7-2

 その夜、シャルロッテは心臓が高鳴ってすぐには寝付けなかった。身体こそ昼間の一件で疲れ果ててはいたけれど、彼女の小さな胸の中はこの孤独だと思っていた旅路でついに心を許せる唯一の理解者に出会えた喜びと不思議な息苦しい思いが心臓を締め付けてどうしようもなかった。いくら目を閉じて心を静めようとしたところでまぶたの裏には何度も先ほどの光景が思い返される。結局、シャルロッテが甘い夢の世界に落ちたのは水平線に真っ赤な太陽が輝き出すころだった。小窓から射し込む暖かい光に安心してようやく眠りについた。男たちが起きだす程よい振動や話し声、それからゆりかごのように優しく揺れるばかりの船も彼女を夢にいざなう手助けをしてくれた。

 寝つきの悪さに比べれば目覚めはかなり心地よくて、シャルロッテはこの船に乗ってから初めて熟睡して、ようやく凝り固まった重荷が心から解き放たれたような気がした。旧家のように鳥の優しい音色で目を覚ますことはなかったし、相変わらずマットレスは石のように固くて――それでもあの屋根裏の寝心地に比べればはるかにいい――全身が固まったけれど、心だけは純白の天使の羽が生えて今にでも飛んでいきそうなほど軽い。

 シャルロッテは眠りに落ちる前の記憶をたどって、デリックのことを思い出すとはにかんだ笑みを浮かべた。彼のことを思うと心は自然と温かくなってほんのりと頬が高揚する。この船の上でこれほど晴れやかな気持ちになるとは、やはり何度想像しても不思議だ。

「まるで今も夢を見ているみたいだわ。まさかこんな海の上で新しい出会いがあるなんて」

 寝付くのが遅かったせいもあって、すでに時間は正午を超えて太陽は真上よりもわずかに西に寄っている。シャルロッテはしばらくベッドの上で穏やかな気持ちに身を委ねながら髪をほぐし、それからいつものように扉を五センチほど開いて奥を覗いた。船員たちはいつものように上へ下へと駆け回っていて甲板からはいつものように気性の荒い怒鳴り声や喧噪が響いていくる。

 その光景を目にした途端、シャルロッテの心には暗雲が立ち込めた。いくら心をざわつかせる逢瀬があるからといってここが船長の牛耳る残酷な海の上であることに変わりはないのだ。それにデリックの傷も気になった。商船を我が物とした兼ね合いで、船員は半分ほど向こうの船に渡っていた。船の二大巨頭であるうちの一人、イポリート副船長が商船に移ってくれたのはありがたかった。本当は船長にいなくなってほしいところだが、あまり贅沢をいうと罰が当たると思ってシャルロッテはとりあえずその変化を喜ぶことにした。しかし恐ろしい船員が半分も居なくなったからといって喜んでばかりもいられない。人が減っても船を動かすためには同じ業務を必要とするからだ。水夫はいつも以上に忙しそうで、普段ならばこうやってドアの隙間からのぞき込んでいると絡まずにはいられない連中も、上へ下へと走り回って黙々と業務にあたっている。

 彼らがどれほど忙しく働き、手足に豆をつくって焦げた肌をさらに黒くしようがシャルロッテはなんとも思わなかったし、むしろ胸がすく思いだったがそこにデリックが含まれるかもしれないと思ったら話は別だ。

「まさかデリックさんも無理に働かせてないといいけど。でもあの船長ならやりかねないわ」シャルロッテは不安に駆られて甲板にのぼると辺りを見回した。

 甲板では水夫たちが寄り集まって帆を下ろしている真っ最中だった。大の男が数人がかりで麻縄をひっぱっている。シャルロッテはその中に例の青年の姿を見つけてぎょっとした。昨日も線が細い人だと思ったものだが、荒々しい海の男たちに比べるとやはり彼はいかにも貧弱そうにみえた。華奢とまではいかないけれど、十分痩せ型でその筋肉もあまり使いたがられていないように見える。だからこそ彼が船員たちの間にまじっているとそこだけ空間がゆがんでしまったような気がした。デリックの腕の傷は適当な茶色い布で結ばれているだけで、少しでも動かしたらまた血があふれてきそうで恐ろしい。

