2章
2-1
どうやら予定通り書庫から重大な証拠が見つかったようで、野次馬はいきり立った声を張り上げてもはや収拾がつかない。この場を抑えていたちょびひげの判事はこれ以上は〝商品〟が無事では済まないと判断して二台の馬車を連れて一足先に退散していた。おそらく明日にはすべてが競売にかけられることだろう。
大通りには判事の代わりに新しい登場人物が追加されていた。その人物はシャルロッテが屋敷から出てくるなり誰よりも早く詰め寄った。
「アナベル夫人……」夫人はいつものどぎつい赤色をしたドレスとセットの扇子を唇に当てて口元がにやけそうになるのを必死に覆い隠している。
「まぁ! ミス・ビリー! こんなところで出会うだなんて奇遇ですわね」アナベル夫人の声はかすれている割に甲高くて耳が痛くなった。「わたくし心配していましたのよ。なんでも若い娘さんが裁判にかけられるっていうんですから! こんな話生まれてこの方聞いたことがありませんもの! それで判決はどうなったんですの? じきに息子が知らせてくれるはずですけれど、ここで出会ったのならあなたの口から聞いた方がよっぽど早そうですからね」
「お父さまは――」
「そっちはまさか厳罰が下ったんでしょうね。わたくしはきっと――なんでしたっけ? ええっと、アヴニール号でしたか? あの船と一緒に海に沈んだと思いますけれど、万が一しぶとく生き残っていたとしたって二度とこの国の地は踏んでいただきたくありませんわね。やはり素性の怪しい方はむやみに受け入れるべきではありませんわ。外面はいくら取りつくろえても血筋というのは変えようがないものですもの」最後の方の言葉は父だけではなく娘にも宛てたメッセージらしくシワだらけの顔の中心にさらに深いシワが寄って目が細められた。「わたくしが聞きたいのはそういう話ではありませんよ。死者――ああ、失礼――天に召されたかもしれない方の話なんて興味がありませんから。わたくしが聞きたいのはあなたのことです。いくらあなたが何も知らない無知な子供だと言ってもご自分がどういう処遇を受けることになるのかはご理解してるでしょう?」
アナベル夫人のトゲトゲした言葉を前にするといつだってシャルロッテの喉は引きつって居心地が悪くなる。別に今日が特別ひどいというわけでもないが、アナベル夫人はシャルロッテのことをとにかく目の敵にしていた。
「……心配していただいてどうもありがとうございます。わたしはアメリカに行くことになりました。……どういう建前だったかは覚えていませんけど……」けれど語られない真意はなんとなく理解できた。要は厄介払いがしたくてたまらないのだろう。それに加えてできるだけ苦しめたくてたまらない。
実際、最初に白羽の矢がたったのは何年も前からいがみあい、争い続けている英国だったのだが、英国はノルマンディーの目と鼻の先にあり万が一にでも戻ってこられたら不都合だということでより遠い場所が検討された。そこで候補にあがったのが英国領のアメリカだった。アメリカならばまず自力で帰ってくることは不可能だし、うまくいけば海上の不運な事故によって天からの口封じがあるかもしれない。
「まぁ、そうでしたのね!」アナベル夫人はにんまりとして笑った。「そういうことならよかったですわ。わたくし、少し恐ろしい妄想にとりつかれていましたから。つまり――この際、隠し事はなしにしましょう――あなたが父親の正義を主張しすぎるあまり首をはねられるのではないかとやきもきしていましたのよ。でも、そういうことなら安心しましたわ」アナベル夫人の言い草は立派な人ならば確実にそうしただろうというニュアンスを含んでいた。シャルロッテは痛い部分に触られたとばかりにジッと石畳を見つめた。本当はそうするべきだと自分でも思うのだ。だけど――別にこの選択だって逃げるわけじゃないわ。「何にせよ、あなたならどこでもうまくやっていけるでしょうね。それで旅立ちはいつになるご予定で? ぜひお見送りさせてくださいな」
