6章
6-1
その日は船乗りにコテンパンにされて、シャルロッテはまだ陽も高いうちから安住のベッドに逃げ込んだ。こうして部屋に閉じこもっていても外から男たちの馬鹿笑いが聞こえてきて嫌になる。ベッドがかび臭くてたまらないのも気にせずにシャルロッテはベッドに突っ伏してシーツをきつく握りしめた。水夫たちのあざけりが耳に入るたびブルーの両目から絞り出すように涙がこぼれでて薄汚れた寝具を濡らした。
間違いなく三十分はめそめそして、外の話題もすっかり切り替わったころ、シャルロッテは泣き疲れてようやく眠りについた。船に乗ってからというもの、毎日ラムを口にしては気絶するみたいに眠りについていたから長らく夢を見ることもなかったが、今日だけは目を閉じるともうずっと昔のことに感じる光景が広がっていた。
気が付けばそこは荒波のうねる大海原ではなくて家の狭い庭園だった。足元には青々とした草が生い茂り、花壇には色とりどりの花が咲き乱れている。庭園をしきるフェンスの奥には穏やかな海が広がっていたが、潮の香りなんてこれっぽっちもなく花の甘い香りだけがすべてを満たしていた。空はどこまでも広く澄み渡り、雲一つない晴天だ。
新居ではたったの一度だってこれほど見事に咲き誇る花は見たことがなかったが、この穏やかな空間では実に当たり前のことだった。花は季節なんて関係なく年中愛らしく咲き乱れ、
「お母さんったらまたお庭に出てる」花壇の前には淡い紫色のドレスを身にまとった貴婦人が一人かがみ込んでいた。それは懐かしい母の後ろ姿だった。淡い茶色の髪をシニヨンできっちりとまとめ、陶器のような白い首筋にはショールを巻いている。ああ、だけど気に入らない。まるで病人のように首筋には縦に線が走り、娘の頬を撫でる手も肉がなく関節が浮き出ている。
「無茶するとお医者さんに怒られるわ」と、シャルロッテは言った。それにしてもなんで怒られるのだろう? たしかに母は強壮な方ではないけれど、年がら年中病に伏すほどひ弱でもないのに。母の手は温かくて心地がいい。
「カボチャの様子を見てたのよ。そろそろ熟れる頃合いでしょう。来週にはきっとパイを作りましょうね。アナベル婦人にもお裾分けして。それともベリーの方が好き?」
「お母さんの料理ならなんだって好きよ。ねえ、お父さんが呼んでるの。もうお腹が空いてどうしようもないのよ」笑いながらいうと、母も笑いながら返した。
「まぁ、本当にしょうのない人ね。それならお昼にしましょうか。おいで、シャルロッテ」
食卓には奇妙ないでたちの父親が座っていた。彼はこの場に不釣り合いなことに肩に猟銃をひっさげ、まるでたった今、生家の森から帰ってきたみたいに空いている手で野ウサギの長い耳をひとまとめにして掴んでいる。ウサギは危険を察知して身じろぎ一つせず亡骸のふりを続けていた。
「やっときよったな。さぁ席につけ」父は短気を装いながら待ちくたびれた、とばかりに短く命じた。けれど母も娘もその顔がこの光景にすっかり満足して口元に小さく笑みを浮かべていることに気がついていた。それなのにおかしなことに父だけは一向に自分の表情に気がつかないのだ。本人だけはいつもいかめしく威厳に満ちていると思い込んでいる。優しい女たちはもちろん事実を指摘しなかった。ただいつも互いに目配せして小さく笑い、それからますます愛しく思うだけだ。
「どうやらまたわしの知らんところで通じあっとるみたいだな」
「ご冗談を。いつだってこの家の中心じゃないですか。お待たせいたしましたわ、ビリーさま。シャルロッテのプレゼントを考えていたらあっという間に時間が経ってしまったんです」
シャルロッテが少し目を離した隙に父の肩から猟銃はなくなり、野ウサギは立派な雄鶏に変わって白い陶器の皿に盛り付けられた。焼きたての肉から白い湯気がもくもくと宙にのぼって消えていく。机の上に乗りきらないほどの料理が次から次へと運ばれ、ついに置き場がなくなると部屋の端にひかえていた使用人は両手に料理を抱えたまま困惑した。そうだ、今日は誕生日だ。
「全部食べていい?」
「まったくがっつきおって。いつかは貴族の令嬢になるというのに……」父はいつもの口癖を繰り返して不満げな顔をした。
「でもシャルロッテはまだまだ成長期ですよ。お花も人も健やかに育つのが一番ではありませんか。それに時期がくれば女なんて食べたくても食べられなくなりますわ。わたしもあまり食欲がありませんもの」そういう母の前に置かれた皿には一つの料理も取り分けられていなかった。
シャルロッテは心配そうにつぶやいた。「だけどお母さんは食べないと……」ちらりと母に目をやると、その腕はもはや棺に横たわる亡骸と同じにみえた。全身から肉がすっかり落ちて、薄い皮だけが無理に張り伸ばされて筋に合わせてシワをつくっている。そんなことをいう間にも頬の肉がそげ落ち、
その瞬間、地響きのような音が鳴り響き、美しい壁が剥がれ落ちるようにボロボロと崩れ始めた。優しい夢が終わろうとしていた。あれほど美しかった母は机の上に体を伏せてひきつけと呼吸困難を起こし、父は忽然と姿を消した。シャルロッテは慌てて母に駆け寄ったが、今も昔も自分にできることなんて何一つもない。
