7-5

 デリックのおかげで久しぶりに心地よい眠りについたシャルロッテは目を覚まして愕然として悲鳴ともつかぬ声をあげた。昨日はたしかにそこにあったはずの、命と同じくらい大切なネックレスは忽然こつぜんと姿を消して、使い切れなかった包帯だけが机に残されている。シャルロッテはその瞬間どうしようもない不安に襲われ、慌てるあまり机の上の食器や裁縫道具をすべて床に落として、部屋の中のものをひっくり返して探索を続けたが、影も形も見つからない宝物にシャルロッテは目を潤ませてベッドの上で途方に暮れた。

「一体どこにあるっていうの? 昨日は絶対にここにあったのに」

 何度見直してもネックレスは見当たらない。今までも船が激しく揺れる風の強い夜にはネックレスが知らず知らずのうちに机から落ちて見当違いな場所に転がっていることがあった。狭い部屋であることが幸いしていつもならものの数分もしないうちに見つかるのに、今日は様子が違う。どこを探しても見つからず、まるでこの世界から忽然と姿を消してしまったかのようだ。

 いつものネックレスがないというだけで気持ちはすっかり縮んでしまって、身も心もなんだかみすぼらしくなったような気がした。こんな心持ちでこの海の上を生き抜けるような気にはとてもならない。ペチコートのないぺたんとしたスカートの上から膝を抱えてスカートに顔をうずめると心細さに思わず涙がこぼれそうになった。

 そのときちょうど部屋の扉がノックされてシャルロッテは緊張してわずかに入り口から距離をとった。もしも今声と態度の大きな船乗りたちに脅されたらわけもわからずに泣きじゃくるしかないとしっかり理解していたからだ。せめてラムさえあれば、逆境をはねのける力が生まれたかもしれないけれど――机の上に置かれたコップはいつの間にか床に転がって液体がこぼれていた。だがよく考えればこの船の上でノックなんて丁寧なことをするのは一人しかいなかった。

「シャルロッテ? 大丈夫かい? 何か大きな音がしたみたいだけど……」

 シャルロッテはその声を聞くなり扉を開けて彼の胸に飛び込んだ。当のデリックはといえば昨日の悪事なんてこれっぽっちも覚えていなかった。

「デリック……どうしよう! わたしのネックレスがないの! たしかに昨日はあったはずなのに……」

 シャルロッテの声は今にも泣き出しそうで、デリック胸に押しつけられた両手は固く握りしめられてわずかに震えていた。彼女のその態度にデリックはわずかに動揺した。シャルロッテの態度はまるでこの世に二つとない家宝でも盗まれたかのようだったからだ。

「もしかして、相当価値があるものだったりするのか?」デリックの声は真剣味に満ちあふれていた。だとしたらまずいことをした! 今もあの場所に転がっていればいいが……。

「ううん、ただのガラス玉よ。だけどわたしにとってはとても大切なものなの……。それなのに……」シャルロッテはしゃくり上げながら涙を拭った。デリックはシャルロッテのことを慰めながら内心ではほっとして安堵の息をついた。やはり俺の審美眼に間違いはなかった。

「どこかで落としたんじゃないのかい?」

「そんなはずないわ。昨日たしかに外したもの」シャルロッテはだんだん冷静になって心の中でつぶやいた。「そうよ、絶対におかしいわ。昨日の記憶は鮮明にあるのに、目覚めたらネックレスだけがなくなっているなんて。それに何よりおかしいのはネックレスだけがなくなってるっていうところだわ。部屋だって荒らされた痕跡はなかった」

そうして考えているうちにシャルロッテの頭には至極当然の疑惑が浮かんだ。

「……もしかして、まさか、デリックが?」シャルロッテはその疑惑にハッとして首を振った。まさか! とんでもない話だわ! しかし心に立ちこめた霧は晴れるどころか白さを増していく。あり得ない、だって今だって優しくわたしのことを慰めてくれているのに。一抹の罪の意識もなく、そんなことできるもの? あり得ないわ、きっとあの人は高潔な人よ。もし仮に魔が差したとしたって、罪をそのままにして安らかに朝を迎えられるような人じゃないわ。だけど――シャルロッテは不安そうな面持ちでデリックのことを見上げた。デリックはその疑惑の瞳にいち早く気がつき、極めて冷静を装って口を開いた。

