4章

4-1

 それからの七日は穏やかに、だけど足早に過ぎ去り、ついに旅立ちの日になった。シャルロッテは目を覚ますと髪をほどきながら三十センチの小窓に近づいて眼前に広がる海を見つめた。海はまだまだ暗い色をしていたけれど、水平線に近い空はかすかに明るみ、夜明けを告げるナイチンゲールが列をなして赤い空を飛んでいく。

 この穏やかで心洗われる光景も、今日ばかりは旅立ちをせっついているように思えて仕方がなかった。心臓は浮き足立ち、壊れたメトロノームみたいに不規則な脈動を繰り返す。これからのことを思うと身支度をととのえる手はまるで動かなくて、ようやく旅立ちの支度をととのえたころには水平線に太陽の頭がのぞき海面が真っ赤に染まっていた。揺れる波によって光は絶えず形を変えてオレンジ色の宝石みたいに輝いている。

 思い出をすべて詰め込んだ時点で覚悟が決まったのか、その光景は素直に心に染み入った。「海からみる日の出も今日みたいにきれいだといいんだけど……」

 わざわざぐっすりと眠っている夫妻を起こして顰蹙ひんしゅくを買うのも申し訳なくて、シャルロッテは置き手紙と相場の五倍ほどの代金をベッドの上に置いて部屋を出た。荷物は女学生のかばんほどのスーツケース一つに収まった。もともと家から持ち出せた物も少なかったからすべてを詰め込んでもまだ空きがあるくらいだ。その割にうんざりするほど重たく感じるのは安物の骨董品だからか、もしくはこれまでの人生をすべて詰め込んだせいだろう。シャルロッテは年代物のスーツケースの取っ手を両手で必死に持ち上げ、酒場のよろい戸からこぼれ出る光だけを頼りに慎重に階段を下りた。しかしあまりに重いものだから三十段もないような階段を下りるためだけに五回は休憩が必要だった。

 ようやく大通りにでると真っ赤な太陽が目に染みてシャルロッテは思わず目を細めた。通りに立ち並ぶ木造の古い建物はどれも朝日を浴びて真っ赤に染まっていた。舗装路は強い光にさらされ、石畳の段差が妙に鮮明で割れ目から生えた小さな雑草が潮風に揺られている。

 シャルロッテは寝ぼけ眼をこすりながら舗装路を進んだ。実のところ緊張と不安と、それから深夜まで階下で客が散々わめいていたのでどうしようもなく寝不足だったのだ――普段はもっと早くに店を閉じるというのに、昨日に限って女主人は意欲に満ちていたらしい。

 港はまだ早朝だというのに活気にあふれてあちこちで怒声と罵声が飛び交い、それがこれからしばらくの間お世話になる船乗りたちによる騒ぎだと気がつくと自然と両肩に力が入った。

 男たちは昨日の酒も抜けていない千鳥足で、手にした積み荷も今すぐにどこかにぶつけてもおかしくない危うさ。船と桟橋の間には一枚の薄い木の板が渡され、船の中から屈強な男たちが現れては山積みにされた木箱を手に船の奥へと消えていく。

 地上では男が一人、長いサーベルを振り回しながらあれこれと激しく指示を飛ばしていた。

「バジル! また酒をぶちまけたら今度こそ容赦しねぇぞ」

「わかってるつってんだろ。今にみてろ、今日はまだ半ガロンも口にしちゃいないんだからな。残り半分は船に乗ってからだ」バジルは呂律も回らない口で言い返した。本人はそういったがそれ以上飲んでいるのははたから見ても明らかだった。彼は見ている方がドキドキしてしまうほど足をもつれさせて荷物を運び、どうにか桟橋まで進むと今度は危うく海に落ちかけさんざっぱら悪態をついた。ただ立っていることもままならなず、意思に反して体が左右に大きく揺れた。それからバジルは焦点の合わない両目をどうにか働かせ、桟橋の手前でその様子を見つめていたシャルロッテに気がつくと酒焼けした声をあげた。

「おい、マルセル。あれが例の女か?」

「俺が知ったことか。だが、多分そうだろ。じゃなきゃこんなところに来るかよ。向こうで突っ立ってる連中とはまた違う雰囲気だしな。まるでこれから戦場にでも行くみたいな面構えだ」

「それほど適切な表現もねぇな」バジルはシャルロッテのことを頭のてっぺんからつま先までなめるように眺めてから、少し離れたところにたたずんでいるエーヴ・パリアンテに目をやった。

