7章
7-1
脳を揺さぶる打撃から目覚めたシャルロッテを襲ったのはひどい頭痛だった。まるで寝過ぎた日の目覚めみたいに頭の奥がずーんと重くて、目を開ける気にもならない。それにいつまでたっても頭の中はかすみがかっていて、しばらくはどうしてこれほど体調が悪いのかもわからなかった。次第に意識が覚醒して倒れる前の記憶を取り戻すと途端に全身の血が沸いた。今、目の前に船長がいたなら容赦なくお返しをおみまいしてやるところだ。きっと彼を目の当たりにしたら冗談でもそんなことを考えられなくなるのは分かっていたが――とにかく今はそう思った。
「わたしがたてついたからって激昂して、まるで子供ね。それも絶対にわたしの判断の方が正しいのに――待って、あの人はどうなったの?」
シャルロッテがなんとか起き上がろうとベッドの上で芋虫みたいに身をよじっていると頭上から柔らかな声がかかった。その声はこの船上生活では久しく聞かないような優しさに満ちあふれている声だった。
「無理に起き上がらない方がいいですよ。なにせあの船長に殴られたんだから、三日くらい動けなくたってまるで恥じるようなことじゃない。ましてや君はか弱い女性なんだ……クソッ!」デリックは
デリックはシャルロッテをベッドのヘッドにもたれさせて口元にラムを運んだ。正直そんなことどうでもよかったのだけど、親切心をはねのけるのも気が引けて、口内をぬらす程度の量を口に含んだ。飲み込むまでもなくアルコールは舌の上で消えて、いつもの熱がいつまでも舌をヒリヒリさせた。
「ありがとう。おかげさまでだいぶ気分もよくなりました」それからシャルロッテはあらためてその顔を点検して安堵の笑みを浮かべた。「それにしても、本当によかった……今すぐ傷を手当てしますから……」起き上がろうとすると頭がズキズキと痛んでシャルロッテはうめき声をあげた。この分だと本当に三日は起き上がれないかもしれない。
「飲むのが先です。僕はそんな愛らしい演技には騙されませんよ。さぁ、ワインのようなものだと思って」
「でも――」
「僕のことは気にしないでください。むしろ怪我を負ってるのはあなたのほうですよ。話はそれからだ」
押し付けられたラムを受け取り、今度はごくりと飲み込むと体中にゆっくりと血が巡った。すっかり飲み込んでから反省したが、体の中に突然こんな量のアルコールを取り込んだらわけが分からなくなるような気がした。折角なら冷静な頭で、この機会に人の優しさをたくさん味わっておきたい。
きついアルコールによってひどい頭痛が誤魔化されるとシャルロッテは自然と口元に笑みを浮かべた。
「デリックさん……ありがとうございます。わたし、これほど人に良くしていただいたのは初めてです。このご恩は必ずお返しします」
「そんな必要はありません。当然のことをしたまでです。えっと、ミス――」
「シャルロッテ・ビリーです」名乗っていなかったことを思い出すと頭から血の気が引き、それと同時に恥ずかしくて頬に瞬間的に赤みがさした。血の気の引いた白い肌と羞恥の赤みが同居するとシャルロッテの顔は熟れたりんごみたいに真っ赤だった。さぞ気の利かない女だと思ったに違いない、とシャルロッテは信じて疑わなかったがデリックは彼女が想像したよりもずっと寛容だった。
「きれいな名前だ」デリックはシャルロッテの青色の瞳を覗き込んでわざとらしく呟き、芝居がかった笑みを浮かべた。「僕はデリック・ランスです。きっと互いの名を交換するのはもっと素敵な場の方がいいと思うのですが……」
