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 馬車の中に流れる空気はかなり異様なものだった。

 若い娘が三人も乗っているというのにそこにほとんど会話はない。その代わりに妹のエーヴ・パリアンテだけが早朝の鳥くらいのかまびすしさで延々とシャルロッテをからかい続けている。どうやら商人パリアンテもそれに全面的に協力するつもりで、主人の特権を使って御者に「ゆっくり進むように」と指示を与えていた。可愛い長女の願いをむげにするのは心が痛んだが、その長女は馬車の中でうっとりとしながら飽きることもなく海を見つめていた。恋と憧れに支配されたその耳には妹の小うるさい声もまるで届かなかった。それからその声はシャルロッテ本人にも届いていなかった。

 シャルロッテは二人の正面に腰かけ、ずっと青白い顔をして膝に置いた自分の両手をじっと凝視していた。片方の手首は先ほど悪魔に握られたせいで真っ赤に染まっていたけれど、そんなことすら視界に入らない。

「それにしたって寄宿学校に通っていてよかったわね。こういうときのための教育でしょ? 真面目にやってきた成果が出るってものじゃない。わたしは正直全然集中してなかったし、身についたのは社交性くらいのものだけど――そういえばロッティは真面目な割にしょっちゅう鞭でビシバシされてたわね! わたし、一度だってそういう目に遭ったことがないけど……ねぇ、あの頃は本当に楽しかったと思わない? まさか数年後にになっちゃうだなんて誰が想像できて? わたしの大切なお友だちがこんな目に遭うだなんてね! それにしたって一体これからどうやって生きていくつもりなの? 知り合いも親戚も誰もいないところに連れて行かれるだなんて、本当にご愁傷様。言ったら悪いけど、変なご家族を持つと大変ね。本当にわたしが変わってあげたいくらい。わたしも、もしお父さまが悪事に荷担していたらと思うとゾッとしちゃう。そうだ、ルドルフとはどうなったの? まさか白紙に戻ったの? あんなに仲良しだったのに、それも残念ね」

 シャルロッテの頭の中はぐちゃぐちゃでまるで整理がつかなかった。とてもではないけれど処理しきれないたくさんの事柄が頭の中で渦巻いている。「やっぱりわたしの直感は間違ってなかった! お父さまは無実よ。でも、だからってわたしに何ができるの? 誰もわたしの話なんて聞いてくれない。それにお父さまはもしかしたらもう……いいえ、そんなはずないわ。お父さまは生きてる。だけど……だけどわたしにはお父さまの無実を証明する力がない……それどころか身に降りかかる火の粉を払うことすら――」

 馬車はやがて港に近づき、港の異様な熱気と賑わいがシャルロッテの頭痛をさらにひどくした。ただでさえ区画整備が追いついておらず、細くて馬車が通るような道ではないっていうのに、通り沿いにある民家という民家から一目でも船長の姿を見ようと人々が身を乗り出し、馬車は彼らの鼻の先を次々とかすめていく。

 それから酒場からも朝っぱらから酒を飲んでいるような船乗りたちのろくでなしが顔をのぞかせ、店前の酒樽に腰をかけて気だるい営業をしていた娼婦たちも途端に顔をあげていそいそと身支度をととのえはじめた。

 それは激しく高鳴る心臓を必死に押さえ込んでいるリアーヌも同様だった。絹のように細くて艶のある金髪を何度も指でとかし、それからしきりに服のレースや刺繍を確認してほつれているところがないかとか変なところがないかとか何度も妹に問い詰めた。その頬はすっかり高揚して同性の目からみても艶やかに思えた。柔らかな肩は桃の果実のようにハイライトが利いていて、美しいドレスに包まれた胸は握りしめたなら指の間からこぼれ落ちそうだった。歳だってほんの一年しか変わらないというのに、一体なにがこれほどまでに違うのだろう? わたしやエーヴが顔を赤くしたってこれほど扇情的には見えないはずだ。それにもちろんアナベル夫人が顔を赤くしたってこれほど愛らしくは見えないだろう。

 港の異変を察知したみたいに暇を持て余していた商人や宿屋の主人も港につながる細い道に詰めかけ始めると、いよいよ道は人間でいっぱいになって二頭立ての馬車ではにっちもさっちもいかなくなった。

「旦那さま、これ以上は無理だ。馬も怯えちまってびくともしねぇ」御者の言葉にリアーヌは間髪入れずに答えた。

「ならここでいいわ、わたしはここで降りるから。ジャック、ここに止めて」

「リアーヌ、わたしは許さんぞ。おまえはしばらくそこで待っておれ!」

「お父さま!」リアーヌの悲痛な叫びは父には届かなかった。なぜなら突然目の前の人混みが歓声をあげ始めて、まるでモーセの海割りのように人混みが左右に分かれたからだ。手綱をつけられた馬はますます怯えてパニックになって飛び跳ねて三歩ほど後ろに飛び退き、それに合わせて馬車が激しく揺れた。