 波止場には長年の友に別れをいうためにシャルロッテの知り合いが何人も集まっていた。その中にはミスター・パリアンテや当然ながらアナベル夫人の姿もあった。アナベル夫人はいつもの真っ赤なパラソルを持ちながら朝日に顔を焼かれている。けれど何度辺りを見回したってそこにリアーヌの姿はなかった。彼女は大好きなロウ船長にお別れを言うのが寂しくてとてもではないけれど部屋から抜け出せる状態ではなかったのだ。

 バジルはしばらく二人の姿を見比べてから快活に笑った。

「パリアンテの妹とどっこいどっこいだな。体だけを見るならむしろ妹の方がまだ見どころがあるってもんだ!」大きなどら声は港中に響き渡るかのようで二人はみるみるうちに顔を赤くさせ、エーヴはすぐに父親の背中に顔を埋めたけれどシャルロッテは顔を背けるのがせいぜいだった。ミスター・パリアンテは結婚もしていない貴族の娘が下賎な視線にさらされたとあって、怒りで顔を赤くしてあのバジルとかいう男を撃ち抜いてやろうと――というのもこの人も前日の酒がまるで抜けていないのだ――足を踏み出したけれど、エーヴが自分の服をつかんで離そうとしないのでそれは取りやめになった。それに冷静になって考えてみればけなされたわけでもない。これがもし娘の方が下だのと言われたら二度と口を利けなくしてやるところだったが――ともあれ、褒められていることに変わりはないだろう。本人も最初は度肝を抜かれたものだが、すぐに父親と同じ思考をたどり、今度は顔を埋めながらくすくすと笑った。

「馬鹿なこといってんじゃねぇ。日が昇りきる前に準備しねぇとまたどやされるぞ」

「へっ、船長が怖くて船になんか乗れるかってんだ! 俺はあの黒髭の船で働いたことがあるんだからな。わかるか? 黒髭だぞ! 俺の故郷じゃ誰だってその名前を聞けば震え上がったもんよ! あのイギリス野郎、ずいぶん出世したもんだ。あのままあの船に乗ってりゃ、今頃いかつい船の一隻でも与えられて大金持ち、伯爵とか侯爵とかって呼ばれてもおかしくなかったんだがなぁ」

「また言ってやがる! 妄言もいいところだ! 大体、黒髭だか青髭だかしらねぇが、どれほどおっかねぇやつだってうちの船長に比べたらいくらかマシに違いねぇ!」

 男たちが声をあげて笑い仕事に戻ったところを見計らってアナベル夫人はシャルロッテに駆け寄り声をかけた。 

「ああ、ついにこの日がやってきましたわね。これで今生の別れだと思うとなんだか……」アナベル夫人は同情している風を装いたかったみたいだが、夫人の瞳はあざけるようにきらめいて、今日はいつもの扇子も持っていなかったので思わず上がった口角を隠すことはできなかった。「どうかお元気で! きっとあなたほど人ならどこだって大成しますわ。それからあなたのお父さまにも、どうかよろしくお伝えくださいね。――まぁ、見つかればの話ですけれど」

「……ええ。アナベル夫人もお元気で」

 それからシャルロッテとかつての友たちは涙もキスも抱擁もない淡泊な別れを交わし、再びシャルロッテが離れるとエーヴはむすっとして小さく声をあげた。「まさかお父さまがロウ船長の船を推薦しているだなんて思わなかったわ!」エーヴは不満たらたらでシャルロッテをにらんだ。「きっとリアーヌが知ったら悲しいやら悔しいやらで死んじゃうわ。今日だってたった一言さよならをいうのが辛くて三日も前から落ち込んでるっていうのに」

「じゃあなんだ。おまえはあの娘っ子のために今も制海権を争っとる軍艦でも引っ張ってこいと? それこそ言語道断だろう!」

「だからってロウ船長のお邪魔になるじゃないですか。どのみち海軍なんてぼろみたいな服を着てへろへろになって帰ってくるだけなんだからむしろ――」

「つまりおまえは軍を馬鹿にするというのか!? この馬鹿娘が! 先月の賜暇では嫌というほど将校どもの尻を追いかけ回していたというのに、よくもそんな心ないことをいえたものだ!」

「そ、そういうつもりじゃありません……でも……」食い下がるエーヴにアナベル夫人は優しく諭した。

「ミス・エーヴ。わたくしはこれほど素晴らしい采配もないと思いますわ。何しろシャルロッテさんときたらいまだにご自身の立場をよくご理解なさっていないみたいですから、きっといい経験になるでしょう。荒くれ者たちにもまれた方が自分の立場が理解できるというものです。それに、もし万が一貞操に傷がつくようなことでも起これば……」アナベル夫人の高笑いが船乗りたちの低い声と混ざり合って港に響く。万が一なんて言ってみたけれど、実際は九割九分そうなると確信していたのだ。そしてそうなればもう一度成り上がる道も完璧に閉ざされることになる。何も恨みがあるわけではないが、あのうじうじした顔を二度と見ないで済むと思うと胸がすく。

