7-4

 元々小さな部屋は男女が二人で入るにはかなり手狭だった。シャルロッテはベッドに腰を下ろし、テーブルの方に目をやってそこにお守りのガラス玉のネックレスが置いてあるのを確認してようやく肩の荷を下ろした。本当にあれを家から持ち出せてよかった。宝石ではなくガラス玉を贈った母はきっとお転婆な幼子に宝石なんてまだ早いと思ってのことだろうが、今から思えばあの判断は大正解だった。おかげで誰にも回収されることなく今でも大切なお守りは手が届く距離にある。

 それに水夫たちに混じって一日働いたというのにデリックの調子も思ったよりも良さそうだ。平気だと告げた彼の言葉は強がりではなく事実なのだろう。そう思うとひとまず心の中を安堵あんどが満たした。

「さぁ、僕は逃げも隠れもしないよ。君の好きなようにしてくれ」

 デリックは椅子に座ると薄汚れた布が巻かれた腕を投げ出した。「もちろんそのつもりです」シャルロッテは自分の服を切り裂いてつくった包帯をその腕に巻き付けた。傷はかさぶたになってこんもりと盛り上がっているだけでもう血は流れていなかった。よかった、お母さまの時とは違う。あのときは何日たっても傷がよくならず膿がたまっていた。油断は禁物だけど、おそらくあと数日もすれば傷口も完全に塞がるだろう。

「優しいんだね」

「そんなことないわ」シャルロッテはデリックの言葉を軽く否定した。

「いいや、君は優しいよ。自分でなんと言おうとね。なんたって、見ず知らずの男にここまでしてくれるんだ」

「心配性なだけよ。でも、ありがとう。そう言ってもらえるとうれしい。本当よ。だってあんまり言われたことないんだもの」

「本当に? だったらその連中は目がおかしいに違いないな」そんなこと言ったらアナベル夫人が鼻を膨らませてかんかんになるだろうと思うと思わず小さく笑みがこぼれた。

「それにね、自分でも優しいだなんて思ったことないの――本当だってば。騙す必要性がないでしょ? わたし、正直だとは思ってるわ――出会ったばかりの人にこんなことをいうのもなんだか変な話なんだけど、わたし、いつも世界から切り離されているような気がするのよ」

「切り離されている?」

「そうよ」栗色の瞳には魔法がかかっているに違いない。そうでもなければどうしてこれほど心が穏やかになって心の内側をさらけ出したくなるのだろう? おそらく、これは期待なのだ。この人ならば自分のどうしようもない弱みまで認めてくれるだろうという期待。そしてもちろんデリックはどんな打ち明け話であろうと二言目には慰めを与えてくれる。涙すら流しそうな優しげな表情の下でほくそ笑みながら。

「わたしの周りで起こることはね、全部わたしが関与できないところで起こるの。いつも除け者にされている気分よ。この船に乗ったのだってそうだし、港にやってきたのだってそう、それから今だってそう。この船がどこにいてどんな恐ろしいことをしようともどうしようもないの……でもあまりにそんなことが続くからいつからか口に出すのも面倒になっちゃった。あなたはそう言ってくれるけどね、でもわたしの評価はみんなが言う言葉の方が正しいのよ。わたしは何もできないの。お母さまが亡くなったときだってただ見ていることしかできなかった。それに――」一瞬、父のことを言おうとして口をつぐんだ。港の人間は全員父のことを極悪人だと罵ったけれど、この人はなんていうだろう。もしも父を非難するようならば心を閉じなければいけなくなる。それが恐ろしくて、シャルロッテはあえて言葉を濁した。

「時々思うわ。使命も放り出してこんなところで何をしているんだろうって。その上、意気地なしですぐ何も言えなくなっちゃう――こんなこと聞いたところでどうしようもないわよね」

「そんなことないよ。僕は君のことが知りたいんだ」つまり強い自己嫌悪と無力感にさいなまれているってわけだ。デリックが思うにこれほど解決しやすい悩みもない。こういう女にこそ、まさしくデリックは阿片アヘンのように強い効力をもたらすものだ。

「だけど君が自分のことを追い詰めるのは見ていられないな。きっと君の父上だってそんなことは望まないよ」

「誰から聞いたの?」シャルロッテは顔を上げて首をかしげた。その程度で動揺するデリックではない。

「さっき水夫からね。知られたくないことならすまなかった」

「ううん、全員知ってることだから」だけど、どう思ったのだろう。シャルロッテが不安そうにその栗色の瞳をのぞき込んだのを合図にデリックは彼女の小さな手を左右から力強く握った。

「だが僕には信じられないんだ。君みたいな心優しい人の父親が罪に手を染めるなんて」

「そう言ってくれる人に出会ったのは初めて! そうよ、わたしもそう思うの。ううん、ほとんど自白するような言葉も聞いたの。お父さまは無実なのよ。それを知っているのに……」それなのに、やはりわたしは何もできなかった。それで諦めて、義務も家も何もかもを捨てて逃げ出すようにここにいる。わたしはあれほど愛しているお父さまを、あれほど愛してくれたお父さまを忘れて見殺しにしようとしているのだ。なんて親不孝な話だろう。

「話を変えよう。それで、君はこれからどうするんだい? 向こうに誰か頼れる人でもいるのかい?」

「いないわ。それにお金もほとんどないの」

「形見の宝石とかは?」デリックの瞳がきらめいた。

「たくさん残してくれたけど、全部持って行かれちゃったわ」あらためて口にするとすさまじい絶望感が襲った。今の生活も苦しいがこれはまだ序章に過ぎないのだ。その上、船を下りたなら一人で生きていかなければいけない。だからいい加減強くならなくてはいけない。いつまでも守られているばかりの娘気分で居てはいけないのだ。寂しくとも、だって、お父さまはもう――まぶたが拒むように痙攣した。

