4-2

 しばらくすると出航の合図がかかり、船員たちの野太い声が空に響いて錨が巻き上げられた。船が動き出すとシャルロッテは慌ててベッドに膝立ちになって小窓から外をのぞきこんだ。窓の外にずっと見えていた桟橋は次第に船の後ろ側に姿を消して、あっという間に船は故郷に背を向けて進み始めた。頭の中にはいろいろな思い出がよみがえったけれど、だからといって寂しさや悲しさを感じることもなかった。感じたのは途方もない安堵あんどだ。シャルロッテはその気持ちを後ろめたく思った。「逃げているわけじゃないわ……それに逃げ延びたことに喜んでいるわけじゃない。ただ……そうよ、希望だわ。あそこに居たって世界は何も変わらなかった。だけどわたしは一歩進んだの」

 そう言い聞かせると遅れて未来への希望が湧いた。たしかにこの国には家族と過ごした思い出が詰まっているけれど、母の優しさはガラス玉にすっかり閉じ込めて封印されているし、父にいたってはこれから新天地でいくらでも思い出をつくれるはずだ。たとえ爵位がなくたって、一文なしでも、家族さえそこにいるのなら何を悲しむことがあるだろう。昔みたいに薪を割って、狩りをして、枯れた土地を耕して立派な畑をつくろう。きっとお父さまは騙されたことに腹をたててピストルを持ち出すだろうけれどそんなことさせないわ。きっと最後にはわたしの言葉を聞いてくれる。田舎暮らしの勘を取り戻すのは時間がかかるだろうけれど……十年もたてばこの現状だって笑って語り合えるわ。そう思うと乗り込んだときの不安な気持ちはすっかりどこかへいってしまった。

「そうよ、怯えている場合じゃないわ。わたしが……わたしがやらないといけないのよ。わたしは生きてなんとしてもお父さまを見つけるの。それで――取り戻すの」

 たくましい決意に反して、シャルロッテはすぐに船旅の洗礼を惜しげなく浴びることになった。

 船が順調に走り出していよいよ外洋に踏み入れると船は縦に揺れたり横に揺れたりとせわしなく予測不可能な動きを繰り返した。それはまるで巨大な手に全身を訳もわからずもみくちゃにされているみたいで、それに合わせて内蔵が揺さぶられ、みるみるうちに気分が悪くなった。まるで五秒おきに喉の奥に指を突っ込まれているみたいなとてつもない不快感が湧き上がり、体の内側を勝手にぐるぐるとかき混ぜられているような気がした。どれほど気合いを入れようとも襲いくる揺れだけはどうしようもない。生まれて初めて味わう船酔いはあまりにも壮絶で、シャルロッテは眉を寄せながら、かび臭いベッドに横になり、体を丸めて襲いくる吐き気にひたすら耐えた。

 昼になるとイポリート副船長が訪ねて食事を持ってきたけれど、当然こんな状態で食事なんて喉を通るはずもなかった。副船長はベッドの上で小さくなるシャルロッテを見下ろしてからからと笑った。

「ずいぶんいい感じに弱ってんじゃねぇか、まるで打ち上げられた魚だな。ま、こればかりは慣れだ。気の強さに関わらず海の上じゃ全員かかる呪いみたいなもんだからな。おっと、食べるか吐くかどっちかにしろよ! それから食い物にありつきたいなら次からははいつくばってでも食堂にくることだ。ここじゃ使用人もいないからな」

 当然こんな状態で食事なんて喉を通るはずもなかった。少しでも胃に物を入れたらそれこそすぐに戻してしまいそうで、昼に受け取った固いパンとパサパサのジャーキーと、それから木製のコップに並々注がれたラムは一つも手をつけることなく丸い机の上に放置されほとんど置物と化した。それからシャルロッテは寝たり起きたりを繰り返して、一日目の深夜になると(といっても時計なんてものはないから体感なのだけど)空腹で気持ちが悪いのか船酔いで気持ち悪いのかわからなくなり、その段になってようやく固いパンを一口だけかじった。味は悪くないが、焼きすぎで一口含んだだけでも全身の水分を吸い取られた。と、なるとどうしても液体が欲しくなるものだがラムは想像の通りきつい酒の臭いがして、おっかなびっくり口にしてみるとアルコールの独特な苦みが口の中いっぱいに広がり、次の瞬間には喉の奥が焼けるように燃え上がりシャルロッテは慌てて液体を吐き出した。