「……こんなことを言って怯えさせたくないが……実は昨日の夜、君の部屋に男が入っていくのを見たんだ。もしかしたらそいつが――」もちろん嘘だがシャルロッテはその言葉を真に受けて青い顔をした。「やっぱり、知らなかったのか。もしかしたら君が招いたのかもしれないと思って昨日は放っておいたんだが……他に何か被害は?」

「あれだけよ。だけど誰がそんなことしたの? 早く返してもらわないと……」

「力になれなくてすまないが顔はわからなかったんだ。だけど、これからはあまり外にでない方がいい。今回は何もなかったみたいだが――君はか弱い女性だ」

 デリックは遠回しに言ったがシャルロッテはその可能性に思い至って顔を真っ青にして両腕を抱きしめた。

「君を戦地に送り出すわけにはいかないよ。その宝物は僕が責任をもって探しておこう」

 デリックからするとシャルロッテと船乗りたちとの間に距離がある方が都合がよかった。水夫たちは面白がっているだけで味方というわけではないのだ。シャルロッテの傷つく姿がみたいばかりに真相を伝えられるわけにもいかない。

 そのもくろみは成功した。シャルロッテはデリックの言葉に怯えてその日からほとんどの時間を部屋の中で過ごした。時々外に出るときも船員たちの視線にびくびくして目もあわせずに通り過ぎることがしょっちゅうだった。それでも退屈しなかったのはデリックが夜になれば必ずやってきて相手をしてくれたからだ。

 彼は良き話し相手だった。それに話をするうちにデリックも似たような境遇であることがわかりシャルロッテはますます心を開いた。

「実は僕の父も商人なんだ。とはいっても私生児だけどね。だから君の話はよくわかるんだ。僕も長いこと人に必要とされていない……まぁ、だからって恨んではいないよ。教育だけはきちんと施してくれたんだ」

「ずっと気になっていたことがあるの。フランス語はいったい誰に教わったの?」

「何か変なところがあるかい?」

「ううん、とても上手よ。だけど、時々――びっくりするくらい汚い言葉を聞くから。そんな言葉も教わったの?」

「船に乗っていれば自然と覚えるものだよ。朱に交わればってやつだ」

 もちろんシャルロッテに語った話は口から出任せだった。生まれも何もかもだ。言葉は飲んだくれのどうしようもない父から学び、まともな教育も受けずに人を騙しながら生きながらえてきた。

 二人は毎日顔を合わせ、他愛もない話を語り合いくつろいだ時間を過ごしたが、探してもいないガラス玉が見つかるわけがない。デリックの傷がすっかり良くなったころ、シャルロッテはついに自分の足で捜索にでることに決めた。

 その日の夜、船員たちが皆寝静まったのを確認してシャルロッテは船内を隅から隅まで探し回った。案の定ともいうべきか、この広い船内で小さなガラス玉を見つけるのは砂漠の中でたった一つの砂粒を見つけ出すようなものでまるで見つかる気がしなかった。シャルロッテは何度も不安に襲われ、途方に暮れた。「もしもあれが見つからなかったらわたし……いいえ、きっと見つかるわ」

 最初に探したのは食堂だった。水夫たちは一日のうちかなり長い時間をそこで過ごすからだ。一瞬、船員の私物箱を漁るべきかとも思ったけれどすぐにその必要はないと思い至った。盗まれたにしろ何にしろ、きっと何の価値もないと知ったらどこかに投げ捨てているはずだ。どうか海に投げ捨てていませんように、と祈りながら砲列甲板を探し終えた頃には水平線の空が淡紫色になっていた。

 嫌な予感が頭をもたげたが、それを無視してシャルロッテは甲板にあがった。

 甲板にはロウ船長が一人で立っていた。彼はよく海を眺めている。シャルロッテからしてみれば恐ろしい海なんてものをどうしてそれほど愛しているのか理解できなかったが、どうやら船長にとって海は愛しい妻そのものらしく、海を見つめているときだけは心なしか柔らかな顔をしていることが多い。わざわざ熊の巣穴に突っ込まないように、シャルロッテは今まで一度だって彼の至福のひとときを邪魔をしたことはなかった。そんなことをした日にはきっと恐ろしい船長に逆さづりにされて全身の血液が逆流するまでひどい目に遭わされると確信していたからだ。

 けれど今日だけはその姿を視界に捉えた瞬間思わず飛びつかずにはいられなかった。ロウ船長の浅黒く太い指には青く光り輝くガラス玉が握られ、夜明けの空にかざされていた。それはまさしくシャルロッテが求めていたものだった。

