バーにて 《海里》

「おや、海里くん、珍しいね…いらっしゃい」

マスターは変わらない静かな笑顔で俺を迎えてくれた。


ここは俺が就職するまでバーテンダーの見習いとして働かせてもらっていた小さなバーだ。

 

学生だった俺に事情は詳しくくないままに、マスターは快く雇ってくれた。昼は家庭教師のバイト、夜はバーテンダーで稼いだ。


「……こんばんは…」

「週刊誌見たよ……お客さんが話していてね……」

「……」

俺は黙り込む。


ちょうど客もいない時間だった。

バーの入り口で頭を下げる。

「バーテンダーじゃなくてもいいです。下働きでも掃除でもなんでもします。また…俺を雇ってください」


マスターがため息をつくのが気配でわかる。


「世知辛い世の中だね……」


マスターは言葉を切った。


「君たちはなにも悪くないのに。……君が勤めていた有名企業のような給料は出せないけど、それでも良ければ僕は大歓迎だよ」


顔をあげると、マスターは穏やかな表情でグラスを拭っている。


「……ありがとうごさいます!しっかり働きます」


会社は、形は辞表を出しての「退職」だったから、少量だけど退職金も出た。少しなら貯金もある。

これでしばらくは繋いでいける。


「君はバーテンダーとしても優秀だよ。まあ、今後のことはゆっくり考えたらいいさ。……今度、開店前にでも、妹さんも連れておいで。温かいものをごちそうするよ」


「……あ、ありがとうございます」


マスターの優しい気遣いに胸がじんとする。


冷たい父親の元で育ち、大人への不信感が募る中で、18ではじめて出会えた信頼できる大人がマスターだった。


「……海里くんはいい男だね…」

「……そんなこと…全然ないです。今夜もひどい言葉で妹を傷つけてしまった……まだまだ未熟で…恥ずかしいです」

本当にそうだ。

俺より傷ついたのは彼女のほうだ。

なのに有栖は強くあろうとしている。

俺は……ただ、自分のためにもがいて、もがいているだけだ。

「でもひとりで抱え込むのは良くないよ…君はまだ若い…もっとまわりの年配者を頼りなさい」


「妹さんは……大丈夫?」

マスターは少し心配そうに言う。

俺の顔色を見てとったのかもしれない。

「……なんとか、落ち着いてきました…弟もいますし、最近、頼れる友人もできたんです」


マスターの優しい笑顔に背中を押され、俺は少し笑う。

そうだ、俺は有栖のために生きないと。


「大切に思える人がいれば、どんなことがあってもどんな場所でも生きていけるさ…」


マスターは頷くとグラスに酒を入れはじめた。

グラスを俺の目の前に静かにおく。

「君の新しい門出だ……」

マスターはそう言うと、俺に乾杯の仕草を促した。

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エフ --ありすと、ある兄弟の過去と今と未来-- (仮) 雨の夜 @mayonakanotegami

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