5章

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 それからというものシャルロッテは一日の大半を甲板で過ごすことに決めた。先日は酔っぱらった体に夜風が心地よいのだとばかり思ったけれど昼の潮風も悪くない。長年慣れ親しんだ潮風はかなり爽やかで、あの狭い部屋に缶詰にされるよりも心なしか船酔いがマシに感じた。さらに翌日には悪魔たちが毎日一ガロンも飲んでいるあの毒薬めいた飲み物についても自らに厳格なルールを定めた。


 〝一日に飲んでもいいラムの量はコップ二杯まで〟

 〝間違えても一気に飲み干すなんてことはしないで、小さじくらいの量を慎重    

  に口にすること〟

 〝コップ一杯のラムを口にしたら午睡をとる〟


 じきにこのルールは形骸化するのだが、シャルロッテが当初設定した規則はおおむねこんな感じだ。変にラムをあおっていい気になって船長か誰かを挑発して逆襲されるのはこりごりだったし、野獣のような男たちからいつでも逃げ出せるように彼女は誰よりも酒に慎重だった。正直言ってあの夜、どれほど恐れ知らずな言葉を言い放ったかは記憶になかったが――とにかくロウ船長の恐ろしさだけは体と脳にしっかりと焼き付いた。シャルロッテはなるべく船長に近づかないように日々を過ごし、廊下ですれ違うときはたとえどれほど気分が悪くても片足を引いてお辞儀をした。腹がたつのは大抵は無視されるところだが、もちろん不満を叩きつける勇気はない。そうでもなかったら挨拶なんて絶対にしてやるものか。

 甲板で毎日を過ごすようになると、シャルロッテはドレスというものがいかに船上生活に不向きなのか痛感することになった。動くたびにレースや飾り糸といった装飾品が必ずロープを縛り付けるための突起だとか、木材のささくれとかに引っかかり、たびたび醜態を晒しそうになるのだ。それに船内の細い廊下だと愛らしく膨らむスカートが廊下を占有してしまってすれ違うこともできない。となると船乗りたちは船長の真似事みたいに「邪魔」だの「退け」だのと口々にシャルロッテをののしった――もっとも、シャルロッテが動かなくても船乗りたちは強引に彼女を押しのけて通るのだけれど。

 常にほろ酔いのシャルロッテは船長以外の男なんてこれっぽっちも怖くなかった。それに上から目線の命令に従うのも癪で、シャルロッテはその言葉をはなから無視していた。大体、通路のど真ん中に座っているわけでもないのに、そこにいるだけで目障りだという態度はむかっ腹がたったのだ。だが、そんな取るに足りない些細な抵抗はたいした意味を持たなかった。

 大抵の場合、男たちは二、三回同じようなやりとりを繰り返した後、ことの一部始終を船長に報告して悪魔みたいに恐ろしいロウ船長が派遣されたからだ。シャルロッテがいくらほろ酔いで勢いづいていても、船長の命令にはいつだって従うしかなかった。あのなんともいえない威圧的な態度を前にすると次こそ本当に腕を折られるような気がして、シャルロッテはしぶしぶその場を明け渡す。

 一体船員たちがあの横柄な男のどこに惹かれるのかはいまだに理解不能だった。


 今日も今日とてシャルロッテは甲板を追い出された。時間はちょうど正午で、目を覚ましてから少しずつ口にしたコップ一杯のラムをようやく飲み終えたところだった。先日決めたルールに従うのなら部屋に戻ってベッドで横になるべきだったけれど、この日のシャルロッテはほろ酔いで、ありていにいうなら理性がまるで使い物にならなかった。そんな状態で身体に馴染んでもいない規則を思い出すはずもなく、さらにはあの狭い部屋の壁にある木の節も数え終わってしまったことを思い出してシャルロッテは唐突にこの大きな船の内部を余すところなく探索することに決めた。

 船尾側の船橋の下にあるのが船長室だということはなんとなくわかっていた。たびたび船長がその部屋に消えていくところを目撃していたのだ。だからシャルロッテは滅多なことではその部屋に近づかなかったし、なるべく視界にも収めないようにしてきた。だが今になって一度も気にとめたことがなかった船長室の扉に何やら一枚の日焼けした紙が貼り付けられているのに気がつくと、シャルロッテは不思議な好奇心に駆られた。いったいあれは何? 海図かしら? それとも乗組員の名簿とか? シャルロッテは抜かりなく船長が水夫たちに帆の向きを指示して忙しそうなのを確認してから船長室の目の前まで向かった。