そのさなか屋敷の扉が死神によって何度も激しく叩かれた。ドン、ドンという音は屋敷が崩壊する音と入り交じり次第に大きくなり、早く母の魂を明け渡せと言わんばかりに連続した音になって――シャルロッテは無理に覚醒して額の汗と涙を拭った。
変なタイミングで覚醒したせいで頭が突き刺されるみたいに痛んだが気にしている場合ではなかった。心臓が速いペースで波打ち、全力で走ったあとのようなぐったりした疲労感が全身に広がる。洋服はぴったりと汗で体に張り付いて、肩を激しく上下させているのに頭にはまるで酸素が行き届かない。
それに悪夢から逃げ出したはずなのに死神が扉を叩く激しい音がどこかから聞こえて、シャルロッテは今にも悲鳴をあげて泣き出したくなった――きっとこれは罰なのだ。父の無念を晴らそうともせずに、責務を投げ捨てて船に逃げ込んだわたしへの……。きっとそうに決まっている。わたしは親不孝者で呪われたんだわ。お母さまの命だけでは飽き足らず、わたしの命までも狙ってるんだわ! ああ、でも抵抗なんてできない。この船に乗り込んだ理由に保身がなかったとは決していわないし、父の名誉をかけて戦わなかったのは本当のこと。本当ならば名誉と誇りと共に怒り狂った民衆に殺されるべきだった。そんなことは分かっているのだ。きっと勇気ある人ならそうした。だけどわたしはそんなことできなかった。あの閉鎖的な港からすぐにでも逃げ出したかったのよ! 武器なんて持ちたくなかった。戦いたくもなかった。ただ怖かったから逃げたかっただけ。あの場所から、父が長年をかけて築いたあの場所から逃げたかった。生きて父を探しにいくだなんてただの方便に過ぎないと、少し心をのぞけばわかることなのだ。でも、そう思うと醜い自分に耐えられなくなるからシャルロッテは必死に言い聞かせてきた。これは敗走ではないのだと。自分は戦えなかったのではなくて、そうする必要がなかっただけだと――けれど少し冷静になればその音が死神の足音なんかではないとすぐに気がついた。この音は扉の外で水夫たちが慌ただしく走り回っているだけだ。
「おかげでひどい夢をみた……それにしたって今度はいったい何の騒ぎなの?」
船内が騒がしいのはいつものことだけど、なんだか今日は普段と様子が違った。誰もが雄叫びをあげ、大きな足音を響かせながら船内を駆け回り、地鳴りのような音が船を揺らし、何もしていないのに天井から土埃が落ちた。突然壁が崩れ始めたのもこれが原因ね、と冷静になった頭で悪夢を分析しながらシャルロッテはそっと扉を開けてみた。
外はまるで戦争でも始まったみたいな異様な熱気だ。普段はシャルロッテをからかわずにいられない男たちも今日ばかりは視界にも入らないらしく、大声を張り上げながら甲板へと駆けていく。何かあったのだと思うと一旦は落ち着いた心臓が早鐘を打って、寝起きにもかかわらず頭が冴えていた。男たちの酒焼けした声は張り上げて反響するとかなり聞き取りづらく、聞こえた言葉は「英国」だの「獲物」だの「取り分」だのと断片的なものばかりだ。聞き慣れない単語たちが脳内でつながることはなかったが、とにかく上で何かが行われていることは確実だった。
次の瞬間にはその予想を裏付けるかのように頭上から船長の命令が聞こえてきた。
「おまえら仕事だ! 帆を下ろせ!」船長が声を張り上げると船員たちは喜々として雄叫びを上げて指示を繰り返した。「帆を下ろせ!」
「弾込め!」
そして次の指示が聞こえたかと思いきや四つの巨大な爆発音とともに船が大きく横に揺れて――まさかそれが大砲の音だなんて思わなかった――シャルロッテは飛び上がり住み処を荒らされたねずみのように慌てて地上へと
それからシャルロッテは衝撃的な光景を目の当たりにして絶句した。甲板の上にずっと野ざらしにされていた黒光りする砲台が爆発音と爆風をまき散らしながら鉛玉を打ち出していた。重い砲弾は空に白い軌跡を残しながら弧を描いて飛んでいく。その先には。その先には一隻の商船が浮かんでいた。三十トンは積めるような巨体で、船尾には色鮮やかな
それに気がつくとシャルロッテは途端に恐ろしくなって両手を胸の前で組んで必死に祈った。「神さま! どうかあの人たちをお助けください! どうか当たりませんように……!」
砲弾は次から次へと宙を舞い、英国船を通り越してさらに先に落ちたり近くに落ちたり。けれどどうやら乗組員の態度を見る限りはなから当てるつもりもないようだった。角度の調整はおろか、着弾点の観測すらしていない。男たちは戦場で無駄に玉を消費する戦士のようにハイになって、一発撃つと喜々として次の準備を始めた。しかし狙わないからといってたまたま当たらないとも限らない。ろくに冷やされない砲台はとんでもない熱をもって膨張して毎回異なる場所に鉛玉を落とした。実際何発かは英国船のすぐ隣に着弾して大きな水柱が船を覆い尽くした。
