの瞬間に「次はいつ会えるの?」と聞けるなら……。
爽やかな潮風が頬をなでる。どうやらどこかの船が港に寄港したらしく、港の方から独特の賑わいが聞こえてきた。その喧騒を耳にするたびに、シャルロッテは目を閉じて想いを馳せ、潮風に問いかけるのだ。
「船長は今どこにいるのかしら? まだわたしのこと覚えているかしら?」彼はわたしの気持ちなんて何も知らないし、知っていたところでなにも気にしないだろう。だけどそれでいいのだ。
「どうかあの人の進む道に幸がありますように」
きっとあの人は今日も海の上にいるのだから。一生伝えるつもりのないこの思いも口に出せない何もかもすべて潮風が伝えてくれることだろう。いつの日か、どこか遠くの港から気まぐれな風に乗って答えが届くことを祈って。
了
潮風に問う 絹地 蚕 @kinuji_kaiko
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