「でもきっと海外口座があるはずですよ」デリックは明るく口にした。

「海外口座?」

「そうですよ! 大規模な商人だとすればそれはもうきっと確実に! 何度も海を渡ってたというのなら間違いなく他国に口座があると見て間違いない」

 それはシャルロッテにとってもデリックにとっても希望の言葉だった。

「けれどきっとそれも奪われた後に違いないわ」

「いいや、きっと無事ですよ。本人か親族でもない限りそう簡単に中身を渡すようなもんじゃないし、国が変われば強要もできないはずだ。そうじゃなきゃ銀行の意味がないだろう? もちろん立派な娘である君の一筆でもあれば話は別だよ」デリックは内心でつぶやいた。だからこそ、この女の協力が必要なわけだ。

「当然君に相続する権利があるはずだ。そうすれば君は若くして財産持ちだ! 不安なようなら僕が代理人として取り合ってあげようか?」

「せっかくの提案ですけど……遠慮しておくわ。わたしは父がもうこの世にいないなんて思いたくないの」それに財産が手に入るよりも父が帰ってきてくれた方がよっぽど嬉しい。デリックは心の中で舌打ちしたがそんなことおくびにも出さずに続けた。

「ああ、僕ももちろんそう思う。それが一番だ。それにしてもシャルロッテ、君は本当に父上が大好きなんだな。きっと君に似て優しくて立派な人なんだろうな。何か話してくれ」

「もちろんです」それからシャルロッテは喜々として父のことを語った。デリックはシャルロッテの話を黙って聞いて一言感想をこぼした。

「話を聞いてわかったよ。君は父上を愛しているんだね。それに、さぞ立派な人なんだろう」

「そう! そうなの、お父さまは本当に立派な人なのよ」途端にシャルロッテの瞳から光が消えた。「だけど……わたしはただ逃げてるだけ。きっと本当に立派で勇気がある人なら――たとえばロウ船長なら――こんな所で手をこまねいていないで行動しているはずよ……。だけど、わたしは逃げたのよ。人が怖くて仕方がないの……みんなわたしのことを嫌っているような気がするわ。みんな表では心にも思っていないことを言って、裏でとことん痛めつけるのよ」

 さすがのシャルロッテでも自分がどんな言葉を求めているのかわかった。そしてデリックはいつでも甘い毒のように欲しい言葉を与えてくれるのだ。

「シャルロッテ……そんなことないよ。少なくとも僕は違う。君はもう十分よくやってる。君のお父さまだってきっとそう思ってるはずだ。無理しないでいいんだよ。泣きたいなら泣いてもいいんだ」

 温かい腕で肩を抱かれると今まで押し込めていた感情が全て爆発して、瞳から大量の滴となって頬をぬらした。これは都合のいい夢だと薄々察しながらも、シャルロッテはその思考を胸の奥底に閉じ込めて見ないふりをした。どうしてもその言葉が必要だったからだ。

 デリックは片方の腕でシャルロッテの後頭部を胸に押し付けながら、盗賊の目をして部屋の中をぐるりと見回した。飾り気のない女だが宝石の一つや二つくらい持っているだろう。最初デリックは宝石箱を探したのだが、どこにもそんなものは見当たらなかった。その代わりにデリックの目についたのは机の上に大切そうに置かれた青のガラス玉だった。薄暗い部屋の中で窓から差し込む月明かりを反射する様子は遠目に見るとブルー・ダイヤモンドかサファイアのように見えたのだ。閉じ込められた気泡はクラッチに姿を変えて、少し値は落ちるだろうがそれでも売り払えば高値がつきそうな予感がした。デリックはさりげなく机の上の首飾りをかすめ取るとそれをポケットにつっこんだ。

「さぁもう休んだ方がいい。大体、昨日だってあの横暴な船長に殴られているんだから。それに船での生活は慣れるものでもないだろう。おやすみ。シャルロッテ、また明日」

 デリックは部屋の扉を閉めた途端に笑い出したい衝動に駆られた。

「金庫に出入りする権利が得られなかったのは残念だがそれなりに収穫はあったな」デリックはネックレスを手の中で転がして口角をあげた。「まあいい。銀行の方だってじきに首を縦に振らせてみせるさ。もちろんその金はすべて俺のもんだ」デリックはビリー家の財産すべてを奪った気になり、ついに堪えられなくなって、狂人みたいにひどい笑い声をあげながら甲板へと登った。目の前には金庫に眠る宝石やら百万ポンドもくだらない大金が目に見えるようだ。

「それにしたって、この船の連中は大馬鹿野郎ばかりだ! ガキの機嫌を取るだけで一生遊んで暮らせるような大金が転がり込んでくるっていうのに、そのチャンスをみすみす棒に振るなんてな。ま、俺からしたらありがたい話に変わりない。こうなったらあの女の骨のでがらしまで吸い尽くしてやろう」

 デリックはもう一度海に吠えるように笑ってから手を開きネックレスを月に掲げた。ガラス玉は月の光を美しく透過して、まるで本物の水のように澄み切った光を返した。当然数々の宝石を盗んできたデリックはすぐに真実に気がつき、みるみるうちに顔を真っ赤にしてガラス玉を割れんばかりに握りしめ、ついには我慢ならずに甲板に叩きつけた。

「クソッタレめ! あの女、騙しやがったな!」

 その衝撃で綺麗なガラス玉にはヒビが入り、表面はわずかに欠けた。けれどデリックはそんなことまるで気にせず怒りのままにガラス玉を踏みつけにした。それから怒りのままにネックレスを蹴り飛ばすとガラス玉は遠くへ飛んでいって暗闇の中に消えていった。

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