潮風に問う

絹地 蚕

1章

1-1

 ふと顔をあげると港特有の真っ青な空が頭上に広がっていてめまいがした。盗っ人のようにコソコソと下宿を抜け出したのはまだ月明かりが残る頃だったから、それなりの時間はここでぼうっとしていたのだろう。もしかしたら父の帰還を見逃してしまったかもしれないと思ってシャルロッテは船着き場をぐるりと見回したが、やはりそこに見慣れた船はなかった。その代わりに暗黙の了解で父の場所と決まっていたはずの場所には見知らぬスペイン商船がかれこれ一ヶ月も停泊している。

「お父さま……一体何があったの?」

 潮風に問いかけたって答えは返ってこない。

 いつの間にか港も目を覚ましたようで、裏路地に軒を連ねる娼館の女たちは眠たそうな顔で泊まっていった客をお見送りして、酒場や宿屋の主人はよろい戸を開けてまぶしい太陽に目を細め、船着き場で座り込むシャルロッテを見つけると意地悪な猫のような顔をした。

「昨日はずいぶん忙しかったらしいじゃないか。それでついに父親と同じ運命をたどる気になったのかい? ――ああ、怖い怖い! 父親が悪魔に魂を売ったんだとしたら母親は魔女だね。ほら、どうせ家の様子でも見に行くつもりだったんだろ。だったらさっさとおいき! さっき判事さんが憲兵と野次馬を山のように連れて行くのが見えたんだ。うまくやれば金目の物もいくつかくすねられるだろうさ! もちろん、そのときにはきっちり通報してやるけどね。ほら!」

 ほうきで突かれてシャルロッテはしぶしぶ立ち上がった。突然立ち上がったものだから立ちくらみがして照りつける太陽を呪いたくなった。普段なら分厚い灰色の雲に覆われてほとんど顔を見せないくせに心の沈んでいるときにばかりおちょくるように顔を出すのだから――なんてシャルロッテは思ったけれど、それは被害妄想もいいところでこの辺はいつだってこんな感じだし、それがこの土地の売りの一つでもある。

 シャルロッテがノルマンディーに引っ越してからもう八年がたったがいつまでたってもこの激しすぎる日差しは慣れやしない。年中フランスの上に覆いかぶさっている分厚い雲は一体どこに行ってしまったのだろう。きっとこの港には何かの魔法がかけられているに違いない。

 白い雲は一片たりとも浮かばず空はいつだって海と同じくらい青い色をしている。照りつける太陽は容赦なく、海の遠くにはいつだって発達した入道雲が見える。それから適度な潮風が陸に乗り上げ昼夜を問わずに潮風で枯れかけた植物の葉っぱを大きく揺らし、今日もいつものように華やかな貴族たちを乗せた馬車が――今出てきたところなのか、それとも帰るところなのか――広い一本道を悠々と進んでいく。まるでこの通りを馬車で闊歩することが人生で一番の名誉みたいな様子で。それもそのはず、いつだって日当たり良好で、空気が澄んでいて、港にやってくる世界各国の立派な商船やら軍艦なんかを望めるこの近辺は誰もがうらやむ高級住宅街だった。

 だけど大通りを歩きながらシャルロッテが思い出したのはこの住宅街の一角に住んでいたときのことではなくて――というより、言ってしまえばシャルロッテは引っ越し先は気に入っていなくて、八年間住み続けた今だって自分の家のような気がしないし、たいした思い出もない。人生の半分以上をこの土地で過ごしたって、いつだって夢に出てくるのはずっと前に売り払ってしまった旧家の方だった。

 かつての家はこことはほとんど正反対。めったなことでは馬車の一つも通らないような深い森の中にあって、いつでも分厚い雲が空を覆い尽くしていた。住まいの三マイル先には小さな村があって、そこにいくためにも馬にまたがって整備されていない森の中を進まなければならない。森はのどかで、あちこちに野草が生え、鹿やジリスや野生化した豚なんかが歩き回っている。村には三人しか泊まれない宿屋が一つとそれから小さな教会が一つあるだけ。宿屋はいつも閑古鳥が鳴いていて仕方がないのでシャルロッテが三つのときに一階を改装して酒場に作り替えてしまった。

