ファスナー 《海里》

なんてね。


全く余裕なんてない。


ただそんな雑魚に有栖を奪われるとは思わないけど、ただ有栖が酷い言葉に不用意に傷つけられないか、心を揺さぶらてつらい思いをしないか、そして、俺たちの歪な関係に気づいて有栖が離れていってしまうことを何より怖がっている自分に嫌気がさす。


俺は有栖を止めることも、閉じ込めておくこともできない。


俺のものだって言いたいと呟けてしまう竜之介のほうが幾分ましだ。

俺のがもっと歪んでいる。

「有栖は俺のものだ」と言って有栖の首筋を噛んだ父親を思い出してしまうのだ。

竜之介は、有栖が絡むといつも余裕がない。それに比べて俺はといえば、兄らしくいなければといつでも余裕があるようにみせようとしているだけ。


お兄ちゃん、背後で有栖が呼ぶ。

「ごめん…うしろのファスナーあげてくれる?」

有栖が背中を向けて立っている。

彼女によく似合う淡いパープルのワンピース。

有栖はワンピースが好きで、外出する時はよくワンピースを着る。


「あれ?今日出かけるのか?」

俺は皿洗いの手を止めて、タオルで手をぬぐう。


目の前に、彼女の白いうなじか見える。

彼女は右手に麻痺が少しあり、うまく手が動かせないことがあるが、大抵のこと自分でやろうとするし、できないときは、竜之介に頼むことが多い。

でもファスナーをあげて欲しい時は俺を呼ぶ。


それは竜之介を庇った時についた背中を傷を彼に見せたくないから。

竜之介がそれを見るたびに苦しくなるのを知っているから。


彼女のうなじから背中にかけてのラインはとてもきれいで、傷痕も含めて清らかでかつ色香が漂っていて、俺は直視しないように気をつけながら髪を持ち上げて、ファスナーをあげてやる。


「今日久しぶりに華ちゃんたちに会うの」

有栖は心底嬉しそうに言う。

華ちゃんとは有栖が普通高校に通っていた頃の友だちだ。


学校を休みがちだった有栖は友だちが多いほうではない。同学年の友だちに会えるのはうれしいのだろう。


「竜之介は?」

「バイトだよ。竜之介は連れて行かないよ、女子会なんだから」

有栖は少し膨れて言う。


時計を見ると3時だった。

新しいカフェに行ったあと、ごはんを食べて帰ると言う。

「送っていくよ」

俺がエプロンを外そうとすると、有栖がそれを制する。


「大丈夫だよ、まだ3時だよ?」

「じゃあ、暗くなったら帰り連絡すること。華ちゃんたちに過保護と言われても!」

「うん」


ひとりで外に出すのは正直心配ではあるけれど二年前にはこんな元気な姿は想像できなかったから、うれしさのが大きい。


なにより今、俺たちを脅かす父親は有栖には手出しできない場所にいる。

出所してからもしばらくは俺たちに近づくことはできないだろう。

できればその間に住まいも移してしまいたい。


有栖との穏やかな生活を壊されたくない。


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