きっと彼のいう素敵な場っていうのは舞踏会のことね。そう思うとここだけ背景に古ぼけた木材ではなくて華々しいサルーンが広がっているような気がした。彼の服だって茶色い布切れではなくきちんとノリの効いたシャツで、しっかりと磨かれた重い革靴を履いているような気がする。シャルロッテはデリックの紳士らしい態度にすっかり感動して酔いしれた。「やっぱりこの方は名の知れた紳士に違いないわ。他の船乗りみたいに粗暴で乱暴なところはこれっぽっちもないし、いいえ、陸の上だって初対面の人間にこれほど優しくできるのは才能ね」
デリックは一つ一つの単語を区切りながら丁寧に話したので、会話はかなりゆっくりだった。それから彼は一つ一つの動作がいちいち役者みたいに大袈裟だったが、シャルロッテはその奇妙な特徴をこれっぽっちも笑う気にはならなかった。彼が母語ではないフランス語を操っているというのにどうして笑えようか? むしろここのところ船乗りのまくし立てるような一方的な言葉しか聞いていなかったから、その穏やかな話し方はより一層好感がもてたし、動作については父だってそうだったから一種の懐かしさすら覚えた。
「名前を交換する場所なんて気にしません。それが素敵な人であればいつだって構わないもの」
「けれど無理をさせていませんか? 今だってどうやらお顔が赤いみたいですし、どこか傷が痛むのでは」そう言われてシャルロッテはますます顔を赤くした。酒のためだけではなく心臓がにわかに強く脈動して、首筋にじんわりと汗がにじむ。「そういうわけじゃないんですけど……」なんだか彼のことをみていると緊張してシャルロッテは小さく顔をそむけた。一体どうしたっていうのだろう。普段ならこんなことないのに。
軽くうつむき、真っ赤になって黙りこくってしまったシャルロッテをデリックはここぞとばかりに――少し不躾なほど――じろじろと観察した。とりわけ彼がよく観察したのはシャルロッテの白く細い指と手首、それから小さくて飾り気のない両耳と首もと、最後に全身を覆う美しいドレスだ。
「どうやらシャルロッテは僕をいたく気に入っているらしいな」デリックはとある事情によって好意というものに人一倍敏感だった。シャルロッテ本人ですら気がついていなかったことだが、この小さな種のような感情を健やかに育てていけば、それがいずれ愛情として心に深く根をはって大樹となることは確実だ。
デリックは心のうちでニヤリと笑ったがそれはおくびにも出さずに、極めて紳士的な立ち振る舞いでシャルロッテの細い指に触れた。
「もし起き上がれるようなら夜風に当たりませんか? そっちの方が気分もよくなるはずですから」
先ほどのラムが効いて身体は熱とやる気を取り戻した。シャルロッテはこくりと首を縦に振ってデリックの手を取った。
二人が部屋をでると、食事室から男たちの騒がしい声が絶えず聞こえてきた。すでにとんでもない量の酒をあおっているようで、男たちは顔を真っ赤にして呂律もほとんど回っていない。食卓には普段よりも奮発した豪華な食事――といっても陸だったなら見向きもしないような代物――と酒に加えて今日の戦利品がどっさりと山積みにされていた。男たちはそれを囲んで勝利の宴を繰り広げている。あちこちで咆哮にも似た雄たけびがあがり、狂ったようにラムをあおった。
彼らが明日のことを考えていないのは明白だった。というより、こんな日にまで翌日のことを考えて自制できるような奴はこの船に一人も乗っていないのだ。たとえ次の日に頭が割れるような苦痛にさいなまれると分かっていたって、羽目を外せないのなら決して男ではないし、ましてや仲間でもない。
やがて一人がテーブルを拳で叩きながら酒焼けした潤いのない喉を締め付けながら、歌にもなっていないような歌詞を歌い始めた。廊下を通り過ぎるシャルロッテにはほとんど聞き取れなかったが、それは船乗りなら全員知っているようなお決まりの歌だった。水夫たちは次々とその輪に加わり、あっという間に三十人以上の大合唱になると船すらも共鳴させた。
――よお、ほの、ほ でラム一本!