 しばらく唖然とその光景を見ているとデリックはシャルロッテの姿に気がつき、とりつくろった笑みを浮かべた。それから仕事が一段落すると、いかにも親しげに彼女に駆け寄りシャルロッテの白い指を手に取ってぎこちなく口づけを落とした。

「体調は? さっき部屋をのぞいて、ぐっすり眠っているようだったからそっとしておいたんだ。もしかしてやっぱり無理をさせたかい?」

「ううん、そんなことないわ。寝つくのが遅かっただけ」

「けれど頬が赤いし……」デリックはシャルロッテの頬に手を当てて大袈裟なほど心配する表情を浮かべた。「まだ傷が痛むかい? それなら無理しないで」

「それは……」シャルロッテはますます緊張して口ごもった。そのときマルセルが怒鳴り声をあげた。

「おい新人! サボってねぇでさっさと働け! てめぇ一人で抜けた穴を埋めてもらわねぇとならねぇんだからな!」

「怪我人一人で埋まる穴なんてたいした大きさだわ。商船に移った人たちはきっと今までお酒を飲むだけで何の仕事もしていなかったのね。とにかく怪我人を働かせるなんてばかげてるわ」相手がマルセルであることと、船長が不在なのをいいことにシャルロッテは珍しくきっぱりとした口調で言ってのけた。彼の腕に巻かれた茶色の汚らしい布はおおよそ傷口にあてるような代物ではなかった。その上、激しく動かしたせいで傷口に薄く張っていたかさぶたが剥がれかけて、布には赤黒い血が滲んでいた。自分がのうのうと寝ている間に彼がいったいどんな仕打ちを受けたのかと想像するだけでシャルロッテはゾッとして昨日無理にでも手当しなかった自分を憎たらしく思った。少なくとも、あの傷はしっかりと治療されるべきものだし適当な布で縛って放っておけるようなものには思えなかった。ましてやこうして肉体労働に殉ずるようなものだとも思えない。

 シャルロッテの脳裏に瀕死の母の姿が思い浮かんだ。かすり傷のようなほんの小さい怪我からあっという間にこの世を去ってしまった母のことを。町一番の名医がつきっきりで治療してもあっけなく天にいってしまった母のことを。

 何もかもが整った地上ですらああも簡単に命が消えていくっていうのに、設備も医者もないようなこの海上でどうして人が死なないと信じられるだろう。もうあんな思い二度とごめんだ。無力に弱っていく人だけは家族でも悪党でも見ていられない。先日見た夢と現実の思い出したくもないようなおぞましい記憶がすぐそこまで蘇り、シャルロッテは恐ろしい妄想を取り払うように慌てて首を振った。

「そんなのダメ、こんなの絶対間違ってるわ。傷が完全に塞がるまでは安静にしていなくちゃ」

 マルセルは鼻を鳴らした。「その程度ので仕事が免除になるかよ。それだったら俺だって毎日自分の腕を切りつけるな」母がささくれを指に刺したくらいの傷でどれほど苦しんで死んだのかをこんこんと説明してやりたいところだったが、続いた言葉にその気持ちは飲み込まれた。「第一、この男はそういう契約でこの船に乗ってんだからな」

「どういうこと?」シャルロッテがデリックを見て首をかしげると彼はマルセルに同意するみたいにうなずいた。

「シャルロッテ、心配してくれるのはうれしいけど、あいにくそういうわけにもいかないんだ。どうやら悪魔に目をつけられたみたいでね。まぁ、昨日の幸運を思えばこのくらいどうてこともない。船長に言われたのさ。この船に乗るなら働けってね。それで今朝あの契約書にサインしたから逆らうわけにもいかないってものなんだ」