「冗談じゃない! こんなもの口にしたらますます気分が悪くなるわ」けれど、だからといって真水を探しに行く気力もなくて、シャルロッテは諦めて少しずつ酒を飲みながらパンをかじった。

 シャルロッテがようやく動く気力を取り戻したのは二日目の夜のことだ。目を覚ますと声がかすれるほどに喉が渇いていて、毒薬でも飲み干すかのような覚悟で半分以上残っていたラムを一気に飲み干した。相変わらずこれっぽっちもおいしいとは思えなかったが体は喜んで水分を受け入れた。

 相変わらず気分は最悪で、地面に足をつけているのに宙に浮いているようなこの奇妙な感覚はどうしようもなく気持ちが悪かった。それでも悲しいことにシャルロッテが人間である以上どうしたってお腹は空く。イポリート副船長は宣言通りあれから一度も部屋を訪れなかった。初日の昼に受け取った食事はなんだかんだありつつもすべて平らげてしまって、二日目の夜になれば一時間も前からお腹が何度も寂しそうに泣き声をあげた。空腹の気持ち悪さと船酔いが相まってさらに気分が悪くなってきたのでシャルロッテはついに重い腰をあげて部屋を出る決意をした。シャルロッテはまるで墓場から這い出てきたばかりの亡霊のようなおぼつかない足取りで、船の柱に手をかけることでどうにか歩みを進めた。

 船長室のちょうど真下に位置する広間――船乗りたちは大抵〝会議室〟か〝食堂〟と呼ぶ――では仕事を終えた船員たちが酒を片手に馬鹿騒ぎを繰り広げていた。机に子供の落書きみたいな海図を広げ、毛の生えた太い指で海図を叩くように指し示して、どの顔も真っ赤に染まって声を張り上げている。時折、口論がエスカレートして男たちは粗雑に机を叩いた。それから少し離れたテーブルでは男たちがカードを使って何かの賭け事をしていた。誰も彼も酔っ払って手元がおぼついていないから何度も山札を崩しているようだけれど、それでも全員自分の勝ち数だけはきっかりと記憶している。

 シャルロッテがふらつきながらテーブルに近づくと男たちは日焼けした顔を一斉に上げて彼女のドレスを透かしてみるみたいになめ回した。

「なんだか未亡人みたいななりだな。え? 船旅はどうだ? 世間知らずの嬢ちゃんにはキツいか? まぁ、なんだっていい。そんなところで馬鹿みたいに突っ立ってねぇでこっちにきて酒でもついでみろよ」

 シャルロッテは男たちの粗野な言葉から身を隠すように、肩を持ち上げて軽くうつむきながらテーブルの間をぬって奥へ進んだ。テーブルとテーブルの間は人が一人通れるくらいの幅しかなく、貴族の妙に膨らむドレスは身動きに不便だった。酒で我を失った男たちはスカートに――それからあまつさえは細い腰にまでも――手を伸ばした。

「やめてください……わたし、ただご飯を取りにきただけで……」

「知ったことかよ! その無駄に派手な服を剥ぎ取りゃあ、いくらか見てくれもマシになるんじゃねぇか? そうすりゃ、政治と軍議で頭がいっぱいの貴族どもよりもよっぽどよくしてやるよ。何しろ経験が違う! それによく見てみりゃあ、顔はそこまで悪くないじゃねぇか」男はシャルロッテの顔にかかる金髪を持ち上げてその顔をのぞきこんだ。生温かい息が頬にあたり、シャルロッテは涙目になりながら顔を背けた。その反応がますます男たちの嗜虐心をあおるのはいうまでもない。