そんな熱狂の中で異分子二人が甲板に逃げだそうが誰も気にすることはなく、二人は何の障害もなしに甲板にたどり着いた。
どうやら気絶している間にすっかり夜になっていたようで、日が落ちて甲板には暗闇と静寂が広がっていた。甲板には誰もいなかった。普段ならば舵を握って調子外れな歌を披露するセリオすら今日は下の喧噪に加わっていた。それから悪魔の恐ろしい船長すらも。
昼間の喧噪がまるで嘘のようだった。果たしてこの場所で本当にあれほど恐ろしいことが起こったのだろうか。もしも今、隣に優しくエスコートしてくれるデリックがいなければあれが夢だったと錯覚してもおかしくなかった。甲板は静まりかえり、階下から男たちの騒がしい声が聞こえるだけだ。空には神秘的なほど眩いばかりの星々が散りばめられて宝石のようにキラキラと光り輝いている。夜風は冷たくてすっきりとしていて、酒で火照った身体がゆっくりと冷やされていくのが心地よい。
シャルロッテは甲板の縁に駆け寄って夜風を存分に浴びた。水平線の上には膨らみかけた月がかかり、海面に光が反射している。海はタールのように真っ黒で、波に合わせて揺れ動くブーメラン形の反射はまるで海を泳ぐ巨大魚のうろこのようだった。
静まり返った海は日中の騒がしさなんてすっかり忘れて、波が船底に当たって崩れる音が響いている。水泡が水面に舞うのが綺麗でシャルロッテは船から身を乗り出して下を眺めた。まるでわたしのガラス玉みたい。
「気をつけて」デリックはシャルロッテのなだらかな肩に上着をかけた。
「どうしてこんなによくしてくれるの?」シャルロッテは聞いた。
「そりゃあ……女性に尽くすのは当たり前のことでしょう?」それから心の中でつぶやいた。ましてやそれが貴族の娘ともなればなおさらのことだ。デリックは一瞬だけ下衆な視線を浮かべてから「それによくしてもらっているのは僕の方だ」と付け足した。
「シャルロッテ、君ほど心の優しい人を僕は知らないよ。見ず知らずの僕を助けてくれたんだ。尊敬するなって方が無理な相談だ。君の優しさに触れたらどんな荒くれ者だって大人しくエスコートするしかなくなるんじゃないかな。とにかく、僕は感動したんだ。あんなことなかなかできるものじゃない。今だって信じられないくらいだよ。君みたいな愛らしい人が心の中にあれほどの勇気を持ち合わせているなんて」
あまりに褒められるものだからシャルロッテは段々気恥ずかしくなってデリックから一歩分の距離を取った。家柄ばかりを重視する港町で育ったシャルロッテからすれば、今日であったばかりで、ましてや男性からこれほど真摯な対応をされることだって初めてだった。いうなればこの時のシャルロッテは生まれて初めて男性から優しくされてすっかり舞い上がっていたが、だからといってすぐに自分に気があると思えるほど能天気でもなかった。エーヴ・パリアンテが毎回有頂天になっては泣きをみるのを何度も間近で眺めていたからだろうか? そんなわけでシャルロッテはこれほどデリックにわかりやすく好意を示されてもきっと誰に対してもこうなのだろうとしか思わなかった。
「外国の方って本当に優しいのね。わたしのことを哀れに思って情けをかけてくださるなんて」
「哀れにだって? そんなことない! それに誰にでも優しくしてやると思ったら大間違いだ。シャルロッテ、僕は君だから――」と、いいかけてデリックは大袈裟に口に手を当て「しまった」という顔をした。その反応はあまりにも大げさだったが、内容に気をとられてシャルロッテはそんなことにすら気がつかなかった。彼女の青色の目は驚きで見開かれて言葉を失った。
「あ……いや、なんでもない。どうか忘れてくれ。気を悪くしたなら謝るよ。本当は心に留めておこうと思っていたんだ。何しろまだ出会って何時間も経っていない。ただ――なんでか初めて会った気がしないんだ。僕たちは長いこと海で隔てられているっていうのに馬鹿なことを言ってると自分でも思うんだけど――いや、やっぱり全部忘れてくれ。きっとあなたのような素敵な女性にはもう決まった相手がいることだろうし――迷惑だっただろう」