 村にあるものといえばそれがすべてだ。ノルマンディーのようにいつでも人の声がする場所ではなかったし、豪華な馬車も華やかなドレスもなかったけれど、その分近くに住む全員が親戚みたいで困ったことがあればいつだって支え合って生きてきた。

 シャルロッテはしょっちゅう畑に座り込んで、レタスやクレソンの新芽が大きくなるのを見守り、時には野菜を狙ってやってきた野ウサギを追いかけまわして罠に誘導した。考えてみれば同年代の子供なんてあの集落にはいなかったけれど、自然は子供にとって無限の遊び相手だった。母譲りの絹のような金髪を土だらけにして畑に大の字に寝転び、そうして夕方になると父が森から帰ってくる。シャルロッテはこの瞬間が大好きだった。

 父は片手に猟銃を持ち、もう一方の腕で獲物を担いで、愛娘がおしろいの代わりに顔に土汚れをつけているのをみるなり「いつかは貴族令嬢となる娘がこんなに土で汚れおって!」と、怒鳴りつけながらがさつに頭をなでてくれた。父のガサガサした太い指で頭をなでられると決まって髪が絡まってひどいことになるのだけれど、その不器用な優しさが何よりもうれしかった。

 父は小さな食卓を囲みながら口癖みたいに「いつか貴族になったら――」と、繰り返した。今になって思えば、都会に出て娘を着飾るのがお父さまの夢だったのかもしれない。

 だから父は旧友のパリアンテから声がかかったとき、脇目もふらず飛んでいって、このノルマンディーに共同で会社を立ち上げるとまたたく間にこの地区一の大商人となった。その頃には母は病気でどこか遠くに行ってしまったから、シャルロッテはよく分からないままに父の足にすがりつきながらこの港町にやってきた。

 幼いシャルロッテにとってこの土地は退屈な場所だった。庭は旧家の十分の一ほどの大きさになってしまったし、強い潮風を浴びながら育つ植物なんてほとんどない。それに新しくもらった綺麗なドレスは園芸には不向きで、何かするたびに使用人に叱られた。同い年の子供たちは成金の子供だとか言いながら嫌がらせをして、シャルロッテのことを〝泣き虫シャルロッテプルニシャール〟なんて揶揄した。何よりシャルロッテは海が怖くて苦手だったのだけど、豪胆な性格の父はそういう細かいところにはてんで気が回らなかった。特にその頃はアヴニール号にれ込んでいたからなおさら注意散漫だったのだろう――だが、シャルロッテはそんな父を間違いなく愛していた。


 大通りの喧騒はいつの間にかますます大きくなり、いまだに慣れない自宅の前に野次馬が集まっているのを見つけると気分が沈んで思わず座り込みたくなった。パラソルを手にした淑女も工業用油のひどい臭いをまとわせている青年も、とんでもない飲んだくれも、それから通り過ぎる馬車までもがまるでここが観光名所であるみたいに屋敷を見上げて邪推に花を咲かせている。

 鉄製の立派な門は開け放たれ、その前には二頭立ての荷馬車が三台止まっていた。そのうちの二台にはすでに柱時計やキャビネットが積まれ、今も力自慢の男たちが家の中から次々と家具や絵画を運び出している真っ最中だった。彼らを先導するのは立派な身なりの憲兵だ。

「さぁ、退いた退いた! そこのご婦人、一歩後ろへ! ああ、どうも!」

 御者台には昨日裁判で見かけた判事が座っていた。どうやら今日も正義より自分のちょびひげが気になるらしくて、親指と人差し指でずっと形を整えている。シャルロッテと目が合うと判事はただでさえ細い目をさらに細くした。

「これはこれは……ビリー嬢! 昨日はまことに残念な結果になりましたな。わたしとしてもかつての友がかのような悪事に手を染めていたとは――信じがたいを通り越して寒気すら覚えますぞ。あなたもあのような悪党のことはすぐに忘れなさい」