砲弾が撃ち出されるたびにシャルロッテは肝を冷やして恐ろしさに心臓が凍りつきそうになった。そんなところで立ち尽くしているくらいならどうか今すぐにでも舵を切って逃げ出して欲しいくらいなのに、英国船は動力を失ったみたいにまるで動こうとしない。
「どうして逃げ出さないの?」シャルロッテはじれったくなって思わず船の縁に駆けだした。今だって船が何マイルも先にみえるくらいなのだから、今からでも必死に逃げれば水平線の白い霧の奥に逃げ込んで助かるような気がするのに。思わず口から漏れた疑問は珍しいことに船長が回答した。
「逃げ切れるわけがないだろう。あれはどんなに頑張ったってせいぜい三ノットがいいところだ。今も動いてるのが奇跡だな。おいセリオ、逃がすなよ!」
「アイ・アイ・キャプテン!」船橋の上から男が威勢よく返事をするとシャルロッテは慌てて階段を駆け上がり操舵手に詰め寄った。船長に言い返すのは恐ろしかったけれどそれ以外なら大して怖くもない。
「追いかける必要があるの? こんなのってひどいわ。わざわざこんな恐ろしいことしないで逃がしてあげたっていいじゃない! お願いだからやめましょう」
「交渉したけりゃ船長とやるんだな――もっとも、万に一つも聞き入れられる可能性はねぇけどな」
「だめよ、こんなの――」その間にも激しい爆音と共に新しい砲弾が弧を描き数マイル先で水面に着弾する。今度は船尾側に落ちた! やはり時間の問題だ。シャルロッテは耳鳴りで自分の声量も分からなくなりながら叫んだ。「もし砲弾が商船に当たったらどうするの!?」
「どうする? そんときや運が悪かったってことだ! 日頃の善行が足りてねぇんだろ。そんなの俺の知ったことか。まぁ――その泣き顔に免じて一つ教えてやるなら、砲撃はじきにしまいだ。自分が誰に襲われているかちゃんと理解してりゃあ、下手な真似はしねぇよ。そのうち諦めて投降する気になる。俺たちだってあの船が沈んだら困るんだ――おい、今のは惜しかったな!」セリオは砲弾が飛んでいった方角を見つめながら笑った。シャルロッテはもう恐ろしいやら何やらで両目に涙がいっぱいにたまって、もはや着弾点を観測することすらできなかった。きっと次こそは当たってしまう。両手で目を覆い尽くし、体の芯に響くような爆音に怯え、当面はセリオの感想だけが状況を知る唯一のすべとなった。しばらくしてセリオは強引にシャルロッテの両手を引き剥がして彼女を船のへりに押しやった。「おい、見ろ。やっと覚悟を決めたぞ。向こうの船長もなかなかの切れ者だな。一箱だろうと積み荷を投げ捨てたら今度こそ船ごと海に沈めるところだぜ!」
空には砲弾の白い軌跡が何本も残り、はじめの方の軌跡は薄くなってほとんど消えかけている。イギリス商船は水平線の白いもやの中でゆっくりと船首をこちら側に向けていた。シャルロッテはその光景にほとほと絶望してしまった。
「一体これからどうなるの?」私掠船の本分が略奪であることは知っていたが、果たしてその方法は知らなかった。まさか乗組員を皆殺しにするのだろうか? 海賊は港町を焼き払って金品を強奪すると聞く。だったらもしかしてこの人たちも……。そう思うとシャルロッテはますます商船に逃げ出してほしい気持ちでいっぱいになった。敵国だからと言ったって父と同じ商人だ。シャルロッテは両手を胸の前で組み、どうか向こうの船長に神の啓示が訪れることを願った。
しかしよく考えてみれば、たとえ自分が商船の船長だったとしても、相手がロウ船長だったなら無抵抗の降伏を選ぶかもしれないと思った。命まで奪われるのかどうかは知らないけれど、抵抗したら間違いなくもっと恐ろしい羽目になりそうだ。横目でのぞいたロウ船長の顔には不敵な笑みが浮かび、肩にかけた上質なコートは風にはためいてなんだかより一層凶暴そうに見える。もし少しでも抵抗したなら容赦なく船を沈めにかかるに違いない。
それに加えて――シャルロッテは知るよしもないことだったけれど――イギリス船はこの大海原で道を失い、海の流れも休憩できる小島もわからず、食糧もほとんど尽きかけそうな状態だったのだ。この私掠船の主が名の知れた男だというのは商船の船長に限らず水夫たちにもすぐにわかった。おそらく抵抗が無意味であることも。ほんの少しのいさかいはあったにしろ、話はすぐにまとまった。水夫たちは帆柱につながる縄梯子にのぼりながら洗い立てのシーツみたいな純白の布を振り回している。
「ピストルは構えとけ」
船長はそれを見るなりすぐに船員たちに新たな指示を出した。短い言葉でありながらその言葉はそれなりに恐ろしくて、これから起こることを的確に想像するに足る言葉だった。
遠くから見れば大きくてさも立派にみえた船もこうして近くで見ると見劣りして、船長の言った言葉がようやく理解できた。風を受ける帆はところどころに穴が空き、補修すらされていない。その上、この巨大生物を動かす動力であるはずの船乗りたちはそのほとんどが疲弊の面持ちを浮かべていた。その疲れ切った表情だけでどうやらここまで流されるのに相当な苦労があったのだろうと悟らせた。
