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 屋敷に逃げ込んだシャルロッテはあまりの変わりように愕然としてしまってしばらく動けなかった。家の中はがらんどうとしていて普段よりも二倍は部屋が広く見えた。家の中ではシャツを腕までまくった男たちがぺしゃんこの帽子を頭に乗っけて家具や装飾品を一つ残らず運びだそうとしている。キャビネットやテーブルなんかの大物は四人がかりで――けれど連携がとれていないから三歩進むごとにどこかの角が壁や柱にぶつかっていた。男たちは聞いたこともないような訛りで悪態をつき、まるで恨みでもあるみたいに床に唾を吐いている。

 その中でも一階の中央から四方八方に指示を飛ばす年ごろ四十の憲兵はまるでこの屋敷の主であるかのように偉そうだった。他の男たちとは違って、革をなめしたベストをきっちりと身にまとい、怒号のような指示を次々と繰りだしている。彼は視界の端にシャルロッテを捉えると〝動くな〟と鋭い睨みを利かせた(そんなことをせずとも動けなかったのだけれど)。

 次に多忙な現場監督がシャルロッテの存在を思い出したのは随分後のことだった。

「これはこれは、ミス・ビリー。本日はどういったご用件ですかね? 新装開店の準備は一つの滞りもなく進んでおりますよ」男は長い黒ひげをこすりながらしゃがれた声を発した。それからシャルロッテのなりを一瞥いちべつしてさげすんだ笑みを浮かべる。

「もっともそれを憂いて邪魔しにきたわけじゃあるまいな? 何しろ邪魔だては外の野次馬だけで十分ってもんだ。あいつらときたら今朝から飽きもせずにずっと騒ぎたておって」

「まさか! そのつもりはありません。でも……いくつか回収したいものがあって」

「ほう……少し失礼。おい! おまえら! それは傷つけるんじゃないぞ! それはもう予約済みなんだからな!」

 男が声を荒らげた先には大きな肖像画があった。屋敷に入って一番初めに目につくところに置いてある家族の肖像画は唯一生前の母が描かれているもので、わざわざ旧家から何時間もかけて馬車で運んだものだ。父は酔いどれになるとたびたび古ぼけた肖像画を見上げ、寂しそうな顔をして口の中で恨み言を呟いた。

「肖像画も競売にかけるんですか?」男たちがどうにかこうにか自身の身長の倍ほどもありそうな肖像画を外そうと躍起になっているのをみてシャルロッテは小さく問いかけた。

「財産はすべて再分配しろとのお達しでね」

「ですけど肖像画なんて一体誰が欲しがるっていうんです? できればあれだけは手元に置いておきたくて……」

「そりゃ無理な話ですね。なんたって客が欲しいのはキャンバスと額縁の方だ。何が描かれていようが上書きしちまえば何の問題もない――ほら、サボってねぇでさっさと運びだせ! それで要件はそれだけですかな? だったらさっさとお引き取り願いたい。わたしも多忙な身ですからな――おい、おまえ! それは横にするなよ!」

「いいえ、他にもいくつか。その……階上に上がっても構いませんか?」

「ああ、もちろん。もっともまだ部屋に残っているかは保証しかねますがね」

 屋敷の奥はほこりっぽくて思わず顔をしかめた。階段や廊下からはカーペットも何もかも取り外され、固いむき出しの板が露出している。部屋の奥から次々と思い出の品が運び出され、シャルロッテはそれを避けながら慣れ親しんだ自室へと向かった。

 自室では荒っぽい男たちが二人がかりで、バケツリレーの要領で私物を運び出している真っ最中だった。誕生日にもらった宝石箱が軽やかに宙を舞い、それを男が器用に掴みとる。男たちはシャルロッテの登場に怪訝な顔をした。

「少し忘れ物をとりにきたんです。それはどうぞ持って行ってください。……まだこの部屋にあればいいんですけど……」

「金目の物はこれで最後だぜ」

「それなら残っている可能性が高そうで安心しました」

 部屋に入り、引き出しに手を伸ばすと男はシャルロッテの細い手首をへし折らんばかりに力を込めてつかんだ。

「おおっと、お嬢ちゃん。間違っても直接手を触れるんじゃねぇぜ。まさか〝泣き虫シャルロッテプルニシャール〟に悪さできるほどの肝が据わっているとも思っちゃいねぇが、万が一重要な証拠でも隠されたら文字通り俺たちの頭が飛んじまう」

「だが証拠は書庫の方から見つかるらしいじゃねぇか。嬢ちゃんもそっちを見に行った方がいいんじゃねぇか? まぁ、行ったところで何も変わりやしねぇか」

 シャルロッテは嫌になってきて両手を力一杯握りしめた。

「……テーブルの引き出しの中です。裁縫道具があるはずです……これも押収の対象じゃなければいいんですけれど」

 男は乱雑に引き出しを開き、そのあまりの衝撃から木材が棚口桟たなぐちざんにぶつかる大きな音が響いた。引き出しはほとんど外れかけて空中に宙ぶらりんの状態になっている。裁縫道具をしまった小箱や手紙やお気に入りの詩集は重力に引きずられるように引き出しの手前側に無造作に集まった。