 どうやら相当もうけているようで、ジャケットのボタンはすべて金でできて、カフスには先日購入した金細工のピンが嫌味な老人の金歯みたいにきらりと太陽に反射していた。シャルロッテが思うにこれほどの悪人もそういない。昨日も思ったことだが、こうして光り輝く太陽の下でまじまじと見つめるとなおさら胡散臭く感じた。

「……わたしも残念です。お父さまがいない以上わたしが無実を証明するしかなかったのに」

 あんな裁判、子供のお遊戯にも満たない。最初から結末ありきの茶番だ。裁判に参加した者たちはみなパリアンテの息がかかった者たちばかり。しかもそれを隠そうともせずにテーブルの下で賄賂の金貨を転がしているのが丸見えだった。それに裁判について知らされたのも前日でこちらにはまともな弁護士を用意する時間すら与えられず、父の代理人として参加したシャルロッテが何を言おうと誰も聞く耳を持たないのだから。

「お父さまは無実です。第一、帳簿を見ればはっきりすることです。それなのにパリアンテさんの話ばかり鵜呑みにして、証拠もないのに断罪するなんて――」

「ふん。まぁ、それはあと三十分もすれば書庫から発見されますよ。それもかねてこうして押収しているのですからね。いやいや、それにしてもビリー商人はずいぶんと証拠を隠すのがうまいようだ。お嬢さんも言葉には気をつけた方がいい。もしかすると自室のクローゼットから言い逃れできない証拠が出てくるともしれませんからね。そうなればあなたにも厳罰が下ることになる」まるで判事の気分次第で証拠の場所が変わるかのような物言いだった。「それともいっそのことそっちの方が気が楽かね? 広場を陣取るギロチンは見たことがあるだろう。民も正義が執行されるのを心待ちにしているのだ。あそこでひと思いに頭を跳ね飛ばせば――はっはっは! いやいや、ただの冗談ですよ。奴の大罪は娘の命一つじゃ軽すぎるくらいだ。ハンカチは持ってるな? よろしい……とにかく泣くようなことじゃない。罪人のためにも涙を流すのは優しすぎるってものだからな。それに静かにしていれば同情が集まるというものだ」

 シャルロッテは涙を拭いながら唇を噛みしめた。頭の中にはたくさん言い返してやりたい言葉があるのに、唇が震えてうまく言葉がでない。こんなことなら三つの時の方がもっと雄弁に議論できた。どうやらこの地に越してきて同年代の子供たちの無邪気な悪意にさらされるようになってから、すっかり涙を流して言葉をつぐむのが癖になってしまった。

「だ、だけど……」シャルロッテはすぐバラバラになろうとする単語たちを頭の中で無理矢理つなげてかろうじて小さくつぶやいた。「お父さまが一人で逃げるなんて変よ。それも乗組員もなしに。一人で船を動かすなんてできないし――それに、わたしになにも言わないなんて、あり得ない」

 判事は涙が浮かぶ青い瞳をのぞき込んで勝ち誇ったように笑い大きく手を叩いた。「これは驚いた! どうやらこのお嬢さんはご令嬢よりも弁護士に向いているらしい! 誰かこの泣き虫な弁護士に弁護されたい方はいるかな!」判事が問いかけると野次馬たちの間でドッとした笑いが巻き起こった。いつだってそうだったように、この場にも味方はいないのだ。

 どうやらこの意地悪な男はその反応でようやく腹が満たされたようで、またいつもの薄笑いを貼り付けてシャルロッテに向き直った。

「ところで何か忘れ物ですかな? まだ家の中に残っていればいいが。さぁ、どうぞどうぞ。遠慮なさらずに! 失礼ですが、皆さまあの方のために道を空けて差し上げなさい」その花道はかなり悪質だった。シャルロッテを取り囲む人々は没落貴族をあざけるのに余念がなかった。それから判事の隣を通り過ぎるときには何か意味ありげな独り言も耳に入った。「たった一家族の犠牲で大勢が幸せになるんだ。富はいつも流動させておかなければな。まったく楽しい仕事だ」

 それから判事はいつものようにちょびひげを整えてにやりと悪党のような笑みを浮かべた。「おい! そこのおまえ! 間違ってもその汚い手でそれに触れるんじゃないぞ! こっちの物はすでに買い手が決まっているんだからな!」

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