ついに短い板一つかませば行き来できるくらいの距離まで近づくと、商船の船長は甲板にでて両手を頭の高さであげた。初老の男だった。髪も髭も真っ白だが、この人も間違いなく海の男らしく弱々しいところはこれっぽっちも感じない。
「抵抗する気はみじんもありませんよ。エドワード・ロウ船長――それにしたって名が知れているというのはそれだけで大きな武器ですな。たとえそれが悪名であってもそれだけで反骨心を折れるというのですから」と、言いながら初老の船長は仲間たちをぐるりと見回した。そのうちの大半はくたびれ果てて顔をあげようともしないが、一部は納得がいかないという風にロウ船長をにらみつけている。その大半は成人したてみたいな青年だ。今にも腰に差したピストルで脳天を撃ち抜いてやりたいほど気がたっているのに、すんでの所で抑えられているのはこの下衆たちと同列になってたまるかという思いが大きい。
初老の船長は彼らを押しとどめるのが何よりも大変だったと言わんばかりに口元につかれた笑みを浮かべた。
「もちろん一悶着ありましたが。必要なら武器もこの場にすべて捨てさせましょう」商船の船長はずいぶんと裕福そうな人だった。召し物は荒々しい航海の途中だとは思えないほど上質で、社交界で何度もそういう服を目にしたことがあった。それもそのはず、このシドニー・スラットリー船長は古くからのイギリスの名士だった。目の下には隈が刻まれ、おそらく出港したときよりもシワが濃くなってはいたが、生まれついての立派な性分というものが全身からあふれ出ている。少なくとも彼の態度は投降した人のようにはみえない。口ぶりもまるで旧知の知り合いと再会したようなもので、はたから見ている分には怯えや恐怖なんてものはこれっぽっちも感じられなかった。それどころかこの船長からは
その様子は確実に相手に伝わり船員たちの心に火をつけた。男たちは「これだから貴族は嫌いだ」と言わんばかりに床に唾を吐き捨てた。
シャルロッテはその会合をヒヤヒヤしながら見つめながらも、不屈の態度に拍手を送りたくなった。そういう性質をさして人は立派だというのだろう――賢いかどうかはおいて置くにしたって。少なくとも人の商品を強奪して生計を立てているこの人たちよりかははるかに立派だし、それに加えて父と同じ商人ということもあって漠然とした親近感があった。
「物分かりがよくて助かるな。ぜひともそうしてもらおう」
「全員、武器を地面に落とせ」
男たちはわめき立てることもなく粛々と武器をベルトから外して床にたたきつけた。それを見るや船員たちは薄い木の板を船と船の間に橋渡しして次々と船を渡っていく。商船に乗り込んだ男たちは無抵抗の船員たちにわざわざ肩をぶつけたり罵声を浴びせたりしながらゲラゲラと笑って船の内部に侵入した。
「まるで野蛮人だな」スラットリー船長はわざわざ聞かせるために独りごちたが、ロウ船長はそんなことまるで気にしないとばかりにうなるように笑った。
「否定する気も起きないな。第一そっちの方が金になる。それから貴金属も頂こうか」船長は野蛮人らしくサーベルを取り出して男のベルトにつながった立派な懐中時計を指し示した。スラットリー船長は金具を外すと懐中時計を床に放り投げた。まるでこの程度の損失、床にはいつくばってそれを回収する姿が見られるのならば惜しくないとでも言わんばかりだ。
スラットリー船長は船員たちに目で促したが、今度は武器を下ろした時ほどすんなりとはいかなかった。男たちは顔を見合わせて一様に渋い顔をした。というのもやり手の商人ほど稼いでいない水夫たちからすれば貴金属があしらわれた品なんていうものは多かれ少なかれ思い入れがあって数え切れないほどの思い出がある。
「結婚指輪もか?」苦しげに質問した男をみて副船長はにやりと笑った。
「おいおい! 馬鹿なことを聞くなよ。指がなくなったら元も子もねぇだろ。それともてめぇも俺の仲間になるってか?」と、いいながら彼は小指と薬指のない奇妙な手を男の目の前にひらひらとかざして粗野な笑い声をあげた。船員たちはそれを見るなり――何が楽しいのかシャルロッテにはさっぱりわからなかったけれど――呼応するように笑った。男はしばらくためらってから指輪に口づけして名残惜しそうにそれを手放した。
「なぁ、船長さん……これだけは勘弁してくれねぇか? 妻と子供の形見なんだ」
「さすがの俺でも首が飛ぶのはちと痛ぇな!」
シャルロッテは男たちが激しい葛藤の末に大切なものを投げ出すのをまるで我がことのように呆然として見つめていた。どの顔にも苦しみの色が広がり、涙を流すこともできないほどの深い絶望が嫌でも伝わった。今や、くたびれた商船の船乗りたちはさらに気力を失い、目を離したらどこかへ消えてしまいそうな感じがあった。
シャルロッテは首にかけたガラス玉を強く握りしめた。もしもこの大切なお守りがむざむざと奪われたら……と、想像するだけで絶え難い痛みが全身に広がった。