 さびたナイフをドアに突き刺すという古典的な方法で止められた紙には詩みたいにいくつかの短文が連なり、その下には船員たちのサインが書かれていた。インクは海水と雨水でにじんでいたけれど、どうにか読み解けた。


 一、すべての乗組員に投票権を与える。新しい条項を発議することや、蒸留酒を手 

   に入れることも同じく公平であり、投票権を行使することも棄権することも自

   由である。

 二、すべての乗組員は上官の命令に従わなければならない。戦利品について、船長

   は二人分を分け前とし、副船長は一・五人分とする。

 獲物なければ報酬なし。

 三、仲間内での窃盗はその度合いに応じ、鞭打ち刑または射殺とする。

 四、二〇時には蝋燭を消して消灯すること。もし、飲み足りない船員がいれば甲板

   で飲むことを許す。

 五、戦闘中に船や持ち場から逃亡した場合、死刑または置き去りの刑に処す。   

 六、船上での私闘を禁ずる。揉め事は陸地において剣とピストルの決闘によって解

   決すべし。

 七、船倉内で銃の撃鉄を上げてはいけない。

 八、貞淑な女性に対し、相手の同意なく手を出す者は背中に鞭打ち百回の罰を与え

   る。つまり(この一文だけ後から付け足されたようでインクと筆跡が異なって

   いる)たしかな合意がある場合罪は不問となる。


 最後の条項を読み終え、シャルロッテは顔を真っ赤にして思わず「冗談じゃないわ!」と、叫んだ。「誰がこんな男たちとベッドをともにするものですか! 今際の際になったとしたって、いったい誰が!」

 ここにいる全員がこんなことを考えていると思うと嫌悪感から全身に鳥肌がたち、不快な思いをぶつけるように眉間にしわを寄せ、甲板にいた男たちを睨みあげた。だが、ほとんどの乗組員はそんなこと意にも介さなかった。口元にせせら笑いを浮かべ、いつも通りのまとわりつくような下品でいやらしい目つきをシャルロッテの小さな胸元や腰に向けている。

 シャルロッテは恥ずかしすぎて死にたくなった。今まで一度だって体を許したことはないのに、よりにもよって視線を投げつけられるだなんて! 一分一秒でも同じ空間を共にしたくなくてシャルロッテは慌てて階段を駆け下りた。普段シャルロッテが暮らしている砲列甲板からさらに一つ階層を下ると船内は一気に静まりかえり、船長のはっきりとした指示もそれに答える船員たちの声もかすかに聞こえるだけになった。

 この場に一人きりとみるやシャルロッテは途端に機嫌をよくして、幼少期の冒険心が舞い戻った。心の中は好奇心でいっぱいだった。いつだって知らない場所を探検するときは知らない世界に迷い込んだような気分になる。初めて友だちの家に招かれたときだって本当は屋根裏部屋から地下室まで余すところなく見てまわりたかったけれど、貴族の娘はそんなことしないようで両足を地面に縛り付けるのに苦労した。家名のために、はしたないことをするわけにはいかなかった。

「だけど、内々なら構わないと思って地下のワインセラーがお気に入りだなんて白状したのは悪手だったわ。こっぴどく叱られるし、鍵をかけて二度と入れてくれなくなったもの」

 地下の宝箱も屋根裏の秘密基地も令嬢は立ち入り禁止だった。今まで森の中で自由気ままに生きてきたシャルロッテからすれば不満もいいところ。だが今日は行いをとがめる人はどこにもいないのだ。

 天井からはいくつものハンモックが吊され、シャルロッテはすぐにこの階層が水夫たちの寝室であると感づき、それと同時にほんの少しだけ船乗りを不憫に思った。というのも彼女にとってハンモックは普段使いするものではなく、もっぱらピクニックで木にくくりつけて午睡を楽しむものだった。それに正直に言って眠り心地は良いものではない。どれほどロープで頑丈に固定しても布の中央がたわんで背骨が曲がった状態になるからおのずと眠りも浅くなるのだ。午睡ならばそれでもいいけれど、それが毎日となると気の毒だ。

「きっと守銭奴の船長に脅されてこんな生活を強いられているのね」

 けれど、それはシャルロッテのまったくの妄想でしかなかった。実際ハンモックは英国海軍でも使われるような歴とした寝具で、激しく揺れる船内では時としてベッドよりもハンモックの方が安眠が保証されるのだ。少なくとも寝ている間に床に落ちて怪我をする心配はない。