 男はその中から小箱を取り上げ、それをしげしげと見つめると軽く中をあらためてからそれをシャルロッテに投げてよこした。

「いいのか? 階下で威張り散らしてるアイツがいうには家にあるものすべてって話だっただろ」

「構いやしねぇよ。こんな古びた道具を誰が買いとるってんだ。第一商売道具まで奪うのは酷ってもんだろ!」男たちの下卑た笑い声が瀟洒しょうしゃな部屋の中にこだまする。その笑い声はこの綺麗な我が家にはまるで不釣り合いで、悪魔と対峙するよりも恐ろしい。けれどシャルロッテにはのっぴきならない事情があった。 

「それから……」と、シャルロッテは目を伏せながらか細い声をあげた。「その宝石箱の中身も……」

 男たちは自分たちが手にした紫檀の宝石箱をちらりと見ると顔を見合わせてゲラゲラと笑った。

「そいつぁさすがに見逃せねぇな。ただでさえミス・ビリーは倹約家で品物が少ないっていうのによぉ。それに比べて親父の方はすげぇもんだな。あの金庫の重さから考えるに中には相当の金が入ってるに違いないぜ。税金をちょろまかした分の金だ」

「お父さまは……お父さまはそんなことしていません。お願いですからそれを渡してください!」

 シャルロッテは宝石箱に飛びついて手を伸ばしたが、体格が二倍ほども違う男たちにかなうわけがなかった。宝石箱を手にした男はいとも簡単に腕を引いて、そうすると小柄な少女の腕ではどうやったって宝石箱をつかみ取ることなんてできやしない。

「おっと! 油断も隙もない女だ! そもそも宝石なんてその貧相な体のどこに身につけるっていうんだ? ん?」

 未発達な体に視線を注がれると自然と顔の中心に熱が集まり、両腕は反射的にまだ膨らみかけの胸を覆い隠すように動いた。けれどそんな些細な抵抗は圧倒的な力の前には何の意味も持たない。男はシャルロッテの腕をあっさりと引き剥がすとその華奢な体をなめ回した。それだけでなんだかシャルロッテは全身を視姦されているような気持ちになってゾッと鳥肌がたった。

「へへへっ、随分と不満げだな。そう思うなら叫んでみりゃいい。で、誰がお前を助けてくれるっていうんだ? え? 使用人も全員逃げ出してついには実の両親にも見捨てられたっていうのによ。それにしたってビリーお嬢さまともあろうお方が落ちたもんだ――ほらこれが欲しいならもっと下手に出て頼み込んでみたらどうだ? それか、もしくは体でも差し出すっていうなら――」

「おいおい! こんなガキをどうするって!? それほど馬鹿な話もねぇな。こんなガキで遊ぶくらいなら木の棒でも見てた方がまだマシだぜ。で、泣き虫ちゃん。何が欲しいって? ダイヤか? ルビーか? 俺も悪魔じゃねぇ、最後にお別れくらいさせてやろうじゃねぇか」そういいながら男は毛むくじゃらの太い指を小さな宝石箱の中に突っ込み中身をガチャガチャさせた。「チクショウ、このガキ。飾る場所もないくせに一丁前にため込みやがって――ん? なんだこりゃあ。宝石……ってわけでもないな。ガラス玉か?」

 男が青色の球がついた簡素な首飾りを持ち上げるとシャルロッテは目を見開いた。まさしくそれこそがシャルロッテの望みだったのだ。「返して!」はじけ飛ぶようにそれを掴むとシャルロッテは男を力の限り男を突き飛ばして部屋から飛び出した。背後から聞こえる男の罵声を無視してしばらく廊下を駆け抜けて、父の部屋の前まで走るとようやくシャルロッテは足を止めた。立ち止まった途端に全身からドッと汗が流れ、それから先ほどの緊張がぶり返して全身がドクドクと激しく脈打ち始めて心臓がズキズキと痛んだ。両手はいまだに小刻みに震えているけれど、それもコバルトブルーのガラス玉を見つめていれば次第に落ち着きをみせた。

 小さな手の中でまるで宝物のように愛でられたガラス玉はまるで海が太陽の光を反射するみたいに光を屈折させてキラキラと輝いている。球体の内部には空気の気泡があって、それをじっとのぞきこんでいるとまるで自分が水の中を自由に泳いでいるかのように錯覚した。

 これは亡き母が幼いシャルロッテのために買い求めてくれたもので、どこにでもあるような子供向けのお土産でしかなかったけれど、シャルロッテにとっては何よりの宝物だった。それこそ父がこっちにきてから毎月のように買い与えてくれた宝石なんかよりもずっと。母が急死したときも、いじめっ子に泣かされたときもいつもこのガラス玉は寄り添って一緒に泣いてくれた。