「ひどすぎるわ……こんなの略奪じゃない。どうしてこんなむごいことができるっていうの?」シャルロッテはロウ船長が先ほどまでかなり残虐な瞳をしていたことも忘れて矢継ぎ早に質問した。「この人たちをどうするの? まさか殺すの?」
返ってきた答えはシャルロッテは震え上がらせるに十分だった。「だったら?」船長はうっとうしいとばかりに短くドスの利いた声を発した。そんな態度で挑まれるともはや二の句をつぐ余裕はなかった。もう一言でも彼の気分を害したらきっと最初の餌食になってしまう。
「だけど……だからって……」シャルロッテは困り果てて今日何度目かの涙をその目に溜めた。今朝から泣きっぱなしで目の奥がズキズキと痛む。「だからって殺戮を黙ってみているわけにはいかないわ……ああ、どうしよう……」何があってもそんなこと許されるべきじゃない。だが弱虫で、意気地なしで、ちっぽけな体は石のように固まって動きそうになかった。足は棒のようだし、頭の中は何もできない自分に対する自己嫌悪と義務と恐怖がないまぜになり、心を落ち着かせるために流れ出た涙をシャルロッテは手首の内側で拭った。いつだってどこだってシャルロッテの涙に気を払う人などいないものだが今日だけは違った。
「ロウ船長、一体どうして荒くれ者の船にこのような女性が乗っているのかはさておくとしても、あまり女性を怖がらせるものではない。お嬢さん、不安に思う必要はありませんよ。もう金目のものはすべて渡してしまいましたからな。こちらを傷つける必要がないというものです。何しろ――実に信じがたいことではありますが――この恥ずべき悪行は彼らにとってビジネスですからな。さぁ、これを使いなさい」
シャルロッテはスラットリー船長のハンカチで涙を拭いながら、今度は感動の涙を流すかと思った。同じ船長なのにどうしてこれほどまでに差があるのだろう! かたやロウ船長は道徳など反吐がでると言わんばかりに眉尻を下げて口元に呆れた笑みを浮かべている。もはやここまで違うと育ちがどうこうとかいうレベルではない。やっぱりこの船長は悪魔の親玉なんだわ。高貴な人がいるところでは馬脚をあらわさないところなんてまさしく悪魔そのものじゃないか! 丁寧なお伺いで人の心をまどわせ、弱みを引き出し、脅し、利用し、価値がなくなったと思えば未練もなく切り離す。好きなものといえば女と金だけ!
だからこそ、ロウ船長がスラットリー船長の目に見える挑発に制裁を加えないが意外といえば意外だった。悪魔は大体おごり高ぶっているものだし、プライドを傷つけられれば喜々としてピストルを抜きそうなものなのに。その理由が思いついた頃には心優しいスラットリー船長のおかげで涙もすっかり収まっていた。きっとこの悪魔は人の話なんてはなから聞いていないのだ。それこそまさしく悪魔的じゃないか。決して人間が虫の鳴き声と会話しないように、この悪魔は人の言葉なんて何か鳴いているくらいにしか思っていないに違いない。自分の命令は何があったって絶対に黙らせてきかせるくせに……。
「さて……ロウ船長。そろそろ我々がどれほど海流に流されたのか、ご教授いただいてもよろしいかな――まったく、失態もいいところだ。こんなところで私掠船の世話になるとは――間違いなく人生で一番の汚点だ」
二人が船長室に消えていくのを見送り、シャルロッテは目の前で血みどろの殺戮が繰り広げられないことに胸をなで下ろした。命より大切な品物を強引に奪われた男たちは深く肩を落としたり目頭に涙を浮かべたりしている姿は見るに堪えなかったけれど、それでも命さえあればいつか立ち直れる日がくるはずだ。
「さぁ、辛気くせぇ面してないでさっさとボートを下ろすんだな! おまえらを運ぶ新しい箱舟だ!」
その号令とともに男たちは奴隷のようにのろのろと船の側面に取り付けられた小型のボートの縄を緩めて海に下ろし始めた。降参した時点でこの商船そのものも重要な押収品の一つなのだ。船を丸ごと売りさばいて巨益を得るとかいう話を聞いたことがあった。
「本当にぞっとするわ。大砲で脅して強奪した船を我が物顔で乗り回すなんて。父がアヴニール号を愛したようにきっとこの人たちにもこの船に愛着があるに違いないのに……罪もない人たちから人生のすべてを巻き上げて私財を肥やすなんて、そんなことあってはいけないのよ」途端にシャルロッテの小さな体の内側で私掠船に対する憎しみが湧き上がり、それと同時に保身のためだけにこの船に同乗した自分が恥ずかしく思えて顔を覆いたくなった。たとえ悪事に加担していなくたって、これほど間近にいて止められないのならもはや同罪だと思った。