「それはまだ決まってなくて……でも、本当にお気遣いなく。きっと早朝ですし、アナベル夫人のお手を煩わせるようなことでもありませんから」
「いいえ。きっとお見送りしますわ。みなさんも連れてね」その力強い言葉はまるでこれほど楽しめる機会を逃してなるものか、と言っているかのようだった。「そうそう! それからあの下宿はどうですの? わたくし下宿というのはあいにく経験がなくて。あなたがひどい扱いを受けているんじゃないかとみんなで心配していましたのよ」
ここのところ心ない友だちが妙に増えた。アナベル夫人だって長いことよそ者のシャルロッテを迫害してきたというのに、今やシャルロッテの肩を抱き、まるで実の娘との永遠の別れみたいな有様だ。けれどその瞳は愉悦の心を隠しきれていない。
「まぁ……すべてが今まで通りというわけにはいきませんけど……ところで、アナベル夫人。お父さまについて何かご存じではありませんか? フランスを出る前に少しでもいいから情報が欲しくて……」
「申し訳ありませんけど存じ上げませんね」アナベル夫人は考えることもなく反射的に冷たく返した。「主人も同じように言っていましたわ。どうやらまだ港にも戻っていないらしいじゃないですか。もちろん正規の手続きを踏んでいるならもっと話題になっているでしょう。ですからもしもこの辺で姿を見かけたとなればそれは密入国とか密輸とかのたるいになるんじゃありませんこと? それこそ大問題というものでしょう。それにしても――」夫人は目を細めて意地の悪い笑みを浮かべた。「わたくしはあなたにも善良な市民の心が残っているようで安心しましたわ。てっきりわたくし……もう父親は見つけてあなたがどうにかかくまっているものだとばかり! もちろんわたくしも貴族の勤めとして協力いたしますわ。ええ! ぜひともあの国賊をはりつけにして鞭打ちの刑に処しましょう!」アナベル夫人はシャルロッテの細い指を痛いほど強く握った。夫人の黄土色の肌はシャルロッテの白い肌に妙に映えてグロテスクですらある。続いた言葉は有無を言わせないものがあった。
「それともまさかこの後に及んであの国賊の逃亡を助けたいとでも?」
「で、でも、アナベル夫人。お父さまはきっと無実で……」シャルロッテが震える声を振り絞るとしばらくの静寂が訪れた。それからアナベル夫人がプッと吹き出したのを皮切りに野次馬の中でドッと笑いが広がった。シャルロッテは瞳を閉じてわずかにうつむき、両手を強く握りしめ、続きの言葉は飲み込んだ。けれど左のまぶただけがピクピクとうごめいて異議を主張し続けている。
「でしたらパリアンテさまが嘘をおっしゃっていると? ミス・ビリーはあの由緒正しい家柄のお方がくだらない嘘でわたしたちをだましているとでも? ばかばかしい! それこそ妄想というものでしょう。それにどうやら先ほど決定的な証拠があがったらしいではありませんか。それよりもご自身の奇妙な勘の方が信用に足るといいたいわけではありませんね? まったく気が違ったのかと疑いますわ。それとも不正の証拠があって?」
「そういうわけではありませんけど……でも……」言葉尻はどんどん小さくなり、しまいには空中に霧散した。それを見て夫人は勝ち誇った笑みを扇子で覆い隠した。
「本当に見苦しい。身内をかばいたくなる気持ちも分かりますけれど、あなたが今でも貴族の一員だというのなら二度とそんな言葉を口にしないことですね。ましてや大商人パリアンテさまが嘘をついているだなんて……!」アナベル夫人は吹き出して笑うと今度は高笑いを始めて、その瞳には激しい笑いのあまりうっすらと涙が浮かんだ。
シャルロッテはその態度にとうとう自分が恥ずかしくなってきて、ついに目頭がじんわりと熱くなった。けれどこんな人たちのために涙を流すのは絶対に嫌で、シャルロッテは唇を強く噛みしめた。それこそ負けを認めたようなものだ。証拠はないけれど、だからといって自分の指摘が間違っているだなんて思わない。