「脅されたの? どうしてそんなひどいことができるのかわからないわ。怪我人を働かせるだなんて。ましてやろくな手当もせずに! ねぇ、せめて手当だけでもしちゃだめかしら? もしも……もしも船長が何か言ってくるようならわたしが――」

 そのとき甲板にやってきたロウ船長が自分のことをじっと見ているのに気がついてシャルロッテは緊張の面持ちを浮かべた。途端に昨日殴られた場所が熱を持ち始めるような気がしたのだ。緊張から心臓は奇妙に脈拍を早めて首筋を嫌な汗が伝う。何しろ殴られた記憶は鮮明に脳裏に、それから魂に刻まれていた。でも、デリックが言うのなら――。

 しかし実際はロウ船長がシャルロッテを目に留めたのなんてほんの一瞬のことだった。シャルロッテは恐怖のあまりそれが永遠に感じただけだったのだ。彼にとって彼女は自分が昨日殴り飛ばした無知な娘に過ぎず、生きているのならそれでいいのだ。もちろん死んでいたって構いはしないが。船長が目を光らせていたのは船長の方だ。隠すつもりもない視線にデリックは当然気がつき、顎をさすって「さて、どうしようか」と軽く思考を巡らせた。「つまらない仕事から解放されるのはありがたいが……見張られてるのは間違いないからな。少なくとも今は大人しくしておいた方が何かと利がありそうだ。それにシャルロッテには無事でいてもらわないと困る」

 デリックはそう結論づけて、怯えながら船長の様子を伺うシャルロッテの肩を抱いた。

「シャルロッテ、君がそんな危険を冒す必要はどこにもないよ。女性をそう何度も戦地に送り込んでたまるものか。それにどうやら船長は妙に気が立ってるみたいなんだ。変に刺激して反感を買う必要はないだろう。傷が塞がってないのはたしかにその通りだが、昨日みたいに血が止まらないわけでもない。仕事さえ終われば何をしたって文句言われることはないさ。だから、少し部屋で待っていてもらってもいいかい? 終わったら必ずすぐにいくから」

 シャルロッテはデリックの言い分を聞きながらもう一度遠巻きにロウ船長に視線を向けた。彼はすっかりシャルロッテにもデリックにも興味を失ったようで、上等な葉巻をふかして白い煙を全身にまとわせていた。しかしデリックのいうことは少し疑問で、船長の様子は上機嫌というわけでもないけれど特段不機嫌にも見えなかった。何より、シャルロッテはこの船に乗ってからというもの怒りで全身を膨らませて眉を寄せる船長は見たことがあるが、虫の居所が悪い船長なんてみたことがない。それもそのはずだ。不機嫌になるのは自分の要望が叶わないからなのだから。船長はこの船のすべての指揮権を握っているし、それに――シャルロッテは唇を真横に結んだ――機嫌が悪くなれば真っ先にその原因を殴りつけるから鬱憤なんてたまる訳がないのだ。それともこの無敵に思える船長にも手をこまねくようなことがあるのだろうか? そんなの信じられない。第一、意外なことにも船長は自分がどうしようもないもの――たとえば天候だとか獲物となる商船がまるで見つからないとか――そういうことに対して腹をたてる様子がないのだ。船乗りたちが口々に文句をたれるのを馬鹿にしたように笑って、むしろ機嫌のいい表情をみせる。

けれど彼がそういうからにはそうなのだろう。シャルロッテだってわざわざ殴られたくはない。きっとデリックを乗せたことを後悔してるんだわ、とシャルロッテは予想した。いくら彼が拳ですべてを解決できたところで過去の自分を殴りつけることはできないもの。だとすればその八つ当たりのような怒りがデリックに向かせないためにもあまり派手な行動は取らない方がいい。

「……わかったわ。でも無理しないで」

「ああ、もちろん」

 シャルロッテはおずおずと引き返しながら先ほどのロウ船長の顔を思い出していた。

「なんだか一瞬だけわたしのことを心配したような気もしたけれど……きっと見間違いね。それどころかもう起き上がったのかってうんざりしているかもしれないし。何にせよ、また殴られたらたまったものじゃないわ。あんな打撃何回も食らっていいものじゃないもの」もしも彼が罪人に鞭を打つのだとしたら、たとえそれが罪人であっても同情に値するわ。