「ええ、そうよ。たとえ生きて無事に海を渡れるかもしれなくたって、こんな犯罪行為を黙認するしかないだなんて、やっぱり耐えられない。それにもうあの人たちにはうんざりよ! ロウ船長もそうだし、他の船乗りも――もううんざり。毎日毎日泣かされて……」考え始めると頭の中は苦しい思い出ですぐにいっぱいになった。この船に乗り込んでからはたったの三週間たらずだが、間違いなく陸での一年分は泣かされているだろう。「それによく考えてみればあの悪魔が安全にわたしを送り届ける保証なんてどこにもないわ。そうよ、あの人はわたしのことをその辺の虫程度にしか思っていないんだから」だけどあの悪魔は不遜にも交換条件として女王に何か提示していなかっただろうか? と、思い至りシャルロッテは苦しみだらけの船上の記憶を追い払って女王との短い面談を思い出した。幸いにも強烈な記憶はすぐに鮮明によみがえり、それと同時に取り返しのつかない今になってシャルロッテは重要なことに虚をつかれた。それに気がついてしまえば、彼が女王に対して船を要求していたとかそんなことはすっかりどうでもよくなってしまい、シャルロッテは記憶の細い糸をたどって判事のくどくどした喋り方を脳内で再生した。
「あのとき……そうよ、覚えてるわ。あの判事はロウ船長に対して、わたしをこの船に〝同乗〟させるようにって言ったのよ。決して〝送り届ける〟ようになんて言わなかったわ」だとしたら、なおさら命の保証はないとシャルロッテは確信した。つまりはじめから生死なんて関係ないのだ。わたしが無事に大陸にたどり着こうが、途中で不慮の事故によって死のうが――同乗させた時点でロウ船長の任務は終わっている。そう思うと自分の短そうな寿命がさらに短くなったのを肌で感じた。
「ああ、どうして気がつかなかったんだろう! この船が安全だなんてとんだ思い違いだわ! わたしが今生きているのは悪魔の気まぐれよ。だめ、こんなところにいられない! どうにかしてわたしもこのボートに乗せてもらえないかしら? たしかにこの船は世界で一番沈みにくいのかもしれないけど……それは船と品物だけであってわたしの命が無事かどうかは定かじゃないわ」シャルロッテは奥歯をかみしめた。今までの辛く苦しい記憶が一気に頭の中を駆け巡ってすぐに決意は固まった。彼女を引き留める要素なんてこの私掠船には小指の先ほども残っていなかった。
シャルロッテは商船の縁に駆け寄り、海面を覗き込んで六隻の小さなボートが海に浮かぶのを見つめた。ああ、でも、この小舟はなんて頼りないのだろう! 小舟は一人の男が立っただけでクルミのように大げさに左右に揺れている。もし少しでも海が荒れたらすぐに転覆して暗い海の底に沈んでしまいそう! 果たしてこの頼りないボートで本当にどこかの港までたどり着くの? その貧弱な体つきを見ていると人生を預けるには少し足がすくんだ。でも、もうわたしは決めたわ。そうと決まればあの悪魔が帰ってくる前に乗り込んでしまおう。どうせわたしが居なくなったって気がつきやしないわ。
息巻いて船の側面のはしごに手を伸ばしたところで、シャルロッテは潮の香りに混じって奇妙な臭いを感じ取った。風上からかすかに漂うこの臭いは血のにおいだ。その出どころはすぐに見つかった。
「怪我してるの?」男は甲板で最後のボートを下ろそうとして力任せにロープをたぐっていた。袖をまくられた腕は筋肉で緩やかに隆起して、その凹凸に合わせて赤い血が肘まで滴り、甲板にたれ落ちて濃い色の血だまりをつくっている。肝心の傷口は右腕の外側、手首と肘のちょうど真ん中に創傷とおぼしき痕があった。傷はかなり大きく、鋭い刃物の線がしっかりと見てとれる。幸いなことに太い血管を傷つけてはなかったが、それでも血の気が引くほどの血液が垂れ流しになっていることに変わりはない。
青ざめて質問したシャルロッテに返ってきたのはなんとも耳を疑う返答だった。
「ああ。だがこの程度なら――」
「だめよ! まるで血が止まりそうにないじゃない! それなのに……」
どうしてこのときばかりこんな勇気が湧いたのかわからない。他の淑女と同様に血は苦手だし、それに舞踏会だってこれほど体がなめらかに動いたことはなかった。けれどこのときばかりはまるで体が運命に突き動かされるみたいに動いた。
とにかくその苦痛を少しでも和らげたくて、シャルロッテは気がつけばはしごから手を離して青年の傷口にそっと手を重ねていた。打ちひしがれた上にこんな傷まで負っているのがあまりにも同情的にうつったのかもしれない。
「あんまり無理しないで」青年の体はひんやりとしていて冷たかったけれど触れている部分だけが熱をもって温かい。それにしたってこんなひどい傷をどこで負ったのだろう? 彼は少なくとも血の気の多い連中みたいにことあるごとにサーベルを取り出して決闘を挑もうとする人には見えなかった。
「あなたもこのボートに乗るの?」
「それしか手段もなさそうですから」
シャルロッテは聖母のような顔をして他の船員たちに比べるとかなり若く見える顔を見上げた。彼はまさしく青年という年頃で、素朴でありながら爽やかな整った顔立ちをしていた。栗色の瞳は優しそうで、頭の方では瞳と同じ色の柔らかな髪が潮風に揺れている。彼がまとう雰囲気はこの恐ろしい海には甚だ不釣り合いに思えてならなかった。例えるなら彼には午後の暖かい窓際で本でも読んでいそうなそんな雰囲気がある。実は貴族だと打ち明けられても何の疑いもなく信じられるだろう。