 けれどそんな中でも恋する瞳はその人を捉えて離さなかった。

「ロウ船長!」リアーヌは馬車が完全に止まらないうちに外へと飛び出した。御者が青い顔をしたけれどそんなことまるでお構いなしだ。幸いにもリアーヌはうまく着地して、船長を見上げたままうっとりして口を半開きにした。

 エドワード・ロウ船長はフランスでは知らない人がいないほどの有名人で凄腕の船乗りだった。

 英国との長い戦争の中で軍事力に劣るフランスは経済的な損害を与えるために自国の船長たちに対して数多くの私掠免許を発行した。しかし有象無象に権利を与えたって何の意味もないように、免許を与えられたほとんどの私掠船は半年もしないうちに英国海軍によって沈められるか捕虜にとられて死んだ方がマシだと思えるくらいの扱いを受けた。歴戦の船長ですら惜しくも命を落とす中、このロウ船長という人物は何十回となく生還して、その上帰ってくるたびに目がくらむほどの財宝を持ち帰ってくる――とあらば船長は英雄のような扱いを受けるもので、時には前線で死力を尽くして戦う兵士よりもよっぽど人々の称賛を受け取った。どうやら今回も山のように金銀財宝を得たようで船長の背後では茶色のほつれた服を着た船員たちが木箱を肩に背負って続々と船をおりてきていた。

それにかなりの伊達男。それだけでご婦人方もご令嬢も三割増しの評価を下した。 その顔立ちはかなりはっきりとしていて瞳と眉が近い。輪郭は面長でえらが張って、肌は長い海上生活によって浅黒い色をしていた。それからいつだってロウ船長は貴族が着るような小洒落こじゃれたシャツに身を包み、開いた胸元からは健康的な肉体がのぞく。腰に巻いたベルトには磨かれたナイフとピストルが輝き、なんと言ったってかき上げられた前髪が顔の右側に流れている感じがなんともいえずセクシーなのだ。

 船長はあまりこの歓迎を快く思っていないようで、面倒そうな顔をしていたがリアーヌに気がつくと眉をあげて、それからそのなりを一瞥いちべつして口元に笑みを浮かべた。

「ミス・パリアンテ。まさかわたしのような一介の船長を覚えていてくださるとは。感激ですね。息災でしたか?」

「ええ……。わたしの方こそまさか覚えていただいているなんて……」父と観衆の目さえなければ抱きついてしまいたい。「あの、ロウ船長。実は……」

「おまえは黙っておれ」

「お父さま! わたしまったく進まない馬車にもひしと耐えました」そう言われてしまうとミスター・パリアンテも口をつぐむしかなかった。リアーヌは父に向けて小さく舌を出してから本題に入った。「実は明後日の夜、わたしの家で舞踏会が開かれるんです。女王さまもいらっしゃるんですけど……それで……もしよろしければロウ船長もお誘いしたいと思って……」

 いつもの何倍も緊張して言葉をつむぐリアーヌを微笑ましく思いながらも、シャルロッテは群衆に交じり、父の敵とばかりに船長と船員をにらみつけた。シャルロッテだってまさか彼らが直接手を下したとは思っていないけれど、直接の関わりがなくたって〝船乗り〟という人種がろくでもない人間であることは間違いないのだ。奴らは自分の利益だけのために罪もない商船を次々と襲って懐を潤わせるのだから。もしかすれば父もその魔の手にかかったのかもしれない――いいや、間違いなく! 

 そう思うとこの熱気はシャルロッテには無縁のものだった。それどころか段々と船長に向けた賛辞が父の失踪を喜んでいるような気がしてきた。

「まるで別人だな」

「なんたってあの女は相当な金持ちだ。それに――なぁ。見てみろよ。ちょうど食べ頃だろ?」

 目の前を通り過ぎる船員たちのすえた匂いにシャルロッテは顔をしかめた。

「エーヴ、わざわざ乗せてくれてありがとう。なんだかお取り込み中みたいだし、あとは歩いて帰るわ。パリアンテさんにもそうお伝えしておいて」

「あら、ロッティも挨拶していけばいいのに! ま、何の意味もないのは確かだけどね! さようなら! お元気で!」

 一人だけ流れに逆らって帰路につくと背後からは歓喜に満ちあふれた友だちの声が聞こえてきた。

「本当ですね? わたし、誰とも踊らずにお待ちしておりますわ――ずっと!」

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