 自室に戻ったシャルロッテはガラスの首飾りを外して机の上に置き、ベッドの上に座り込んで頭を抱えた。デリックが不当に働かされていることにも頭を悩ませたけれど、それ以上にシャルロッテが頭を悩ませたのは果たしてあの傷をどうやって手当しようかというところだ。

「見た目よりも傷は深くないみたいだけど……」

 幸いにも傷は浅く――危なっかしいけれど――つながっていたので、わざわざ屋敷から持ってきた裁縫道具の出番がなさそうだとシャルロッテは安堵の息を吐いた。さすがのシャルロッテでも外科医よろしく傷口を縫合するなんてできないし、想像しただけでも倒れてしまいそう。軟こうなんて上品な物が積まれていないことは間違いなかったが、さしあたってもあの使い古した雑巾のような悪臭がする茶色い布だけはどうにかしなければいけない。せめて包帯でもあれば……、と思ったがそんな上質なものがこの船にあるとは到底思えなかった。あったとしてもわたしが知らない場所に隠してあるのなら意味がない。あれこれ質問して船長を困らせないと大見得おおみえを切ったからだ。そうでなくたってしばらくは船長と話したくなかったし、他の水夫に聞いたところで意地悪して教えてくれないに決まっている。

 シャルロッテは困り果てて部屋の中を歩き回り、今まで一度も開けてこなかった部屋の引き出しを開けてみたが都合よく包帯が見つかるわけがなかった。引き出しの中に入っていたのは埃と何かのネジが一本と木片だけだ。

 再びベッドに腰を下ろしたシャルロッテが途方に暮れかけたところで、ふと自分のドレスが目に入った。ドレスの裾はふんわりと膨らみ、レースなんかの飾りはどこかへ引っかけてボロボロだがそんなことはどうでもいい。シャルロッテはオーバースカートを持ち上げて何枚も重ねて仕込んでいるペチコートを見つめた。薄い白い布で、裾にはフリルがあしらってある。これはドレスを膨らませるための代物だが、舞踏会では華やかに見せてくれても船上では何の恩恵もなかった。それどころかどこに行っても足を引っ張るばかりなのだから、むしろボリュームなんてない方がいいに決まっている。

 貴族の文化は気に入っていなかったのに、今の今になるまでペチコートを履かないという選択が頭に浮かばなかったことにシャルロッテは苦笑して、その気持ちをぶつけるみたいに純白のペチコートに手をかけて思いっきり引っ張った。ペチコートはは縫い目からブチブチと音を立てながら引き裂かれた。フリルが邪魔だし、このままではすぐにほつれてしまうがそれはあとで直せばいいだろう。そのための裁縫道具だ。

 手持ちのペチコートをすべて裂き終えるとベッドの上にこんもりとした白い布の山ができた。それからはデリックが訪ねるまで間、フリルを丁寧に取り払い、布の端を縫いながら時間を潰した。歌を口ずさみながらひたすらに手を動かすのはなんだかとても楽しかった。思ってみれば船の上で仕事を見つけたのは初めてだった。なすべきことがあるというのはそれだけで精神を安定させるし、それが人のためになるというのならなおさらのことだった。

 シャルロッテは時間を忘れて両手を動かし続け、ふと顔をあげて小さな窓から外を覗くとすでに太陽は落ちて小さな星が空にきらめいていた。ベッドの上にはまだ縫いかけの布が山のように置かれている。減ってはいるはずだが、これっぽっちもそんな気がしない。

 耳を澄ませば外のテーブルで男たちが食事をしながらいつもみたいに騒いでいる声が聞こえた。

「それにしてもデリックさんったら遅いな。忘れていなければいいけれど……それともまた何か理不尽な目に遭っていたりして?」

 そう思うとシャルロッテはゾッとして、布と包帯を片付けて早速彼を探しに行く決意をした。

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