「あなたが持っていたのね!」シャルロッテが大声をあげるとロウ船長はゆっくりと視線を向けた。「まさかあなたが……あなたまでもがそんな人だとは思いませんでした。本当に、軽蔑します。まさかわたしのものを盗むだなんて――」

「ほお、盗まれたのか。それにしても決めつけも甚だしいな。わざわざ俺がこんな物を盗む必要がどこにある」

「言い訳は結構です。犯人を探したいわけじゃないですから。それ――返してください。どうやら商船の物はすっかり奪い取ったみたいですけど、まさかわたしの所有物まで自分のものだって言い張るつもりはないでしょう? さぁ、返して」

「俺の話が先だ」この人はいつだってそうだ。シャルロッテはむっとしたが、ガラス玉を船長が握っている以上どうすることもできなかった。船長は静かになったシャルロッテを見て機嫌よく笑った。それから少し冷静になって聞いた。

「これを見るなり盗んだと決めつけたってことは落としたわけじゃないんだな?」

 今だけはこの悪魔も怖くなかった。大体、悪魔が暴れ回るのは夜だと相場が決まっているのだ。東からゆっくりとのぼってくる聖なる光のことを思えば無類の勇気が湧き上がる。それに、極悪人になんかに屈したくなかった。

「どうせあなたが犯人なのに白々しいわ。でも答えてあげます……殴られたくはないし。間違いなくわたしの部屋にあったものです」

「で、誰か部屋に招いたのか?」

 シャルロッテはギクッとして口をつぐんだ。初日以来一度だってその疑惑が頭に浮かんだことはない。だって彼はいつも力になれなくて申し訳ないと言葉を尽くして謝罪するのだ。そんな人が実は犯人だったなんて有り得るだろうか? それに言っていたではないか。乗組員の誰かが部屋に忍び込んで持ち出したのだと。さっきは勢いあまって船長が犯人だと思ったけれど、デリックが乗組員と言った以上ロウ船長は本当に何も関与していないのだろう。それに、シャルロッテはずっと前からこの船長が誠実であることだけは認めている。だからきっと事実はこうなのだ。誰かが持ち出したあと、甲板に投げ捨てて、それを船長がずっと前から拾っていたのだ。それならデリックに見つけられるはずがない。そうよ、きっと真実はそうなんだわ。でも――。

 彼の名誉のためにもできるだけ顔に出さないように努めたが、ロウ船長はそんなことお見通しだったみたいで彼はそんなシャルロッテの百面相を眺めて腹の底から笑った。

「助けた男に裏切られるとはとんだお笑い種だな!」

「あ、あの人がそんなことするわけないわ!」

「だったら誰がやったって? 俺たちはお前が一文無しで着の身着のままこの船に乗ったって知ってるのに。仮に狙うとしたって貨物庫の方だろう」

「ずいぶんと……推理がお好きなんですね? でも言わせてもらうなら荒唐無稽で幼稚な妄想に過ぎません」とはいったけれどロウ船長のいうことはもっともでこれ以上強く出ることはできなかった。

 ロウ船長は黒い目をギラつかせながらじりじりとシャルロッテに近寄り、シャルロッテはその迫力に気圧けおされるみたいに後ろに下がった。けれどやがて背中に固い壁の感触があってシャルロッテはついに追い詰められた。

「妄想か。好きにいえばいい」

 船長はシャルロッテを壁際まで追い込み、逃げ場をなくすと丸太のように太い腕を壁につけてドンと激しい音を鳴らした。シャルロッテは肩をびくつかせ、どうにか恐怖を押し殺すので精一杯だった。瞳にはうっすらと涙の膜が張った。

「ま、また、わたしのこと殴るつもり? やるならやりなさいよ。怖くもなんともないんだから……」

 殴られるとまではいかなくたって、彼の至福のひとときを邪魔したんだから耳をふさぎたくなるような暴言の一つや二つは覚悟していた。だがロウ船長はすっかり黙りこんでこれぽっちも動こうとしなかった。

「――同じ色だ」

「え?」

 いったい何のこと? と、聞き返そうとしたけれど、ロウ船長はガラス玉のことなんてすっかり忘れてしまったみたいで、シャルロッテの顎を持ち上げて食い入るように潤んだ瞳を見つめている。

