第5話 「 オトナの都合 」

 とある学習塾に通う、自分の気分でしか生きられない中学三年生の〝彼〟。口癖は「僕には僕の都合がありますから」

 そんな彼も普段は一応周囲に合わせてはいるが、最近受験勉強に飽き飽きして周りにちょっかいばかり出している。お陰で少なからず顰蹙を買っているのだが、そのことに気がつく繊細さは彼にはない。

 そんな彼と妙にそりが合わない中年塾講師。「やるべきことはやるんだ!」彼は内心そのオトナの理屈と存在にイラついている。ある時、ファミレスでその講師がえらくすれっからしな格好の女子高生といるのを見かける。そして突然少女は講師を一方的に怒鳴って店を出ていく。唖然とする彼。

 次の日、意気揚々として塾で昨日自分が目撃した話を同級生たちにするが、入試が間近となった彼らには振り向く余裕はない。思わず彼は言う。「みんな、もっと余裕を持とうぜ!」すると皆から猛然とした冷たい視線が彼に注がれる。

「僕らには僕らの都合があるんだ。そしてやらなきゃいけないこともね。君にはそれはないの?!」

 彼は知らぬ間に随分大人びた同級生たちを前に思わず言葉を失った。

 その日の帰り、小雨降る中ひとり歩いて帰る彼のそばに一台の車が止まる。あの塾講師だった。

「先生。先生がよく言う『やるべきこと』って何なんですか?それってそんなに大事なものなんですか?」家まで送ってもらうことになった彼は問う。「皆、『勉強勉強、試験試験』って余裕を失くして…。それって何か大事なものを犠牲にしているじゃないかって、僕思うんです」

 講師はハンドルを握ったまま応える。「同時にそれは一所懸命やってるってことじゃないかい?確かに今の皆には余裕は感じられないかもしれない。でも何かに向かって直向きに頑張ることは決して悪いことではないと思うよ」

「でも…」

「…君、さみしいんだろ」講師は言う。「一緒にワイワイやってきた仲間が、急に遠くなっていく気がしてるんじゃないのか?」

「…」

「それはね…」少年は運転席を見る。「それは仕方のないことなんだ。人間はそれぞれの思いで自分の人生を生きようとする。一旦道連れになっても目的が違えばそこでお別れ。当然だろ。だからこそ今一緒にいる時間を大事にしたいんじゃないか?」その言葉に少年も小さく頷く。「でも、僕は失敗しちゃったなあ。ほら、君が塾でしていた話。あれ、本当なんだ。実はあの高校生は僕の娘。離婚してからも時々会ってたんだけど、分かってはいても今じゃ口うるさいオトナでしかないんだよなあ」

 やがて車は少年の家の近くまで来る。停車する車。ドアノブに手を掛けたまま少年はしばらく考えてから言う。

「先生、落ち込むことはありませんよ。僕だって先生から叱られたこと、怒られたこと全部が嫌なわけじゃないですから。娘さんもそれは同じだと、僕は思いますよ」

 講師は一瞬驚いた顔をしたが、やがて頬を緩めると「そうだといいけどね。じゃ、また明日な。夜ナベすんなよ」と車を発進させた。彼はそのテールランプが通りの角で見えなくなるまで見送った。

「あ~、人生っていろいろあるよな~」彼はそう嘯くと、いつの間にか覗いた一瞬の星空を見上げ、大きく一度白い息を吹き上げた。

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