そのときアナベル夫人の高笑いが響く大通りに焦げ茶色の毛並みのいい牝馬にまたがったミスター・パリアンテが通りがかった。彼は馬上の高いところから群衆を
「これはこれは。みなさんおそろいで!」それからアナベル夫人には特別な挨拶があった。「アナベル夫人も元気そうで何よりですな。数マイル先にも届く笑い声だ」
唇を噛みしめていて助かった。そうでもなかったら間違いなく「ざまあみろ」とつぶやいていたところだ。アナベル夫人は真っ赤なドレスに負けないほど顔を一瞬で赤くして小さく咳払いした。
「それは――何しろミス・ビリーがおかしなことを言いますからね。この子ときたら、パリアンテ大商人が嘘を証言しただなんてばかげたことをいうものですから。それに父親は無実だのなんだのと……わたくしも失笑を抑えるのが難しいというものです」
「ほう……それはまた荒唐無稽な話だ。馬車の先導という名誉さえなければみっちりと問い詰めてみたいところでしたな」と、いいながらパリアンテ商人は大通りをトロットで駆けてくる馬車を見つめた。馬車は群衆を蹴散らして進み、しばらくしてミスター・パリアンテの少し後ろで停車した。
それを不思議がって窓からは次女のエーヴ・パリアンテの顔がのぞいた。
「ねぇ、リアーヌったら。みてよ、ロッティがいるわ。まさかこんなところで会えるとは思わなかった! 相変わらずめそめそして……聞いてる? リアーヌったら!」馬車の窓枠に頬杖をついてぼうっと海上に浮かぶ船を見つめていたリアーヌは妹に肩を揺さぶられて渋々陸に目を向けた。
「本当ね。アナベル夫人までいらっしゃるみたい」リアーヌは早口でまくしたてて、じれったいと言わんばかりに腰を半分あげた。ちらりと海の方をみると船はすでに港に入ろうとしていた。「お父さまはこんな往来の真ん中でなんのお話をしてるの?」
「さぁ、知らない。でもロッティと話してるんだったら話題は尽きないわよ。わたしだって一体どういう気持ちなのか一から十まで聞き出したい気持ちだもの」
「ならそうしましょう。わざわざこんなところで話す必要ないわ。家でも港でもどこでも話なんてできるんだから。窓を開けて」
「いいけど……」と、言いながら妹は姉の奇妙な様子に首をかしげた「リアーヌったら何をそんなに急いでるの? ついさっきまでは早く帰りたいだのなんだの言ってたくせに……」
リアーヌは窓枠から身を乗り出して大きな声をあげた。それと同時に抜けるような金髪が風になびく。
「お父さま! おうちに帰る前に港に寄りましょう。わたし、ロウ船長を舞踏会にお誘いするまではつまらないお勉強なんて絶対しませんからね!」
「うそ!」その瞬間、エーヴはシャルロッテのことも忘れて窓に張り付くようにして港をじっと凝視した。「ロウ船長が帰ってきたの!?」
「それは本当か?」
激しい興奮を身に宿したのはエーヴ・パリアンテだけではなかった。先ほどまでこの一大イベントを楽しんでいた野次馬たちも、それからシャルロッテを苦しめることに精を出していたアナベル夫人もすっかり彼女のことなんて忘れて一斉に港に目を向けた。
「あれは間違いなくロウ船長の船でした。だからね、お父さま。わたし早く港に行きたいの。多忙なロウ船長が明後日の予定を入れてしまう前にね。ねぇ、お願いです。きっとお父さまが誘ってくだされば解決するわ。ね? お父さまだってエドワーズさまのことは評価なさっているじゃない。海の男にしては珍しく良識があるとかなんだとかって。わたしどうしてもあのお方とご一緒したいの」
「それはそうだが……おまえ。あの男はたしかにその辺の男と比べれば良識はあるが決して家族をつくるような男じゃないだろう。第一海の男は早死にと相場が決まっておる。おまえだって主人を早くして亡くすのは嫌だろう」