 今までそれなりの日数を同じ船で過ごしてきた二人だが、互いにこれほどしっかりと瞳を突き合わせたのは初めてのことだった。朝日の強い光に照らされ、船長の瞳は黒く光り輝き、浅黒い肌はさらに黒く、男らしく彫りの深い顔でじっと視線を注がれると心臓がにわかに脈打ち首筋がじんわりと熱を持つのがわかった。頬は勝手に高揚して、両手に汗がにじむような気がした。

「あの――」これ以上見つめ合うのもいたたまれなくてシャルロッテは控えめに声をあげた。どうやらその声はロウ船長には届かなかったらしい。彼は真面目な顔つきでシャルロッテの髪に手を伸ばして――そのとき手のひらからガラス玉が転がり落ちた。

 シャルロッテはそれを見るなり身をかがめてガラス玉を手にして足早に船長の脇をくぐり抜けるようにして拘束を逃れた。これ以上見つめ合っていたらおかしくなりそうだった。

 シャルロッテは何歩か船長から距離をとって赤らめた顔のまま小さく頭を下げた。なんだか心の奥底が奇妙にうずいて落ち着かない。船長はまだシャルロッテの瞳に視線を向けていた。

「あの、ロウ船長。今日は拾っていただきどうもありがとうございました。その、それじゃあ、おやすみなさい」それだけ告げるとシャルロッテは走り去って甲板を後にした。それから急いで自室に駆け込んで、扉に背中をくっつけた。

「わたし……なんだか変だわ……」

 心臓の奇妙なときめきはまるで収まるところを知らない。デリックの時とはまた違う脈動だ。あのときはただ幼なじみと再会したみたいに心の奥底がじんわり温かくなるだけだった。シャルロッテはいまだに彼の温かさが残るガラス玉を手の中で転がしながら鼓動に身を委ねた。


 次の日、船長は昨日の一件なんて覚えていないかのようにまるでいつも通りだった。あまりにも変わりがないから昨日の出来事はすべて夢だったのかと錯覚するくらい。だがシャルロッテの心臓は彼を遠巻きに見つめるたびに奇妙に脈打って仕方がなかった。いったいあれは何だったんだろう。あの食い入るような視線を思い出すと全身がぞくりと震えた。まるで魅入っているみたいだったわ。

 まさしくロウ船長はシャルロッテの青い瞳に魅入っていたのだ。彼が愛する海の深い青色とよく似た瞳にただ吸い込まれ、涙が波のようにきらめく瞳をただ綺麗だと認めていた。

 シャルロッテの心境の変化に気がついたのは本人だけではなかった。デリックはシャルロッテの奇妙な様子に気がついて気が気ではなかった。昨日まではロウ船長を見かけるなり小動物のように怯えていたのに今日はうって変わってぼうっとした瞳で船長のことを追いかけ回して時折何かを思い出したかのように唇を小さくかむのだ。自分の知らないところで二人に何か進展があったのは明白だった。それに加えてデリックが気になるのは、自分に対する対応が素っ気ないことだ。「この女はともかく、あの船長はかなり鋭いからな。まさか妙な入れ知恵でもされたのか?」デリックはシャルロッテの首にかけられたネックレスを見つめながら頭をひねった。

「シャルロッテ、どうやらネックレスは見つかったみたいだね……本当によかったよ。それにしてもいったいどこにあったんだい?」デリックは目を泳がせながら質問した。「まさか俺が盗んだと感づいたか? いや、このお人好しがそんなこと思うとは思えないな。それに容疑者なら他にもたくさんいるだろう。疑念があったとしても少し丸め込めばすっかり信じ込むに違いない」

「……甲板に落ちてたみたい。ロウ船長が見つけてくれたのよ。それで……」シャルロッテは言いにくそうに目を伏せた。「その……デリック。疑うつもりはないんだけど……」

「まさか僕が盗んだとでも!? とんでもない汚名だ!」

「わかってるわ。言ったでしょ、わたしだって疑うつもりはないの」シャルロッテは慌てて弁明した。「だからどうかはっきり言って。あなたが持ち出したわけじゃないのよね?」

「ああ、もちろん。君なら信じてくれるね?」

「わかったわ……」不可解な点はいくつもあるが、シャルロッテはそれを無理に考えないことにした。それは唯一この船で見つけた味方を疑いたくないという純真な心がそうさせていた。きっといつかこの甘さが自分の首を絞める日がこようとも、今のシャルロッテには信じることしかできなかった。

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