「そんな迷惑だなんて!」シャルロッテは声をあげてから「それに……」と続けた。
「たしかに昔は婚約者もいましたけれど……そんな縁はとっくの昔になくなってしまいました」その言葉にデリックは心のうちでにやりと笑ったけれど、そんなことおくびにもださずに続けた。
「まさか、そんな……! 君も?」
「え?」シャルロッテが驚いて何かを発しようとしたそのとき、階段の方から低い怒鳴り声と階段を上る音が聞こえて心臓が大きく飛び跳ねた。悪いことをしているわけではなかったけれど、なぜだかこうして異端者二人が仲を深めていることは秘密にしないといけないような気がしたのだ。そして、それはどうやらデリックも同じ気持ちだった。
「シャルロッテ! こっちだ!」二人は甲板に置かれた木箱の裏に身を隠した。木箱には焼きごてで商館の印が刻まれている。おそらくこれも戦利品の一つだろう。どうやら倉庫にしまい込むのをすっかり忘れたらしい。この場所はちょうど階段から死角になっているのできっとのぞきこまれでもしない限りばれることはない。二人は息を殺して静かに甲板の気配を伺った。どうやら甲板に登ろうとしているのはセリオとマルセルのようで、酒を大量に含んだせいでいつも以上に調子外れな海賊の歌が静かな海に響いている。ほんの十段もないような階段なのに、今の彼らはその階段が何百段にも見えているようで何度も足を踏み外して結局甲板にたどり着くためには莫大な時間がかかった。
シャルロッテは初めこんな脆弱な防壁はすぐに看過されてしまうのではないかと思って肩をこわばらせたけれど、甲板を見回りにきたのがその二人だと気がつくと少しだけ肩の力を緩めた。彼らは船乗り比較的優しい部類の人間だった。少なくともシャルロッテのやることなすことに目くじらをたて、再起不能になるまでたたきのめさないと気が済まない連中とは違う。もしもこれが船長だったり何かにつけて目の敵にしてくる片足のアンドレだったりしたら首筋に脂汗が滲んでいるところだったけれど。しかし、まったくの新参者であるデリックはそんな事情知るはずもなく、色々な想像をして真っ青な顔をしながら様子をうかがっていた。その姿はまるで人畜無害な小動物に噛み殺されるのではないかと怯える子供みたいでシャルロッテは小さく肩を揺らして笑った。
「なんだかかくれんぼみたいね。わたし昔からあの遊びが大好きなの」
シャルロッテの意識は一瞬だけ過去に向けられた。幼い頃はよく父に遊んでもらったものだ。父は年甲斐もなくいつだって本気だったけれど、シャルロッテの方はそうでもなく、むしろ積極的に見つかりにいったものだ。そんなことには気がつかず、いつも自信満々な顔をして近づいてくる父を見るのがいつだって大好きだった。
シャルロッテが頬を緩めたのをみてデリックは信じられないという顔をした。
「何をのんきな! 少しは僕のことも心配してくれよ。この船の女神をたぶらかしたなんて思われたらたまったものじゃない」
「怒られたりしないわ。なんだか咄嗟に隠れちゃったけれど、そんな必要もなかったのよ。だって誰もわたしに興味なんてないもの」
「へぇ……」デリックは瞳をぎらりと輝かせた。ますます都合がいい。「ならここに乗ってるのは男じゃないんだな。君みたいなきれいな人を放っておくなんてあり得ない話だ」
シャルロッテはデリックの大袈裟な物言いにこそばゆくなって口元に困ったような笑みを浮かべた。それに意識してみると二人の距離は互いの肌が触れ合うほど近くて、互いの息遣いすら鮮明に感じる。もっと静かにしていたら鼓動のたしかなリズムすら聞こえてきそうだ。
デリックは慣れた手つきでシャルロッテの温かい指先を握り、暗がりのおかげでネイビーにも見える瞳をのぞき込み、神妙な口調で耳にささやいた。
「君のことがもっと知りたい」
見つめ合う二人の上で夜空は眩く輝いて、二人の間にはどんなざわめきも割り込むことはできなかった。
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