第13話 「 歌姫 」

 そのオペラ女優は有名で(もちろん歌も上手かったけれど)その丸々と太った体型といささか傲慢過ぎる性格で仲間内ではあまり評判は良くなかった。彼女の口癖はこう。

「私はオペラ女優よ。歌とお芝居、これが私の全て。その他のことなんて何の意味も価値もありゃしないわ」

 彼女の所属する劇場にずっと古くから働いている裏方の老人がいた。彼はもう随分年寄りだったが、なにせその劇場の生き字引だったので、仲間はもちろん、彼を知る俳優・女優たちも一目置く存在だった。ところがある日、彼が舞台の見回りをしていた時、床の軋みに気を取られて脇に落ちていた小さな髪留めのピンに気づかず、それを例のオペラ女優に見咎められてしまった。

「あんな目もろくに見えない年寄りはさっさとクビにしてしまえばいいのよ。もし私が踏んで怪我でもしたらどうしてくれるの!」

 老人は自分の落ち度に深く恥じ入って劇場を辞めることにした。周りの者は随分引き止めたが老人の気持ちは固かった。「わしはこの劇場と歌が大好きなんだ。それでこれまでこの仕事に誇りを持ってやってきた。だからこそ今が一番良い潮時だと思うんだよ」

 老人が劇場を去る日。彼が最後の見回りをしていると、あのオペラ女優が歌の稽古をしているところだった。

「ちょっと。何の用?周りでうろうろされると稽古の邪魔なんだけど」

「いや、あんたの立っている辺りの床がこの前から妙に軋んでたものだから気になってね」

「床?」女優が足で床を踏むと確かに小さく軋む音がしたが、それは老人が自分の太った体型を皮肉ったものと思って彼女は俄かに不機嫌になった。

「何にも聞こえないわ。ツンボの空耳でしょ。さ、行った行った!」

「そうかい?じゃ、わしはこれで失礼するよ。あんたの歌が近くで聞けなくなるのはちょっと淋しいが、お互い元気でな」

 オペラ女優は老人の最後の言葉にも鼻で応えると、そのまま稽古を続けた。

「本番が近いのよ。いちいち気にしてなどいられないわ!」周りの者はハラハラしながらもその様子を黙って見ていた。

 そうして老人はみんなから惜しまれつつ劇場を去った。迎えの車に乗り込む時、彼は劇場に向かって小さく投げキッスをした。それはまるで天塩にかけて育てた娘を思う父親のような仕草だった、とみんなは後で語り合った。

 さて、オペラ女優が主演する舞台の初日。いつになく彼女は調子良くその喉を震わせていた。観客の反応も上々。彼女自身、今の自分に感動せずにはいられないほど、その歌声は落ち着きと伸びやかさを保っていた。「芸術の神が降りてきたのよ。ついに私はこの境地にまで辿り着いたんだわ!!!」そう思って彼女がさらに一歩踏み出そうとした瞬間、足元の床がバリバリッ、と云うけたたましい音をたてて抜け落ち、彼女の豊満な姿は楽譜にないアリアと共に観客の前から消えた。もちろん舞台はクライマックスを待たずにして中断、暗転。女優は大怪我をしてそれからしばらく歌が歌えなくなってしまったとのこと。一方、老人は自分が幼い頃育った故郷に戻って、静かに、それでも幸せに暮らしたそうな。そして時々劇場のことを思い、目を細めて懐かしんだ。「人生には歌が必要だ。人間に愛情が必要なようにな」老人はたまに遊びにやってくる近所の子どもたちによくそう語っていたそうだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る