「泣いてみろよ。陸でも海でもどうせそのくらいの取り柄しかねぇだろ? なんつったって〝泣き虫シャルロッテプルニシャール〟っていうくらいだ。いいあだ名じゃねぇか。俺は気に入ったぜ! まさしくその通りだろ! うまくやりゃあ、気に入られて可愛がってもらえるかもな。社交界でもそうやって生きてきたんだろ? 港の連中がさんざっぱらいってたぜ。てめぇは意気地なしのどうしようもない奴だってな」

 この手の言葉は社交界で散々投げつけられてきたが、いつもならばただ心を痛ませるだけのそれも、なぜだか今日は感じ方が違った。目にたまった涙はそのままに、体の奥底から溶岩のようなドロドロとした熱いものがあふれだし、普段は決して表に出すまいと抑圧している淑やかでない心が叫び声をあげた。もう一言でも挑発されたらその顔を激しく叩いてやりたいくらい。長年の癖でシャルロッテは反射的にその気持ちを内側に封じようとしたが、自分でも不思議なことに今日だけはうまくいかなかった。心の炎はますます過激に燃え上がり――日頃、押さえつけている反動もあいまって――もはや制御不能だった。

「そうよ、こんな下衆どもに何を遠慮することがあるの? 今まではお父さまのためを思って飲み込んできたけど――ここにお父さまはいないし、わざわざそれを伝えるオバサマもいないわ。なんでこれほど心が沸き立つのかはわからないけど――いいわ。言ってやる。この男たちからなんと思われたってどうでもいいし、こんな奴ら怖くもなんともないわ!」炎に飲み込まれ、ついにシャルロッテが口を開こうとしたその瞬間、背後に巨大な気配を感じた。そこにいたのはイポリート副船長だった。

「よぉ、ずいぶん仲良くやってんじゃねぇか。おい、マルセル! この嬢ちゃんに食い物を渡してやれ」イポリート副船長は部屋の端の方でカードをしていたマルセルに命じた。よくみればこの広間の一番角のテーブルには手つかずの食事が寂しそうに置かれていて、マルセルはパンや数本のジャーキー、それからでこぼこのレモンを席から立つこともなくシャルロッテに投げて渡した。シャルロッテは怒りも忘れて必死になりながら飛んでくる食材をつかみ取ったけれど、細いジャーキーだけは空を切って何本かが床に落ちた。

「悪りぃな、ラムは飲んじまった!」その言葉とともに空のコップが飛んできて床の上を勢いよく転がった。行き場を失った感情は男たちをにらみつけて発散した。

「あの、イポリート副船長。できればお水をいただきたいんですけど……それか紅茶でも何でも構いませんが……とにかくお酒の入ってない飲み物が欲しくて」

「そんな嗜好品は積んでねぇ。飲み物はラムだけだ」イポリート副船長は短くそれだけ答えるとマルセルたちのテーブルに合流してカードに混ざった。彼がいなくなったと見るや男たちはまたシャルロッテに絡み始めた。

「酒が嫌なら海水でも飲んだらどうだ? せっかくでかい水たまりの上にいるっていうんだからな!」

「それよりも酒の飲み方を叩き込んだ方が早ぇだろ! それから男の喜ばせ方もな。そうすりゃ向こうでも客に困ることはない!」

「そりゃいいな。まずは酒からだ! ほら、飲めよ。それともママのミルク以外は受付ねぇか?」

「こいつの母親はとっくの昔にくたばってんだぞ。口にしてるとすりゃあパパのミルクだ」

 男は並々につがれたコップをシャルロッテに押しつけ、その衝撃で液体がこぼれてドレスに深い色のしみをつくった。男たちはシャルロッテがどんな反応を示すかと下卑た笑みを浮かべている。

「飲めばいいの?」シャルロッテは男たちをにらみつけ一息でそれを飲み干した。喉の奥が一瞬だけカッと熱を持ち、続いて嫌な後味が口の中に広がったがさして気にならなかった。「これで満足かしら!」心のままに空のコップを叩きつけ、シャルロッテは来たときよりもフラフラしながら出口へ向かった。なぜだかまっすぐ歩けないし、頭の中も霧がかっている。ただ不思議と気分だけは悪くない。誰がみても明らかなように、シャルロッテはすっかり酒に酔っていた。寝起きであおったラムが今ごろになって全身に回り始めたのだ。そんな状態でさらに追撃を食らわせればどうなるかは火を見るより明らかだった。