「あのお方がそんなあっさり亡くなるわけがないわ。それにもし悲しい運命にあるとしたって、急いで港に向かわない理由にはならないでしょう? そうだわ、ねぇ、ロッティ! あなたも乗っていけばいいわ。方向は一緒でしょう?」
「そうよ、お父さま! リアーヌの言うとおりよ! 早く行きましょう! ロッティもまさか断るなんていわないわよね! お姉さまからの誘いを断る方がよっぽどシツレイってものよ! それに昼間っていったってあなたの――港の奥まったところにある――下宿なら、酔っ払いに襲われたとしてもおかしくないし!」エーヴはいいながらクスクスと嫌な笑い方をした。
正直にいうのならエーヴはシャルロッテのことを(こういう事情になるずっと前から)嫌いで見下していて、今日だって同じ空間を共にするなんてまっぴらだと思ったが、最後の思い出にシャルロッテのことをいじめてやろうと思ったのだ。「不満があるならいってみたらどう? どのみちあんたは恩も知らないろくでなしってことになるけど! あなたがしばらくいい暮らしをできていたのだってお父さまのおかげなんだから。まぁ結果はご察しの通りだけど――ほら、早く乗りなさいよ! とって食ったりしないから!」
「まったく――口ばかり達者になりおって――」
シャルロッテは表しようもない感情をすべてぶつけるみたいにミスター・パリアンテのことを睨んだ。目つきの鋭い悪徳商人はその視線にすぐに気がついたけれど、そこに悪事がバレるのではという怯えの表情は一切ない。それどころかミスター・パリアンテは挑発的で、顎ひげをさすりながら腕を組み、鼻を鳴らした。
「ふぅむ。アナベル夫人、どうやらあなたの言い分は正しいようだ。こちらのお嬢さんはたしかに奇妙な妄想に取り憑かれているとみた! まったく実にばかばかしい話だ! この分ですと新天地での活動も相当苦労を要するものになりそうですな」パリアンテ商人が場に問いかけると群衆はクスクスと小さく笑いながら首を縦にふった。「それでは、わたしはこれにて失礼いたしますぞ。もっとも同じ場所で再会することになりそうですが……」
それからパリアンテ商人は巨大な体躯をかがめてシャルロッテに小さな声でささやいた。
「どうやら人はより刺激的な方を真実だとする傾向があるようだ。それにしてもまさかこれほどうまくいくとは。はなから人望がなかったと疑わざるを得ないな」
「やっぱりあなたが裏で糸を引いていたのね――このことは――」
「いいから黙っていろ」ミスター・パリアンテは息巻くシャルロッテの腕をきつく握って低い声で脅した。「もっとも、口外したところで誰も信じないだろうがな。おまえも父と同じ運命をたどりたくないなら現実をさっさと受け入れることだ。むしろ頼み込むというのなら使用人として雇ってやってもいい。それとも儲けを分けてやろうか? ん?」
「もしかして父がどこにいるか知っているの?」
「さぁな。しかしどうせ今ごろ海の藻屑だろう。だったら少しばかりわたしの役に立ってもらってもいいというものだ」
シャルロッテの動向は見開かれ、全身が小刻みにわなわなと震え、怒りのあまりブルーの両目には涙が浮かんだ。
「この悪魔め――!」
商人は退屈そうにシャルロッテの手首を放り投げ、つまらないとばかりに吐き捨てて笑った。「好きに呼べばいい。どれほど吠えたって結果は変わらないんだからな。言葉だけは貧民も貴族も平等だ」ミスター・パリアンテはすごみを利かせてから二人の娘たちに吠えた。
「どうやらこの娘さんは精神的にかなり不安定らしい。父親が汚職に手を染めていたともわかればそうもなるだろう。おまえたちが話を聞いてやりなさい」
「もちろんよ、お父さま。だってわたしたちオトモダチだもの。たくさんおもてなししなくちゃね」
馬車の中ではエーヴだけが楽しそうに笑い、シャルロッテは半ば押し込まれるようにして馬車に乗り込んだ。
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