 エーヴはしばらく不満顔をしていたが、シャルロッテが荒くれ者の船乗りたちにすっかり萎縮して、ちっともうれしそうではないのを見るとなんだか楽しくなって、アナベル夫人や父のいうことももっともだと思うようになった。

「ロッティも嫌がっているみたいだし、それならいいわ。それにしたってロッティって本当に変わり者! この町の女たちなら誰だって大喜びして船に乗り込みそうなものなのに。少なくともわたしならあんなところでぼーっとしてないで二つ返事で乗り込むけどな。ロウ船長と船旅だなんてなんだかロマンチックだもの」エーヴは子供らしい妄想で頭をいっぱいにしてうっとりと目を細めた。

長いこと港町で生活してきたシャルロッテだが、こうして船を間近で拝むのは実に六年ぶり、商船の竣工式以来のことだった。普段は大胆な割に過保護な父親は娘が港に近づくのを嫌がり、ほとんど港に連れてきてくれなかった。だけど、こんなことになると分かっていれば大好きな父を困らせてでも船に忍び込むべきだった。貴族社会になじむために苦手なダンスを四時間も練習するよりもよっぽどためになっただろう。

 そしてどうやらこの六年の間に造船技術はかなり進歩したようで、船はますます大きくなり、まるでそれ自体が巨大な生物みたいだった。荷を積み込む船員たちはさながら全身に血液を送り込むポンプだろうか。

 主甲板には丁寧に磨かれた砲台が片側に六基ずつ置かれ、砲門から八基の砲台が口だけを突き出している。外壁はタールを塗り直されて臭いも新しく、威圧的な深い黒色が反射していた。まっすぐ天に伸びた三本の帆柱には何枚もの純白の帆が張られ、さらには船のあちこちに複雑にロープが張り巡らされまるで蜘蛛の糸のようだ。船の側面には縄梯子状に編まれたロープが張られ、今も男たちが素早くそれを上り下りしていた。見上げてみると四人の男たちがヤード〔帆柱に対して垂直な棒。畳んだ帆をくくりつける〕にのぼり、帆を下ろしている真っ最中だった。男たちはうつ伏せになるような体勢で甲板をのぞき込みながら作業している。

「まさかわたしも手伝えなんて言われないわよね?」見ているだけで最悪の場面が容易に想像できて背筋が凍った。それも恐ろしいことに男たちの足場は細いロープがたったの一本だけ! いったいどうしてそんな不安定なものに命を預けられるのか気が知れない。しかも酔っ払っている状態で!

 シャルロッテが巨大な船を見上げながら二の足を踏んでいると、船からブロンド髪の大柄な男が降りてきてマルセルに近づいた。

「これで積み荷は全部か?」

「はい。あとはだけです」と、言いながらマルセルはシャルロッテを目で指し示した。

「ありゃ相当重そうだな! 繁殖期の雌牛を乗せるよりよっぽど苦労しそうだ。てめぇらはあの女の荷物だけ持って先に乗ってろ」

「アイ・アイ・サー!」男たちは声を合わせて返事をするとほとんどひったくるみたいにシャルロッテの手からかばんを奪い取り船に向かった。一人残った大柄の男は脇にひっさげたひょうたん型の入れ物を口で開けてラムをあおりながらシャルロッテに近づいた。その口ぶりから判断して平水夫よりは上の立場なのだろう。

 シャルロッテは警戒して体を縮こまらせた。

「よぉ、あんたが没落貴族のお嬢さまか? え? こりゃたしかに船長のいうとおり楽しむにはまだケツが青いガキだな!」男は豪快に笑い、シャルロッテの肩に腕を回してを押しつぶさんばかりに全体重を預けた。男が低い声を発するたびに酒とたばこの入り交じった悪臭が鼻につき――しかもこのとき気がついたけれど、どういうわけか男の左手には小指と薬指が生えていなかった。男はどうにか逃げようと身をよじるシャルロッテの顔を器用に三本だけの指でべたべたとなで回し、少女はなんだかもう恐ろしくて声も出なかった。