 ハンモックの下には長いテーブルが置かれ、そこには空のコップが今朝のまま放置されていた。その側には船員たちの年季の入った茶色をした個人用の収納が置かれている。シャルロッテはちょっとした好奇心に駆られて茶色の箱に手を伸ばして――その瞬間、雷鳴が轟くようなすさまじい音が鳴り響き――てっきり誰かが自分を殴るために襲ってきたのではないかと思って――シャルロッテは反射的に身を縮こまらせた。けれど冷静になってみれば物音は足下から聞こえてきた。さらには水夫と副船長の慌てた声がやはり足下から聞こえる。

「てっきりこの階層が最下層だとばかり思ってたけれど……まだ下があるの?」シャルロッテは隠された秘密の部屋に瞳を輝かせて辺りをキョロキョロと見回した。見たところ階段らしきものは見当たらない。

 シャルロッテはしばらくその階を探索し、やがて降りてきた階段の裏側に隠された通路があることに気がついた。最初は気がつかなかったがそこだけ床の造りが異なっている。どうやら木の板がふたのように昇降部をふさいで、持ち上げられるようにロープが輪の形をしてふたに固定されていた。

 床に耳を近づけて音を聞くとやはり声はこの下から聞こえてきた。シャルロッテはすっかり探検家の気分になってわくわくしながらロープに手を伸ばした。ふたは金庫の扉くらい重たくて腕の筋肉が小刻みに震え、一〇センチほどの隙間に足を入れ込んでそこから強引に持ち上げるとようやく下層へ続く階段が姿を現した。ろうそくの炎が怪しく壁に揺らめき、人間の黒いシルエットが縦長の化け物みたいになって階段の下まで伸びている。

 ほらね、わたしの目をごまかそうとしたってそうはいかないんだから。シャルロッテは意気揚々として――この頃にはすっかり酒が全身に回っていたし、それも珍しく耐えがたい吐き気よりも高揚感が全身を満たしていた――階段を下り、それから探偵よろしく木箱の影に体を隠して通路の奥をのぞき込んだ。狭い通路の壁一面には酒樽や食料の入った木箱といった貴重品が山のように積み上げられていた。積み荷はロープで縛られ、壁や天井にしっかりと固定され、さらには網をかけて厳重に保管されている……けれど、どんな魔力が働いたのかその一角が盛大に崩れていた。

「さっきの轟音は積み荷が崩れた音だったのね」

 廊下の奥にはイポリート副船長と二人の男がいた。男たちは衝撃で散らばったレモンを木箱に投げて戻しながら悪態をついていた。そのうちの一人は片足のアンドレだ。彼はシャルロッテを嫌う水夫の筆頭で、いつも棒のような義足をガンガンと床にたたきつけるのが何よりも恐ろしい人だった。

 ただでさえ短気な男たちが殺気すらも漂わせているのは狙いを定めた果実が船の動きに合わせて前後左右に逃げ出すからで、シャルロッテは男たちが黄色い小悪魔に翻弄されるのをみてくすくすと肩を揺らして笑った。いつも自分にひどい言葉ばかりを投げつけるアンドレがあんな小さな果実一つの手玉に取られるのが面白かった。けれど悪魔はシャルロッテにも平等だった。一人の水夫が太くて短い指を伸ばしたその瞬間、思いがけず当たった指先が果実を弾き飛ばし――あろうことかレモンはシャルロッテの足元までいずり、男たちの視線は自然と出入り口に誘導された。

 シャルロッテは慌てて木箱の陰に隠れ、息を殺したがもはや何の意味もなかった。

「どの船にもネズミがいるもんだな。それにしたってまさかこんな深いところまで降りてくるとは!」イポリート副船長は膝をたたいて笑った。

「どうしますか? 部屋に閉じ込めときましょうか?」

「放っとけ。どうせ上で船長に追っ払われたんだろ。それに家畜だって鎖でつないどくよりお天道様の下で走り回らせた方が健康に育つってもんだ。盗られて困るようなもんもまだないだろ。それよりもこれをなんとかすんぞ」

 二人の水夫のうち一人はすぐに積み荷に視線を戻したが、もう一方はどうしても部外者がこの空間にいることが我慢できなかった。アンドレは泥棒猫が慌てて身を隠した影をじっとにらみつけて激しく舌打ちするといらだちに任せて船底を貫かんばかりに足を鳴らした。