 シャルロッテはいつもと変わらない澄んだ青色を見つめながら遠い昔のことを思い出した。

 たしか五つか六つのときのことだ。その日はあまりにも暑い日だった。照りつける太陽は鋭くてまるで突き刺すよう。木の葉の間から差し込む光も肌に当たればやけどしてしまいそうなほど熱くなって、ボンネットもスカーフも何の意味もなかった。ただ日陰で座っているだけでも無性に喉が渇いて全身が今にも干からびそうな夏の日だ。

 森から帰還する父を一番に出迎えるのが生きがいのシャルロッテもその日ばかりは暑さにやられ、いつもよりも早く帰路についた。そのとき青い瞳は森の木々の間に珍しい友だちの姿を捉えた。茶色の光り輝く毛並みに所々白いまだら模様をした牝鹿が幹の間からじっとこちらを見つめていたのだ。数秒ほど二人は見つめ合ってから牝鹿は森の奥へゆっくりと向かっていった。

「待って!」きっとあの牝鹿はそんなつもり微塵もなかっただろうけれど、幼いシャルロッテにはその動きがまるで自分を森の奥に誘っているかのように見えた。それに、鹿は父がたびたび捉えてくる獲物だが、彼らが住み処にしているのは森のさらに奥の方でこうして実際に見ることなんてほとんどなかったのだ。シャルロッテは乾ききった喉のことなんてすっかり忘れ、この牝鹿の子供にでもなったような気持ちで彼女のあとを追いかけた。不思議なことに警戒心が高いはずの彼女も今日ばかりはシャルロッテとつかず離れずの距離を歩いた。実はこの牝鹿も喉が渇いていて四本の足を激しく動かして逃げ出すのも億劫だったのだ。

 それから五分も歩くと涼しげな川辺にでた。川幅は少女の目で見るとかなり広く見えた。どうやらそこは天然の給水所だったようで、森に住む野生動物が一堂に会していた。対岸の丸石が積み重なった浅い岸辺にはリスや小鳥が足まで流水につけながら寄り添って水を飲み、それからこちら側の岸には鹿の群れが水面に首を伸ばしていた。

 川には危ないから近づかないようにと言われていたけれど、この日の暑さはそんな忠告を忘れてしまうほどで――そもそも少女には川の危険性なんて分からなかった。だって兄妹みたいに同じ森で育っている生物たちは夢中になって水を飲んでいるのに、

どうして自分だけ仲間はずれにされるなんてことがあるだろう?

 けれどどうやら人の首は鹿のそれほど長くはなかった。水面をのぞきこんだその瞬間、重心を崩してシャルロッテは水の中に引きずり込まれた。パニックになったせいか足がつかなくて、散々水を飲み込んで――もがいてはみたけれど、体は流され浮かび上がるどころかますます沈んでいく。

 結局どういう経緯で救出されたのかは覚えていないけれど、それから毎晩そのことを夢に見るようになって――それを見かねた母がお守りとして買い与えてくれたのがこの首飾りだった。

 シャルロッテが球体を宙に掲げると曲面には窓の外に広がる海の色が映り込んでより深い青色を示した。頭の中には母の優しい声が響いて、屋敷のあちこちで家具が移動される音も何もかもが意識の外へと消えていった。

「ごらんなさい、シャルロッテ。きれいでしょう? まるで海みたいで……あなたが水中でも呼吸できるように空気がたくさん入ってるものを買ってきたの。もしまた夢の中で溺れたとしても、これがあれば大丈夫。必ずあなたを守ってくれるわ」

 この事件がきっかけとなって今も水は苦手だけれど、あの日のように夢に見ることはなくなった。このガラス玉はシャルロッテにとってまさしく母の愛の結晶だったのだ。

 しばらくの間、思い出に浸っていたシャルロッテだが、ふとガラス玉に逆さになった帆船が映り込みハッとして顔を上げた。開け放たれたドアの向こう側、色あせた窓枠のはるか向こうに広がる海には一隻の立派な船が浮かんでいた。ちょうど長旅から寄港したところらしく、数十人もの船員が一同に甲板にあがって何マイルか離れた屋敷にも聞こえそうなほど騒いでいる。船には無骨な砲台が片側だけでも八門も乗せられていた。見慣れた商船ではない――あれは私掠船〔国王から免許を受け、敵国の船を攻撃し略奪する権利を認められた船のこと〕だ。きっとあの内側には今日も他国の船を襲って手に入れた金銀財宝がうずたかく積まれているに違いない。 

「町のみんなは敵国を貧しくさせて自国を豊かにするあの人たちをありがたがるけれど……わたしにはそうは思えない。こんなの国家ぐるみの略奪に変わりないわ。それも得たお金だって乱痴気騒ぎに使うだけ。それにあの人たちはお金のためならなんだってするわ。そうよ。悪を悪だとも思わないわ。きっと――根拠はないけれど――お父さまはあいつらみたいな連中にはめられたのよ」そう思うとなんだかあの船に乗っている連中が途端に恨めしく思えて、シャルロッテは両手を強く握りしめて悠然と進む船を睨んだ。「それに……わたしは悪の親玉が誰なのかわかってる」

階段を下り、最後に居間を見まわすと先ほどまでそこにあった肖像画はすっかりなくなって、壁には長方形に日焼けしたあとが残っているだけだった。

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