3章
3-1
下宿に戻るとよろい戸を閉めたままの酒場の中で女主人と鉢合わせた。女主人はでっぷりとした腹の肉を抱えて、シャルロッテを見るなり虫でも見るような顔をした。
「なんだい。ようやく出ていったと思ったのに、まだうちに住み着こうっていうのかい。一体いつになったら出て行ってくれるんだか。部屋に戻るつもりなら今日一日は出てくるんじゃないよ」それから女主人はよろい戸の隙間から港の賑わいを確認してブツブツと小言をつぶやいた。「はっ、どうせあいつらも夜通し馬鹿騒ぎだろう。どれだけ稼いでいるかは知らないけどね。一体どんな権限があって寝静まる夜まで馬鹿騒ぎするつもりなんだかね。うるさくて寝れやしない」
この人はいつだってわたしに当たりが厳しいけれどそこだけは気があうわ。
港の保守的な人間たちはみな、家に札付きが住むのを嫌がった。そんな気難し屋の中で唯一、小部屋――それもカーテンもないほこりっぽい屋根裏部屋だ――を貸してくれたのはこの酒場の恰幅のいい女主人だけだった。しかしそれが優しさからくる行動ではないというのは彼女の態度をみればわかることだ。彼女はいつもシャルロッテに当たりがキツかったし――おそらく生来の性格もあるのだろう――下宿として貸し出している酒場の屋根裏部屋に高級ホテル並みのぼったくり価格を提示して、顔を合わせるたびにとんでもない量の小言が口から飛び出し、酒場に客がいるときは姿を見せるなとはっきり言い放った。
けれどそんなこと序の口にすぎない。たしかに女主人の心ない言葉も心を傷つけたけれど、客商売である以上仕方がないと思うものもあったし。シャルロッテが本当に恐れているのは酒場の主人の方だ。
酒場の主人はその妻ほど口うるさくもなかったけれど、客と一緒になって酒を飲んだ日の深夜は必ず屋根裏部屋を訪れる。直接何をしてくるわけでもないが、ドアのところからじっとシャルロッテを視姦するのだ。初めてそれに気がついたときは思わず悲鳴がこぼれそうになったけれど、もしも気がついているとしれたらひどい目に遭わされそうで必死に寝たふりをすることしかできなかった。一回だけは腕に触られて思わず目を開けてしまったけれど、酒場の主人は悪びれもせずに舌打ちだけして寝室におりていった。
それをのぞけば基本的に関わろうとしない二人だが、たった一度だけ夕食のあとに慌てた様子でシャルロッテのもとを訪れたことがある。ノックもせずに飛び込んだ女主人のその手には一通の上質な封筒が握られていた。どうやら中身も確認せずに飛んできたらしくて、手紙にはまだ封蝋もついているままで、ピエロの帽子のように三方向に房があり、その根元を束ねられた下側からいくつかの花びらが生いしげっている。アイリスの花をモチーフにしたその封蝋は見覚えがあった。
「王室から? わたし宛てにですか?」
女主人は言葉を失って何度も縦にうなずいた。「さっき届いたんだよ。こんなものが届くなんて……まさかあたしたちについて何か書いてある訳じゃないだろうね? さぁ、早く開けて読んでみとくれ――どうだい? 一体なんだって? まさか王族がこのしがない酒場にくるなんてことないだろう? さぁ、ほら、早くなんとかいっとくれ!」
慌てふためく女主人に対してシャルロッテは冷静だった。どうやら手紙の内容は長旅の安全を祈って女王さまからありがたいお言葉を賜ることになったから、明後日の昼に使いをだすというものだった。手紙によればとうとう旅立ちの日付も決まったらしい。それも併せて当日に伝えるとのことだった。シャルロッテが冷静に手紙を要約して告げると女主人はようやく心を落ち着けて「あんた……本当に貴族の娘だったんだね……」と、つぶやいた。このときほどこの女主人から敬意というのを感じたことはない。当然それも長続きはしなかったけれど。
その翌々日、約束の日の早朝。シャルロッテは部屋に一つしかない小窓に庭の木がバシバシとムチのように当たる音で目を覚ました。視界は水の中みたいにぼやけていて、まぶたがいつもの何倍も重い。なんだか寝る前に考えていた未来への漠然とした不安が黒い影となって全身にまとわりついているような気がした。それに寝返りを打つたびに背骨が木の板にぶつかるものだから、体はあちこちを殴りつけられたみたいに痛いし、体もまるで休まっていない。つまりコンディションは今日も引き続き最悪だった。
小窓の外では朝の赤い光が空を染め上げていた。時間はギリギリだ。きっとあと数十分もしないうちに口うるさい大家がトロールのように起き上がって(わざわざはしごまで登って!)悪口を言いに参上するに違いない。
シャルロッテは重い体を引きずるようにしてベッドから這い出ると、なるべく床をきしませないようにつま先から着地して着替えと身支度を済ませた。細心の注意を払って建て付けの悪い扉を開けておっかなびっくりはしごを下るとちょうど夫妻の寝室がガタゴトと音を立て始めた。ここで鉢合わせたなら「おまえのせいで目が覚めちまった」とか言われることは必至だ。
ろうそくもなしにほこりっぽい廊下を進み、足早に階段を下る。盗人と酔っ払いの対策のために窓にはしっかりとよろい戸がされて、朝だというのに森の中みたいに真っ暗で、シャルロッテは一歩進むたびにテーブルをなぞりながらなんとか入り口までたどり着いた。
「待ちな! シャルロッテ! そこを動くんじゃないよ!」玄関のかんぬきに手をかけたその瞬間階上から怒鳴り声にも似た大家の声が響いた。