「だから俺は反対だったんだ! 今からでも見張りでもつけて部屋に閉じ込めときゃいいだろ! いいや、この際だ。海に突き落としたって構いやしねぇ! どのみち生きてようが死んでようが誰も気にしないんだ。大体、貴族の――甘やかされて育った箱入り娘なんざ小指の先ほども信用に値しねぇ! じきに俺たちの取り分を根こそぎ奪ってとんずらこくだろうよ。しかも俺らにはそれをとがめる権利がないときた!」

「そんな度胸があるようにはみえねぇけどな」

「いんや、女は信用できねぇ。貴族の女は特にだ! 大体――父が父なら子も子、だ! 国賊の娘の言うことを信じられるってのか? あ? 俺に言わせりゃ、すべては天罰なんだ! この女の父親だってどこで野垂れ死んでるのか知らねぇが……せいぜい地獄の苦しみを味わいながらくたばったことを祈るぜ!」

「あなたがお父さまの何を知ってるのよ!」突然激しい怒りで目の前が真っ赤にそまり、怒りに震える両手をきつく握りしめながらシャルロッテは感情のままに怒鳴りつけた。普段の演技はすっかり頭から抜け落ちて、むき出しの敵意だけが全身を満たしている。

 シャルロッテは大股で男に詰め寄って厳しくにらみつけた。

「大体、盗人はあなたたちの方だわ! 薄汚い手段で私欲を満たして――! あなたたちなんて悪魔に食われてしまえばいいのよ! いっそこの船ごと沈んでしまえ! 神が許したってわたしが呪ってやるわ!」考えるまでもなく喉から罵倒の言葉があふれ出た。こんな言葉を使ったとしれたらどんな目にあうだろう。だけどこれが偽りない本性なのだ。

 男は一瞬たじろいだけれど、次の瞬間にはシャルロッテのことを殴りつけてやろうと思って拳を構えた。

「殴りたいなら殴ったらどう!? わたしは逃げも隠れもしないわよ!」

「このアマ……!」アンドレは脇に差したピストルに手をかけた。その瞬間、シャルロッテの赤い顔が血の気を失ったようにさっと青ざめた。小さな悲鳴が口から漏れて、頭がずんと重くなる。そんなことお構いなしに男は何の躊躇もなく黒々とした銃口をシャルロッテに向け――ついにシャルロッテが死を覚悟したのと同じタイミングでイポリート副船長の怒声が倉庫に響いた。気がつけばサーベルの刃がきらりと輝いて男に向けられている。

「アンドレ! てめぇ、ここがどこだか忘れたわけじゃねぇだろうな! 弾薬庫に引火したらどうするつもりだ!? その腕を切り落とされたくないならさっさと手を離せ! 熱くなって理性を忘れるようなら二度とばかな真似できねぇようにするだけだ! やるなら上でやれ!」

 アンドレはしばらくシャルロッテをにらみつけて、それから機嫌悪そうに義足で床を蹴りつけてピストルをしまった。

「ガキ! てめぇも散れ! 死にたくねぇならこれ以上人を挑発してまわらないことだ。死にたいならどうか一人で勝手に死ね。間違ってもこの船を道連れにしようだなんて思うなよ! 自分が正義の使者だなんて勘違いはしないことだ。それこそガキの妄想ってもんだろ」

 シャルロッテは顔を青くしたまま足早にその場を離れて自室に駆け込んだ。薄い木の扉を閉じて扉に寄りかかりながらずるずると座り込むとようやく全身に血の気が舞い戻った。心臓がドクドクと信じられないほど早く脈打って四肢にエネルギーが送られていく。それと同時に勝利の高揚が少し恐ろしいくらいに全身を満たして、シャルロッテはこらえきれずに大声で笑い始めた。

「ざまぁみろ! お前たちなんて怖くもなんともないんだから!」高らかに叫ぶとシャルロッテはハッとしてスーツケースに走り十字架を取り出して胸の前で握りしめた。「どうかあいつらの魂が悪魔に食われますように!」そう思ったものの、冷静になるとほんの少しだけ良心がとがめた。「こんなこと祈ったら罰が当たるかしら? いいえ、構いやしないわ。商船を襲って私腹を満たす極悪人であることに変わりはないんだから」


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