「なれなれしく触らないで! 大体――」と、いいかけてシャルロッテは一瞬口をつぐんだ。いくら自分がなっているからといって一抹の理性が働いた。だがそれもほんの一瞬だ。「大体、あなたに抱かれるくらいなら野犬の相手でもしていたほうがまだマシよ!」

「言われてやがる!」同じテーブルの男たちはゲラゲラと机を叩いて笑った。

「この野郎――!」

「やめとけよ! 野犬以下がねずみ以下になっちまう! お姫さまは王子としか話したくねぇってよ!」

 男たちの間を通り抜け、ようやく食堂から抜け出した頃には言いたいことも言い終わりすっきりとした気持ちでいっぱいだった。勝利の甘い味は海馬にすっかりと焼き付いている。シャルロッテは満足気に小さく笑って、それから甲板につながる階段を目指した。今夜は勝利の宴だというのにあの狭い部屋では調子がでないというものだ。

 シャルロッテが階段に足をかけると、ちょうどそのときロウ船長と鉢合わせた。彼の姿を見るのもこの船に乗り込んだととき以来だ。なんだかこの狭い船内でみるとその巨躯はさらに威圧感があった。白いシャツの袖はまくられ、腕の入れ墨が露出している。機嫌は悪くなさそうだが、元からつりあがった眉は暴君のようで恐ろしいし、何度対面したってこの船長には何か有無を言わさない雰囲気があるのだ。シャルロッテはオオカミに睨まれた子羊みたいに慌てて階段を上ろうとした――けれど、それは丸太のようにごつい指に腕を捕まれて阻まれた。

「ずいぶんなご挨拶だな。人の顔をみるなり逃げ出すとは。貴族の世界ではそういう文化があるのか?」ロウ船長はたばこをくゆらせながら胸のあたりで低く笑った。体の芯に響くような低音は迫力があったが、酔いのおかげで船長もさして恐ろしく思わなかった。

「離しなさい。少なくとも礼儀も知らないような人に挨拶する風習はないわ」

 それにシャルロッテは先ほどの勝利に酔いしれていた。きっと自分の言葉には誰もかもを服従させる魔法がかかっていると勘違いしていたのだ。そうでもなければ眠れる虎を起こすようなことがどうしてできるだろう?

 ロウ船長は黒い瞳を残虐にギラつかせて指にますます力を込めた。

「黙れ。俺に命令するな。それで、どこへいくつもりだ?」

「……お言葉ですけど、あなたってすべてを把握していないと気が済まないのね。神さま気取り?」シャルロッテはもう一方の腕でどうにか船長の拘束から逃れようとしたけれど、その力強い腕はまるで鋼鉄でできているみたいにびくともしなかった。

「甲板にいくのか?」

「……あなたに伝える必要ってある?」

「いいから答えろ。さもないと腕をへし折るぞ」

「やれるものなら……」言い切らないうちに腕に込められた力がますます大きくなり、骨や関節がギリギリと音を立て始めると痛みで酔いが覚め、目の前の人物が途端に恐ろしく思えた。ああ、なんであんなこと口走ったんだろう! 脳内は後悔と恐怖でいっぱいになり、痛みに歪めた顔に涙が浮かんだ。ついには指先が小刻みに震え始めるとシャルロッテは声にならないうめき声をあげた。

「答えろ」ロウ船長は再び短く命令した。

「……はい、ロウ船長」

 シャルロッテは解放されるなり、足がふらつくのも気にせずに脱兎の勢いで階段を駆け上がった。船長はその背中を追いながら喉の奥で小さく笑い、偶然通りがかったバジルを呼び止めた。

「誰かあの女に酒を飲ませたのか?」

「あー、ほんの一杯だけ。なかなかいい飲みっぷりでしたよ。ありゃあ、船乗りの素質がある」

「そうか。甲板にいくならあの女もついでに見張っとけ。今に酩酊して海に落ちるぞ」



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