 男は意味もなく恐ろしい笑い声をあげて、しばらくすると彼女の細い二の腕をひっつかみ、半ば引きずるようにして桟橋の方へと向かった。男はたしかに酔っているはずなのに進む足取りに迷いはなくて、それもかなりの大股で歩くものだからシャルロッテの足は何度もつれて転びそうになった。

「は、離してください! 一人でも歩けます!」捕まれていない方の手でどうにか抵抗を試みたけれど、丸太みたいな指はびくともしない。しつけのなっていない犬を引きずるみたいにずんずんと進まれると肩から腕が抜け落ちてしまいそうだった

「そういうわけにもいかねぇ。おまえを積み込むのも船長の命令なんでな」男はそのまま船に乗り込み、船内につながる急な階段を駆け下りて――シャルロッテがステップに足を踏み出したその瞬間、彼女は思いがけず船橋〔船尾側の高い場所。舵取りを行う〕の上で水平線にのぼる太陽をじっと見つめるロウ船長を視界に捉えた。

 その瞳はまぶしい光を反射してまるで未知なる冒険に胸を高鳴らせる少年のようでもあったし、金貨や銀貨に対する貪欲な欲望を浮かべているようでもあったし、この旅路の目的地を見据えているようでもあったし、もしくはただ単にその光景に見入っているようでもあった。

 一瞬だけシャルロッテはその光景に心を奪われ両足がピタリと止まり、腕をひく男が気がつかなければ危うく階段から転げ落ちるところだった。

「てめぇ、死にてぇのか!? もっともそうなりゃ俺も楽でいいがな」

 大柄な男が案内したのは階段を一つ下った先にある個室だった。そこはかつて士官室として使われていた部屋だったが、長いこと開かれていなかったせいで部屋のあちこちに埃がたまっていた。それに部屋というにはおこがましいほど狭く、両手をめいいっぱい広げたら両端に指が届く程度の広さしかない。置かれているものといえば部屋の隅に押しやられたベッドと小さな丸机、椅子、それから両手ですっかり覆えてしまうほどの小窓が一つだけだ。最低限のものしか置かれていないというのに、ただでさえ狭い空間にこうも物が詰め込まれていると奇妙な圧迫感があった。その上、天井はかなり低く、この大柄な男なんて少し背伸びすれば天井に頭がついてしまいそうだった。こんな部屋に人間が――それも片方は大男――がいるとなると部屋はますます小さく感じた。

 男はシャルロッテのことを押しやるようにして強引にベッドに座らせると入り口を塞ぐように立ちはだかり、シャルロッテがひどい埃に激しく咳き込むのもお構いなしに話し始めた。

「いいか、一度しか言わねぇからその空っぽの頭にたたき込めよ。といっても何も難しいことはねぇ。貴族サマがどうだか知らねぇが、俺たちはシンプルでわかりやすい掟に従って生きてんだ。ダンスのステップを覚えるよかよっぽど楽ってもんだろ。いいか、お前が従うべき規則はたったの三つだ」いったいどんな恐ろしいことを告げるのかとシャルロッテは途端に緊張した。だが拍子抜けなことに、続いた言葉はまるで旅先で有頂天になる子供に言い聞かせるみたいな最低限の規則だけだった。

「夜八時には床につけ。食事はきちんと食え。それから船員の指示に従うこと。ただし矛盾する指示にはいつも立場の高い方が優先される。規則を破ったヤツは鞭打ちか置き去り刑だ。それからこの際だからはっきりと言っておくが、お前がこの船の上で常に許可されているのは呼吸と食事だけだ。それ以外はすべて船員の許可がいると思え」

 酒で焼けた低い声はまるで地をうかのようで、シャルロッテはボロボロのズボンの裾からのぞく毛むくじゃらのすねを見つめながら何度もこくこくと頷くしかなかった。

 果たして船長以外で誰の立場が上かなんてまったくわからなかったけれど、幸いなことにもそれはすぐに明らかになった。男の言ったとおりこの船のヒエラルキーはかなりシンプルな構造をして、船長と副船長とそれ以外はすべて平水夫に属する。そしてシャルロッテを部屋まで案内したあの大柄の男がイポリート副船長だと知ったのはそれからすぐのことだ。

 彼は基本的に船の内部、つまり食料や倉庫の積み荷とかいうところを管轄している。それから――重要なことに――シャルロッテ自身の管理を任されているのもイポリート副船長だという。となれば罰を与えるのもあの男なのだろうか? と、思うと首筋が急に冷たくなった。あの力強い巨躯に鞭なんて振るわれたらきっと一撃で肉が裂けて骨が見えてしまうだろう。しかもなんだかあの人は女性だから手加減しようとかそういう気がまるで見えないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る