この人がいつたどり着くとも知らない流浪の旅に出ると思うと、シャルロッテは途端に悪魔でも見たみたいに背筋を凍らせた。それもこのひどい傷をかかえて。きっと満足な治療ができる環境ではないだろう。だからといって放っておいて治る怪我だとも思えない。ましてや、このボートに乗り込めば血を垂れながしにしながら、傷口を気色悪い虫どもにつつかれ、昼夜を問わずオールを漕ぐことになるだろう。運が悪ければ傷口が化膿してもおかしくない。それに――と、シャルロッテはたしかに神の思し召しを感じた。きっと先ほど汗だくになりながら恐ろしい悪夢をみたのはそういうことだ。本当にちょっとした傷からあっという間にこの世を去ってしまった母。彼女のことを思い出せばこの人をあの小舟に乗せるわけにはどうしてもいかなかった。たとえそれが私掠船の水夫たちだったとしても目の前で人が死んでいく無力感には耐えられない。
その頃には小さなクルミのようなボートに乗って逃げてしまおうだなんていう考えはすっかり頭の中から抜け落ちて彼の痛々しい傷口に両手を重ねていた。
「そんなこと言わないで――あなたさえよければ、ロウ船長に頼んでみましょう。お節介かもしれないけど、そんな深い傷を負っていながらボートで旅をするなんて正気の沙汰じゃないわ。その傷は治療が必要よ」断られたらどうしよう、とも思ったがその心配は杞憂だった。青年は自分の顔の周りをぐるりと見回し、それから今になってようやく貴族娘らしく着飾ったシャルロッテの姿が視界に入り、一瞬だけ船乗りらしく目と眉を近づけて口元だけで笑みを浮かべた。それは間違いなく彼の薄汚い本性がちらと顔のぞかせた瞬間だったが、青年を心配するシャルロッテはそんなことまるで気がつかなかった。
「もし本当にそうなったなら僕は間違いなく君にキスしたくなるだろうな」
そのときちょうど二人の船長が戻ってきた。気がついてみれば甲板には青年とシャルロッテだけが取り残されていた。他の男たちは全員、窮屈な思いをしながら膝を曲げてボートに乗り込んでいる。スラットリー船長は彼が甲板に残っているのを見るなりすかさず声を上げた。
「デリック! そんなところで何をしておる! おまえも早く乗り込め! どうやらこの御仁はたいそう気が短いようだからな。話が通じんこともないが……」
「ちょっと待ってください!」シャルロッテは慌てて叫んだ。それから勢いを失って慎重に口を開いた。「ロウ船長……その……この方を連れて行くことはできませんか?」
ロウ船長はシャルロッテが病気の夫に連れ添うみたいにデリックに肩を寄せているのをみて「感動的な場面だな」と、せせら笑った。どうやら一筋縄で許してくれそうにはなかったけれど今回こそは本気だ。シャルロッテはガラス玉を握りしめ、意を決して一歩踏み出し己の気を奮い立たせた。
「怪我をしているんです」
ロウ船長はデリックのことを黒い眼でじろりと見回し、冷たい顔をしたままつかつかと大股で距離をつめた。その態度は思わず後ずさりしたくなるほど高圧的なものだった。彼はは黒い瞳に睨まれて、本能的にじりじりと後ろへ逃げ、ついには体勢を崩してその場に尻もちをついた。デリックはすっぽりと船長の影に収まり、そこから見上げるとロウ船長の彫りの深い顔には濃い影がおちて、ますます頑固で気難しい人に見えた。
シャルロッテはまさかロウ船長がデリックを殺すのではないかと思って悲鳴をあげたくなったが、それは奥歯を必死に噛みしめることで抑えつけた。
「それで?」船長は鋭い視線でデリックを威嚇しながらシャルロッテをせかした。口を開いたら言葉の代わりに悲鳴が飛び出しそうだった。だからといって黙っているわけにもいかない。シャルロッテは一度大きく息を吐いてから、なるべく一定のペースで淡々と話した。ロウ船長がシャルロッテに背を向ける形になっているのが幸いだった。きっと顔をつきあわせていたらうまくいかなかった。
「放っておいたらもっと悪くなるに決まっています。ましてや、あのボートに乗せたら……」といいながらシャルロッテはチラリと海面に浮かぶボートを見つめた。海に放たれたボートは商船の壁面で波が反射してひどい目にあうのを防ぐためにわずかに離れたところで待機していた。各艇で最低でも一人は立ち上がっている人がいて、甲板の状況を確認しようと首を伸ばしている。ボートは波によって左右に激しく揺れて、どうして人が落ちないのか不安なくらいだ。男たちは不衛生な状態で団子になり、遠くにいても悪臭や腐敗臭が漂ってきそうな見た目をしている。やはり彼をあのボートに乗せるわけにはいかない。
「部屋なら空いているじゃないですか。それに彼の看病はわたしがします。包帯が欲しいなどとって言って手を煩わせるつもりもありません」ロウ船長は背中を向けて黙りこくったままだ。そのせいでどんな表情を浮かべているのかすらわからない。「そ、それに……食事がもったいないとおっしゃるのならわたしの分をほとんどさしあげたって構いません。もちろんラム酒だって同じことです。だから……」
ついに思いつくかぎりすべての言葉を伝えるととシャルロッテは足元の木目を見つめて黙り込んだ。緊張して喉がからからだった。今ならあの毒薬も三杯は息継ぎなしで飲める気がする。