「ああ、朝から面倒なことになったわ」シャルロッテは重苦しい顔でいずれ大家が長いエプロンをたくし上げながら降りてくるであろう階段を見つめて長いため息をついた。このまま逃げてもいいけれど、そうすると今夜こそ扉を開けてくれないような気がして、シャルロッテはしぶしぶ言いつけ通りに薄暗い酒場に立ち尽くした。
酒場は昨日の馬鹿騒ぎの名残でどこかから野蛮な男たちの酸っぱい匂いとアルコールとたばこのにおいがした。おそらく壁や床にしみこんでいるのだろう。少し掃除したくらいでは何も変わらないくらいに。一歩進むたびに靴は床に張り付いてペリペリと小気味のいい音を発した。
「お父さまが知ったらなんていうかしらね。また貴族の娘が云々って叱ってくださるかしら?」決して生まれついての貴族ではなかったし、ましてや貴族が柄にあっているだなんて一度たりとも思ったことはないけれどすっかり染みついた習慣で粗雑な暮らしはなんだか心がざわついた。
しばらくするといつもと同じ茶色の薄い布を身にまとった大家がドタバタと音を立てながら階段を下りてきた。あれほど大きく足を動かせば床のベタつきにも気が回らないというものだろう。大家は階段の真ん中でぴたりと足を止めるとじっと暗闇をにらみつけて、暗がりの中にねずみでも探しているみたいな動作をした。何しろ老眼でピントの合わない瞳では暗がりを見通すのは困難極まりなかった。そしてようやくシャルロッテの抜けるような金髪の輝きが舞い上がったほこりと一緒に見えるとフンと鼻を鳴らした。
「そうやってるともう悪霊にでもなったみたいだね。お似合いだよ! なに、ちょいとあたしからも言っておこうと思ったのさ。おかげで今日はなんだか寝不足だねぇ」大家さんは化け物みたいに唇の厚い口を馬鹿みたいに大きく開けて大きなあくびをした。
「一体何をですか?」
「そりゃ決まってるだろう。あんた島流しに遭うんだってねぇ?」それから大家は狂ったみたいにケタケタと笑っていかにも親しげにシャルロッテの細い肩を握った。「あんたそれがどういうことか分かってないだろう。だから王家からの手紙が届いたときも――それから今も――冷静でいられるのさ。そうじゃなかったら自分の命日を知らされて冷静でいられるものか」
大家の目は寝不足のせいなのかそれとも興奮しているのか血走っていて恐ろしい。シャルロッテは顔を引きつらせながらますます声の大きくなる婦人を眺めてわずかにあとずさった。
「命日って……」
「連中のいう島流しなんてつまるところ処刑に変わりがないんだ。あたしゃ長いことこの港に住み着いてきたがね、港を出てすぐに海に捨てられる罪人を山ほどみてきたよ。教えてやろうか、まず罪人は泳げないように手の健を切られるのさ。ちょうどあんたの部屋の小窓から見えるんだよ、船の甲板に赤い血がばっと広がるのがね」
大家はシャルロッテの細い手首を力強く握り、青い血管を親指でぐいっと押した。まるでおまえも直にここを切られるといわんばかりに魔女のように長い爪が皮膚に食い込む。大家の両手はシワだらけで、所々に毒にむしばまれたかのような茶色いシミがあり、浮かんだ血管がドクドクと脈打っているのがなんだか恐ろしかった。老婆は唾が飛ぶほどの勢いでまくし立てた。
「それから足かせをつけられる。金属でできた無骨な飾りで、二度と陸にあがれないようにするためのものさ。どれほど呼吸が苦しくなったって、どれほどもがいたって体はどんどん沈んでいくのさ! 連れてきた船はずっとそこにいるけれど助けちゃくれないよ。そうして苦しみながら暗い海にゆっくりと沈んでいくのさ! 船に乗っている連中にあざ笑われながらね!」
「や、やめてください!」
シャルロッテは小刻みに震えながら荒い呼吸をした。魂はすっかり幼少期の川の中にとらわれ、思わずふらついて背後のテーブルに手をつく。「大丈夫、大丈夫よ。怖くなんてないわ」シャルロッテはもう片方の手で慌てて首飾りを握りしめ、必死に母の言葉を再生しようとした。けれどそれはまるでうまくいかず、その代わりとばかりに女主人の生々しくて甲高い声ばかりが頭の中で繰り返し再生される。
「ああ、本当にいい気味だねぇ。ついに天罰が下るのさ! 父親と同じところにいくといいよ! さぁ、話は終わりだ! さっさと出ていきな、夜まで帰ってくるんじゃないよ!」大家はシャルロッテの絶望顔をたんと堪能してからその肩を突き飛ばして外へ放り出した。そのままバタンと扉が粗雑に閉められ、すぐにかんぬきが刺される音がして――老女は安らかな二度寝につくのだ――シャルロッテはようやく悪魔から逃げおおせた気になってその場にへたりこんだ。
ガラス玉を握った両手は小刻みに小さく震えて、心臓がバクバクと大きな音をたてている。それからふと手首から赤い血が流れているのに気がついたけれど、今はかまっている余裕もなかった。
「ええ、大丈夫よ。シャルロッテ……大家さんはわたしのことを怖がらせたいだけなんだから――まさかそんなこと起こらないわ。今まで一度だってそんな話は聞いたことがないもの。それにそんな残虐なことが人にできるかしら」
人は悪だと決めつけた相手に対しては強気になるものだと身をもって知っていたけれどそれは知らないふりをした。
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