7-3
そのころデリックは食堂で船員たちに混じって暇を潰していた。シャルロッテのところを訪ねるという約束は覚えていたけれど、その実あまり乗り気というわけでもなかった。それならば気のあいそうな船員たちと少しばかり机を囲んで酒をあおった方がまだ楽しいというものだ。それに船員の方もまったくの偶然からこの船に乗り込んだ新人に興味津々だった。しかもこの船唯一の女性と妙に親密であるとすれば注目もひとしおだろう。
「随分あの女と仲良くしているらしいじゃねぇか。え? で、どうだった? あっちの方の具合は?」
「馬鹿いえよ! あの女、ついに船長にかみつきやがったんだぞ。気の強い女は具合がいいって相場が決まってんだろ」
「きっとぼろぼろ泣きながら締め付けてくるぞ」
デリックは涼しい顔をしながら酒をあおり、船員たちの下衆な言葉や質問を軽くいなした。口元には軽蔑とどうしようもない悪への崇拝が入り混じった薄笑いを浮かべている。デリックは床に唾を吐いた。
「あんたらが案外ピュアで驚くばかりだな。この分だと彼女の純潔も無事なようで安心したよ」
「紳士でも気取ってるつもりか?」片足のアンドレが立ち上がり我慢ならない怒りのままに椅子を蹴り倒すと賑やかだった食卓に張り詰めた緊張が立ち込めた。「いつまでその薄ら寒い演技を続けるつもりだ? 俺ァ、人を見る目だけは自信があるぜ。特に同じような出所なら尚更な! 俺を詐欺にかけようたってそうはいかねぇ。もっとも、ころんと騙されるのはあの世間知らずのおぼこくらいのもんだ」
船員たちに混じって静かに酒を飲んでいたデリックはニヤリと笑って両足をドンと音を立てて机の上に広げた。重力によって上がった裾からは足首からふくらはぎにかけて大きく掘られたドクロの刺青が邪悪な表情で船員たちを見つめていた。
「本当にそう思うか?」それから悪人が悪事を自慢するとき特有の尊大ぶった感じを存分に出してデリックは話し始めた。「俺に言わせりゃあ、女なんてどれだけ歳をくってようが金のなる木だ。それも年がいった死に損ないほどたんまり金を溜め込んでやがる。それにな、世間知らずの娘っ子よりも、案外子供を兎みたいにぽんぽん産んですっかり枯れちまった女の方が食いつくぞ。それもいとも簡単にな! 不満たらたらな分よっぽど楽だ。俺はそこにちょいとばかりつけこんで甘い夢を見させてやるってわけさ。阿片の夢は高くつくがな。まぁ座れよ」デリックは自分の隣の空席を顎で指し示して片足の男をなだめた。アンドレはまるで納得していないらしく、床に突き刺された義足が小刻みに震えていた。「大体、あんたを意気地なし呼ばわりしたわけじゃねぇ。そう取るなら謝るよ。悪かった。とにかくそっちの方が俺に都合がいいってことだ」デリックは口を歪めて人相の悪い笑みを浮かべた。
このデリック・ランス――本名をジェフリー・クィルターという男はイギリスで名を馳せた盗賊にして悪名高き結婚詐欺師だった。名を変え、場所を変え、分別もつかないような少女を言葉巧みに誘導して、持参金と純潔だけを奪ってあとは姿をくらましてしまう。その対象は娘だけではなく、未亡人や貴婦人までにもおよび、その際には女の宝石や金目のものも残さず頂戴して残さず質に入れてしまう。悪銭は身につかないもので、一人の女性の人生を終わらせてまで手に入れた金銭も大抵すぐになくなってしまったけれど、彼はそんな刹那的な人生を楽しんでいた。何十回となく同じ罪を繰り返し、縛り首を間一髪で避け、ついに故郷を追われることになっても彼はこれっぽっちも反省しなかったし動揺もしなかった。どこであろうと仕事はできるし、それにデリックはこの悪事こそが自分の天職だと思っていたのだ。そんな男にシャルロッテが騙されるのも無理のない話だろう。何しろ、彼はその道のプロフェッショナルなのだから。田舎出身の成金貴族の娘にどうして宝石とガラス玉の区別がつきようか?
「仲良くしようじゃねぇか。ほらよ、お近づきの印だ」と、いいながらデリックはポケットから煙草を取り出して机に放り投げた。「最後の一本だ。どうせこの船でも煙草か金か……まぁそんなのを賭けて遊んでるんだろ? 俺も混ぜろよ。本当に海は娯楽が少なくてかなわねぇな。囚人でもないならなんでこんなところで働いてるんだか」
憎まれ口を叩きながらもデリックはアンドレに対してきちんと尊敬の目をしたので彼は提案を受け入れて腰を下ろした。しけた煙草に火をつけると白い煙が天井に舞い上がり、やがて空気と混じって消えていった。決してきな臭い新参者を認めたわけではなかったが、煙草は船の上では間違いなく貴重品で、彼は現金だった。女嫌いの彼もシャルロッテがおずおずと煙草や金貨を差し出したなら普段の厳しく一種病的とも言えるような態度を翻して慣れない笑顔すら浮かべるだろう。
殴り合いを期待した男たちは興味を失って元の会話を再開した。デリックの豹変ぶりなんてもはや誰も気にしていなかった。というのも荒っぽい口調や態度は大人しくしているよりもよっぽどその体に馴染んでいたのであっという間に受け入れられたのだ。
「それにしてもよく気付いたな」
「クズは全員同じ顔つきをしてるからな」
「おっと同意してやりたいところだが、俺はこの顔でかなり稼いでるんでな。どうやら女どもはこの顔が好きらしい」アンドレは鼻を鳴らしたがデリックは怯えもせずに極めて大胆に切り出した。それは彼がこの船に乗ってからというものずっと気になっていることだ。「それであの女はなんなんだ? まさか船長の愛人ってわけでもないだろ? 親族か? それとも大穴で実の娘だったりするのか?」と、言ってからデリックは自分の予想がどれも的外れだと思い直して一人で笑った。まず血がつながっている可能性はないだろう、たとえ義理だとしてもあり得ない。二人はあまりにも違いすぎる。格好も顔立ちも話し方も何もかもが違うが、もっともかけ離れているのは態度だ。シャルロッテがあまりにも多くの言葉を飲み込んで事あるごとに子ウサギみたいに震えるのに対して、ロウ船長はまさしく荒々しい指導者だ。船上の小さなコミュニティーを先導するだけの知識と経験がある。まだ一日しか過ごしていないデリックでもそれはすぐに気がついた。いつだって憎たらしいほど的を射た指示しかしないし、これっぽっちも物怖じしない態度はまさしく船長になるべくして生まれたようなものだ。この船が決して沈まないと言われるのも頷ける。
だがデリックが最初に思いついた理由はこれではなく、あの船長が血が繋がっているだけの親族や家族の義理を果たすとは思えなかったからだ。きっととっくの昔に家族とは縁を切っているはずだ。自分がどれほど稼いでいようが、びた一文も渡さないだろうし、同情や憐憫といった類の言葉をこれほど嫌いそうな人も他に見ない。
ましてや女としてまるで魅力のない体を船長が求めるわけがない。しかしだとするとなおさらシャルロッテの出どころが気になった。
「なんにせよ、ありゃなかなかいい女だ」デリックが呟くと周囲の男たちが山のような反論を口にした。そのおかげでデリックはすぐに事情を察した。
「正気か? おまえは何も知らねぇだろうけどな、あの女は没落貴族の箱入り娘だぞ。それも父親が罪人な上、行方不明で財産も全部没収されてるときたら一文だって望めやしねぇよ! さぁどうだ、これでもあの女の肩を持つって!?」
「没落貴族だかなんだか知らないが、穴は空いてんだからやることはやれんだろ」
ドッとした笑いが船を揺らした。男たちはゲラゲラ笑いながら酒をあおり思い思いに声を上げた。
「世界中のどこを探したってあのガキで満足するのはてめぇくらいのもんだ!」
「だとしたってあの女に手を出したらひどい目にあうぞ。思い入れがあるわけじゃねぇが掟は絶対だ。船長はおっかねぇ人だぞ! 前回はあの鞭打ちで一人天に送ってるんだからな」
「しかしあの掟には抜け道があるだろ。つまり合意の上なら処罰は免れるってわけだ。まぁ、かといってあの娘っ子のケツを追いかけ回す気にゃならねぇが。デリック、てめぇ相当趣味が悪いな」
「何とでもいいやがれ。貴族であることに変わりはないんだろ? だったら話は簡単だ。いいか? たとえ本人が没落していようが何だろうが関係ねぇんだ。ありゃ金の卵だ。ダチでも後見人でも誰でもいいが……とにかく、知り合いの貴族がいる。そいつらに俺を紹介してくれれば一気に社交界への道が開けるじゃねぇか。それで適当な女を見つけりゃ俺は晴れて貴族の仲間入りってわけだ!」
水夫たちは訝しげに首を傾げた。
「血気盛んでいいことだが、あの女に連絡を取る友人なんているかね?」
「少なくともパリアンテのところのお嬢さんは手紙くらいは書くだろうな」
「姉の方か? それとも妹の方か?」
「馬鹿いうんじゃねぇぞ。姉の方は船長にぞっこん過ぎて周りなんて目に入ってねぇよ。ようやく友達が一人消えたことに気づいたころじゃねぇか? 俺が言ってんのはガキの方だ。あの妹はずいぶんシャルロッテをかわいがってたらしいじゃねぇか。まぁ、わからんでもないな。仏頂面に比べたらびくびくめそめそしてた方が愛嬌があっていいだろ?」
「違いねぇ。女は媚びてるくらいがかわいいってもんだ」
そんな言葉はもはや耳に入らず、デリックは思わぬ縁に目を見開き自分の幸運に感謝した。「パリアンテ……ってことはあの女は大商人ビリーの一人娘か! まさかこんなところで出会えるとはな! 俺は運がいいぞ」
「ならこんなところで油売ってないでさっさと媚びを売りにいきゃいいだろ。俺は邪魔だてなんてしねぇからよ。そろそろ待ちくたびれてのぞきにくるころじゃねぇか? ほら、噂をすればお出ましだ」
デリックを探しに、そっと入り口の影から中をのぞいたシャルロッテは中にいる全員が突然自分に注目を向けたものだから驚いて肩を揺らした。いつもなら自分に目も向けないような男たちは下卑た視線は一心不乱に絡みつくように彼女の下半身に向けられ、やがて一人の男が吹き出して笑ってシャルロッテの姿を揶揄した。
「ずいぶんいい格好じゃねぇか。え? 急にサービス精神でも生まれたか!?」と、いわれてシャルロッテは自分の格好を見下ろして顔を真っ赤に染めた。ペチコートを取り払いすべて布に戻してしまったせいでドレスにいつのも膨らみはなく、スカートは足にぴったりと張り付いて足の形が露呈していた。太ももの柔らかい丘陵や鼠径部のくぼみまでもが空気にさらされ、全員の視線がそこに向いているような気さえした。そう思うとなんだかあまりにも恐ろしくて、シャルロッテの左手は自然と首元に動いていつもお守り代わりにしているガラス玉の冷たい感触を求めた。
しかしこんな時に限って大切なお守りは部屋に置いてきてしまった。その事実にシャルロッテは途端に心細くなって、今すぐにでも走って逃げ出してしまいたい気持ちに駆られた。でも、だめよ。こんな人たちに背を向けて逃げ出すわけにはいかない。小刻みに震える両手を力強く握り締め、シャルロッテは毅然として男たちを見つめた――けれどそのブルーの大きな瞳は恐怖と羞恥で小刻みに震え、その健気で無力な姿に水夫たちは嗜虐心で心を震わせた。男たちは示し合わせたみたいに彼女を取り囲み、馴れ馴れしく肩に腕を置いて取り囲んだ。
「貴族さまも意外と大胆じゃねぇか。かまととぶってんのは顔だけか? え? 貴族らしくダンスでも踊ってみろよ。ただしうんとなまめかしくな。それとも俺らが教えてやろうか? もちろんベッドの上でな」
肌に張り付いたスカートを軽く持ち上げられたり、ゲラゲラと笑いながら男が腰を前後に動かしたりするといよいよシャルロッテはいたたまれなくなって顔を真っ赤にしながら叫んだ。自然と声が震えそうになったが、それは大声で誤魔化した。
「だ、誰がそんなこと……! あなたたちみたいなけだものこっちからお断りです」
「だとよ! 聞いたかおまえら! お貴族さまは下層の人間は好きにならないとさ! ほらよ、こいつを誘いに来たんだろ? 行ってやれ、王子さま!」
無数の男に突き出されてデリックは渋い顔をしながらシャルロッテの前に立った。彼女はデリックを見上げて不安と心配と恐怖ですがりつくような目をしていた。船員たちに馬鹿にされるのはむかつくし、シャルロッテが辱められようとなんの気持ちも抱かないが、その瞳だけは何か男心をくすぐるものがあった。
それに完璧なドレスを身につけているときには気がつかなかったが――デリックはシャルロッテのなりを一瞥して目を細めながら眉をあげた。なかなかこうしてみると女らしい体をしているじゃないか。足の柔らかいふくらみを想像してデリックは口元に薄い笑みを浮かべた。それに、いずれこの女の財産もすべて俺のものになるのだ。果たしていくら残っているのかは知らないが、一シリングも残さずにしぼりとってやろう。それに拾ってもらった恩もある。少しくらい助けてやってもいいか。デリックは恩を仇で返すような計画にほくそ笑み、そうとは知らないシャルロッテを極めて情熱的に抱き寄せ、船乗りたちから引き離すように肩を抱きながら廊下へ出た。変なことを吹き込まれて計画を邪魔されるわけにはいかない。
シャルロッテは二人の距離が近いことに今度は違う意味でドキドキし始めた。
「シャルロッテ! 何もこんなたまり場みたいな場所にこなくたってよかったのに!」
「でも、遅かったから……。何かあったのかと思って」
「それにそのドレスは一体どうしたんだ?」デリックの瞳が自分の下半身に向いていると思うとどうしようもなく顔が熱を持った。
「包帯を作ってたのよ。綺麗な布があまりなかったから……。ところで一体何の話をしていたの?」
船乗りたちは食堂の中から口笛を吹いて二人をとことんまで冷やかした。
デリックは背後で笑い合う男たちを形式だけにらみつけてシャルロッテに偽りの笑顔を向ける。彼女の純真な眼は疑うことを知らないようだった。都合のいいことに。
「もう少し君を丁寧に扱えって抗議していたところさ。ほんとうに、何もこんなところに顔を出さなくたってよかったんだよ。あと数分もしたら向かおうと思っていたんだ。本当にね。いや、でもよく考えてみれば君が来てくれて助かったよ。何しろあいつらときたらあまりにも君を侮辱するものだから、あと数分もしないうちに殴りつけて騒ぎになってもおかしくなかった。本当にね。さぁ、いこう。遅くなって悪かった」
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