船長はシャルロッテの言い分をひとしきり聞き終えると乾いた笑い声をあげ、悪魔のように低くつぶやいた。「気に食わないな」きっとこのときロウ船長の瞳は加虐心に満ちあふれてぎらぎらしていたに違いない。そうでもなかったらどうしてそんなことができるだろうか? 船長は尻もちをついたデリックを高いところから見下ろして、その瞳に恐怖と畏怖と、それから巧妙に隠された山師の才覚を認めると今度は大きく笑ってデリックの体を蹴り飛ばした。その勢いは情け容赦なくて、哀れなデリックは甲板を転がり追い詰められた虫のように体を丸めた。
「ちょっと! なんてことをするの!? けが人に対して――」
「黙れ、シャルロッテ!」思わず駆け寄ろうとしたシャルロッテを船長はたった一つの命令と睨みで動けなくさせた。船長の命令に逆らうとひどい目にあうと、この体はすっかり学習してしまったのだ。間違いなくこの命令に逆らったらひどいことになる。
「どうやらこの女には効果
船長はなおも歩を進め、デリックの顔に喜びの色が浮かんでいるのを見つけて喉の奥で笑った。
「気に食わないのはお前の態度だけだな」先ほど蹴り飛ばした距離まで近づくと船長はデリックを見下ろし眉を片側だけあげた。それから、ちょうど踏みやすい場所にあったとばかりに彼の手を踏みつけにして――シャルロッテはもう我慢の限界だった。 本能が無意識的に屈しそうになるのを一秒ごとに理性で押さえつけ、シャルロッテは駆けだし、果敢なことに船長の腕を掴んで強引に二人を引き離そうとした――が、はなから分かっていたとおり体格差は歴然でまるで石像を引っ張っているような気分になった。
「この下衆! 悪魔! よくもこんな恐ろしいことばかりできるわね! この――」
「黙れ! シャルロッテ!」
恐ろしい大声でシャルロッテを怒鳴りつけると、それから小柄な体を腕一つで振り払い、ターゲットはデリックからシャルロッテに移った。シャルロッテはその勢いで吹き飛ばされ、マストに激しく体を打ち付けた。コルセットの金属が体に食い込んで、全身を鈍い痛みが襲う。内蔵に強い圧力が加わったせいで激しく咳き込み、さらには痛みのあまり立っていることさえままならなかった。床にほとんど倒れ込んでいると悪魔が甲板の床を鳴らしながら近づいてくる音が鮮明に聞こえ血の気がひいた。
こうなることはわかっていたのに。だけど想像と現実はまったく違う。近づく足音は死へのカウントダウンだ。
ロウ船長はうずくまるシャルロッテの髪をつかんで持ち上げると、怒りに燃えた――それでいて冷たく鋭い研ぎ澄まされた――瞳を強引に合わせ、それからそのままの勢いで激しくシャルロッテの頬を張り飛ばした。どうやらこの船長は人の殴り方というのをきちんと心得ているようで、殴られた瞬間に頭が激しく揺れてとんでもない衝撃が脳に加わった。激しい耳鳴りがして、目がおかしくなってしまったのではないかというほど視界がぐらんぐらんと揺れる。
「命令に逆らうなよ」低い声で脅すように言いつけると、ロウ船長はシャルロッテの髪をひっつかんだまま遠くに放り投げた。シャルロッテは甲板の上をゴロゴロと転がり、そのまま力なく床にうつ伏せに倒れ、次第に目の前が真っ暗になっていってついには気を失った。
「おい、おまえ……たしかデリックとか言ったな。さっさとその馬鹿女を連れてこい。せいぜい二人で傷をなめ合うことだ」
呆然とその光景を眺めていたデリックはその言葉におもむろに笑みを浮かべて倒れ込むシャルロッテに慌てて駆け寄った。まさかこれほどうまく進むとは! 幸運とはまさしくこういうことをいうのだろう。小柄なシャルロッテを抱きかかえ、腕からだらりと落ちた頭が白い首筋を露出させるとデリックは思わずその首筋に口づけを落としたいような気持ちになった。
ロウ船長が踵を返すと背後からスラッタリー船長のゆっくりとしたそれでいて威厳を感じる声が響いた。
「ロウ船長。わしは職業柄、詐欺のようなことはしたくなくてな。商品についてきちんと説明をするのは商人の義務のようなものでしょう。一つだけいうなら……その男は中身が腐りきっとる。それも救いようもないほどにな」それからスラットリー船長はデリックのことを見ていまいましげに顔をしかめた。「その哀れな女性はおまえにとってまさしく女神というわけだ。貨物室で盗みを働くところをとがめたのがこうも裏目に出るとはな」
「ええ、こうなるなら僕はあんたに感謝しないといけなくなってきた。さよなら、スラットリー船長。僕は心を入れ替えて真面目に生きようと思いますよ」その言葉は浴びるように酒を飲みながら、明日こそは禁酒すると告げる船乗りのようなものだった。
船長はデリックが去って行く後ろ姿をしばらく眺めてからくるりと船の端に進み出て海面に浮かぶ小さなボートに乗り込んだ。
「さぁ、おまえたち! 生きて国に帰るぞ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます